東日本大震災は多くの子どもたちとその家族とに不安を与えている。一つは地震と津波とによる幼児施設の建物被害に始まる困難と子どもたちとその家族の被災である。もう一点は原発事故による今なお続く放射能汚染による不安である。そこで、教団では、対策本部の下に被災幼児施設担当者会を設置して、この課題に向き合っている。
同担当者会は今まで、建物のこと、また、避難園児保育料補助、一時避難児受入施設への支援、除染費用の補助、被災職員への見舞金などを援助した。また、幼児施設ゆえに公的援助についての助言も行ってきた。そしてまた、幾たびも諸施設を問安し、現状把握に努めてきた。
去る9月16~17日にも東北教区のいくつかの施設を訪問した。担当者会としてはじめて「いずみ」(東北教区放射能問題支援対策室)を訪れ、「いずみ」の取り組みについて特に子どもたちに関わることについて話を聞いた。福島のみならず宮城……
第3回委員会が9月15~16日に行われた。会場は1日目が安行教会、2日目が武蔵豊岡教会であった。いずれも関東教区埼玉地区の教会で、かつて開拓伝道援助を行った問安を兼ねて訪問した。実際に現地を訪ね、いずれの教会でも教会員と共に祈祷会を持つことにしている。
今回の委員会は、甚大な被害をもたらした関東・東北豪雨の翌週に行われた。開会礼拝は、関東教区副議長でもある熊江秀一委員の奨励であった。茨城県常総市にある水海道教会における会堂、牧師館、付属施設の浸水の被害の報告を受けた。また、ボランティアセンターが開かれ、教区としての支援体制を築いているとのことである。関東教区内で度重なる自然災害の被害を受けているが、祈りを大きくする機会ともなっている。主にある救いへとすなどるために網を打つように、様々な教区の連帯を実現させる活動がなされていることが伝えられた。それを受け、皆で祈りを合わせた。
……
9月12日から15日にかけ、伝道推進室主催の福島伝道キャラバンが行われた。教職7名、神学生4名のキャラバンが福島に到着すると、現地の牧師に迎えられ、早速奉仕。二手に分かれ、一つは大平伝道所の礼拝、もう一つは保原教会近隣でのトラクト配布をなした。
翌13日は信夫教会の早朝礼拝に出席した後、各教会に分かれて主日礼拝の奉仕であった。福島地区は保原教会、福島教会、福島新町教会、信夫教会、川俣教会、飯坂教会(午後)、福島荒井教会、福島伊達教会、また伝道応援の講師派遣として磐城教会、郡山教会と土曜日の礼拝も合わせて11教会・伝道所の礼拝で奉仕した。午後は福島地区の卓球大会が福島伊達教会を会場に行われ、各教会より参加者が集まり、教団総会議長杯と銘打って熱い戦いが繰り広げられた。バーベキューを挟んで福島地区合同夕礼拝がなされた。
14日、キャラバンは二手に分かれ、一つは聖光学院中学高等学……
予算決算委員会は第39総会期3回の委員会と9月28日から29日に全国財務委員長会議を行いました。
予算決算委員会の本務は教団の予算案、決算案の作成とその執行にあります。その予算の収入は基本的に教会員の献金です。このことは決して忘れてはいけないことだと心がけています。大きな数字だけ見つめていると、そのことをつい忘れがちになってしまいます。いつも自戒していることです。
現在課題となっている2016年度予算編成に当たっては、そのことにどれだけ留意することが出来るのかが問われました。昨年度は負担金総額を上げないということで予算を組ませていただきました。しかし、教会員数も献金総額も減少する中では、上げないと言われても実質的には上がっているとの声が寄せられました。
確かにそうです。2008年度から2013年度(これが2016年度の負担金を算定する基礎数字になっています)までの……
9月10日までに北関東を中心に降り続いた大雨は、鬼怒川の堤防の決壊とそれに続く幾つかの河川の氾濫をもたらした。
10日の夜、茨城・水海道教会に電話で安否確認をした際には、加藤久幸牧師からも無事を確認していたが、11日未明から徐々に水が上がりはじめ、結果的には会堂が床上30〜40㎝、牧師館は床上50㎝まで浸水した。
この浸水によって、会堂・牧師館の生活用品・電化製品などはほとんど使用不能となり、自家用車も2台廃車にせざるを得なかった。やっと9月27日から、礼拝堂にて礼拝が守られるようになった。浸水被害は会堂・牧師館にとどまらず、隣接する「認定こども園双葉こども園」にも大きく及んだ。5年ほど前に新築した「育ちサポートセンター」、また現在建設途中の保育施設に代わって使用している仮園舎もすべて使用不能となり、園バス3台も廃車となった。
教会の信徒宅も甚大な被害を受けている……
高橋定男氏(無任所教師)
14年5月2日逝去、88歳。54年関西学院大学大学院を卒業、同年大阪津田伝道所に赴任。大阪大道、前原教会を牧会。
高橋幸一氏(隠退教師)
15年9月6日逝去、76歳。東京都生まれ。72年東京聖書学校卒業。同年より泉町、下総旭町、下田、野田教会を牧会し、96年に隠退。
遺族は妻・高橋久世さん。
木村勝則氏(幕張教会主任担任教師)
15年9月17日逝去、61歳。茨城県生まれ。79年農村伝道神学校卒業。同年より小平学園、付知、日野原記念上尾栄光、幕張教会を牧会。
遺族は妻・木村清子さん。
鎮西学院は、1881年(明治14年)10月、長崎の東山手に北米メソジスト教団の宣教師C・S・ロング夫妻によって創設されたカブリー・セミナリーを前身としている。日本語では、『加伯利英和学校』と表記された。ロング宣教師は、当時、長崎で発行されていた『西海新聞』や『鎮西日報』に盛んに生徒募集の広告を出している。英語速習の方法を教授するというものである。
外国人2名、助教1名と日本人教師をスタッフとしており、週5日の夜学も開講している。夜学の謝金は、毎夜2銭だった。昼間部は、英語のほかにも漢文も教授しており、8時30分~12時、 午後は、1時~3時 が授業時間となっており、謝金は、3ヶ月で1円であった。寄宿舎もあり、1ヶ月食費3円50銭とある。
多くはカブリ学校シー・エス・ロングの名前で広告が出されたが、中にはカブリフ学校シー・エス・ロングの名前でも広告が書かれており、明治時代の……
9月14〜17日の日程で行われた韓国基督教長老会(PROK)と大韓イエス教長老会(PCK)のそれぞれ記念すべき第100回総会に出席を許された。両教会の総会日程が重なっていたので、14〜15日はウォンジュ(原州)ヨングァン教会で行われたPROK総会に出席し、16日はチョンジュ(清州)のサンダン教会で行われたPCK総会に出席することとなった。第100回の記念総会であり、海外諸教会からのゲストもそれぞれの総会で60名から80名に上った。また両総会共にゲストのために特別なスケジュールを組み、次世代のリーダー育成、各地域での移民問題、和解と一致、等についてのワークショップを企画するなど工夫を凝らし、総会全体がこれまでの歴史を踏まえながら世界の教会の将来に向き合う内容となっていた。
また両総会の中心となる礼拝では海外諸教会からのゲストも様々な場面に用いられ、聖餐式の配餐や平和の挨拶などにもあ……
古谷道子さんは生まれも育ちも須崎で、結婚してからも須崎に住んでこられた須崎人。家も教会のほぼ向かいにある。ちなみに実家はおいしい干物屋とのこと。
教会学校の小学科がきっかけで教会に通い始めたが、「教会はいい人が行くイメージ」があってしばらく遠のいた時期もあった。30代の頃、「自分は何で生まれたのだろう」その意味を知りたいという思いを抱き、答えを求めていた。ある特伝でペトロの裏切りの話を聞き、人間本来の罪の姿を知らされ、「自分でも(教会に)来られる」という思いになった。ノンクリスチャンの夫の勧めで子どもを須崎教会附属の幼稚園に入園させたのを機会に、教会に戻ってきた。以来、教会では二番目くらいの古株になった。
須崎教会の歴代牧師、また夏期伝道実習で訪れる神学生は、古谷さんの家庭で育てられたという。家が近いこともあり、胃袋はもちろんのこと、夫妻との会話や日常生活の中で成長させら……
この10月、1年前フロリダで逝去されたオールデン・エヴァルト・麻修須(マシュウズ)先生の遺骨を、ずっと遺言されていた通りデリス夫人が眠る境南教会墓地と青山墓地の宣教師墓所に、親しかった者たちが集まって埋葬することができた。
私が武蔵野の境南伝道所に招聘されたのは、今から47年前の1968年末だった。そこに東神大の熊沢義宣先生と教団幹事の麻修須御家族がおられて私は様々な局面で両先生から学び、励まされた。
麻修須先生はシカゴ大神学部から、当時UCBWM(今のUCC、米国組合教会と複数教派との合同教会)の宣教師で、戦前父君が伝道された中国・福州に戦後派遣された。しかし、間もなく文化大革命が起ころうというころ来日し、京都の同志社を経由し東京の日野台教会(室野玄一牧師)を拠点とした農村伝道神学校創設にストーン宣教師らと共働。同神学校の教壇にも立った。以降、IBC/JNAC・CoC及……