【4946・47号】新型コロナウイルス 感染拡大の渦中で 教務教師の声に聞く

木村 良己 《同志社中学校・高等学校》

「間」がある「協育」が「未来」を育む

「明石家さんまはテレビに出ずっぱりだけど、今の子どもには『さんま』がない」と言われて久しい。勉強勉強!で「時間」がない、遊びたくっても「空間」がない、競争競争!で「仲間」がいない。そんな「時間・空間・仲間」という「さんま(三間)」に「手間」を加え、「未来」を生きる生徒たちが勝手に育つ環境を整えておくことが教育者の使命であると考え、十字架の元に力を合わせる「協育(きょういく)」に携わってきた。「間」が抜けていない触れあい、集い、楽しみ、学びに制限が加えられ、「距離」という規範が生じて、フィジカルディスタンスに配慮しながらの現実に直面している。

思えば一年前、学年末試験のさなか急遽休校となり、オンライン授業の日々が続いた。生徒全員がi-Padを備えていたとはいえ、チョークと黒板での対面授業をメインにしてきた者に突如訪れたオンライン授業実践。授業支援アプリ「ロイロノート」を使ってスライドを作成し、音声を入れる。生徒たちは画面に向かって授業に参加し、ノートをカメラで撮って送信ボタンを押す。こちらには全員のノートが画面一面に映し出され、確かに便利だ。これを機にデジタルやロボット導入、ICT環境の整備が広がるのだろう。情報を共有するためには効率的で便利ではあるが、生身の付き合いは難しい。事実、授業の余談・脱線や生き生きとした笑顔は失われた。何か「間」が抜けている。速くできる、便利であるには違いないが、やっぱり協育にはそぐわない。じっくり考え、しっかり選択し、ゆっくり生きて行く。いのちを紡ぐとはそういうことだ。授業を早送り再生したかもしれないけれど、もし早送りしてはならないものがあるとすれば、今の「中高生である」時期なのだろう。

ウイルスがあっという間に世界中を襲い、誰にでも感染リスクをもたらすことを実感した。誰もがみな等しく、この弱い身体を持っていることにも気づかされた。本来ならば、その身体の弱さ、いとおしさを知った者は他者の痛みにも敏感であるはずなのに、現実には社会的立場の弱いところから脅威にさらされている。今だからこそ見える、今だからこそ気づくことを大切にし、他者が直面している問題に自分事として向き合うことの大切さを想う。その意味で「スピードアップ」が求められ「誰が生き残るか?」という現実社会の中で、「みんなで生き残るにはどうしたらいいか?」への転換を促す「スローダウン」の出来事として、この困難な時期に「中高生である」ことの可能性に大いなる希望を託している。「未来」は、社会科の教科書の最後のページにある、歴史年表の右の端っこにあるのではなく、目の前にいる生徒一人一人が「未来」なのだから。

山元 克之 《青山学院高等部》

渇きの中で「真実の言葉」に立ち返る

東日本大震災から10年が経過しました。今なお、避難生活を余儀なくされている方がおられ、また深い傷を抱えたままこの日を迎えられた方がいることを思います。主の慰めを祈ります。

あの時、私は奥羽教区の花巻教会で主任担任教師として仕えていました。未曽有の大災害の中で、先の見えない暗闇が広がりました。私ができたことは、与えられた務めを果たすことだけでした。すなわち、御言葉を語り続けることです。教会の方が御言葉の慰めを求めておられると感じていましたし、何よりも私自身が切に求めていました。

2020年、新型ウイルスの脅威に、世界中が再び先の見えない暗闇に包まれました。私にできることは何かと考えたとき、震災の時、花巻教会の牧師室で考えたことを思い出しました。今までと変わらず、与えられた務めに誠実に励むこと、それが大切だと思いました。

今、私はキリスト教学校(高等学校)の教務教師として仕えています。2020年度の始まりは、他の多くの学校と同様に、生徒は登校することができませんでした。そのような状況下にあるからこそ、いつもと変わらず、平日には生徒に御言葉を届けたいと思いました。キリスト者の教諭の協力をいただいて、毎日短い御言葉のメッセージを書面にして、オンラインシステムを使い、生徒に送り続けました。どの教員も初めてのオンライン教育の準備をしたり、その他にも今までにない教育の形を模索したりしていて、多忙を極める中で、ご協力いただけたことはありがたいことでした。

対面授業が再開された後も今まで通りとはいかず、短縮授業や分散登校、時差登校、あるいは再び休校になる期間などもありました。

礼拝のまもり方もその度に変わりました。全学年が放送を聞きながら礼拝をまもる時期もありました。感染者数が落ち着いていた時期は、講堂に集まる学年と教室でライブ配信を見ながら礼拝をまもる学年を分けたりしながら、その時その時の状況に応じて礼拝の捧げ方を検討しつつ、聖書の御言葉が毎日生徒・教員に届けられるようにと、そのことだけを祈りつつ整えました。

今年度は例年以上に生徒から多くの感想が寄せられました。御言葉に励まされたこと、力づけられたこと、慰められたことなど。生徒も魂の渇きを感じていたのだと思います。そしてその渇きが神の御言葉に出会うことで潤うことを経験したようです。聖書の御言葉は人を生かす真実の言葉であることを改めて強く感じました。

まだまだ先の見えない不安な状況が続きそうです。しかし、いやだからこそ、それでもやるべき一つのことがはっきりしていることが、キリスト教学校のまた教会の強みなのだと思っています。不確かな世論に振り回されるのではなく、どのような時も決して変わることのない確かな真実の言葉に信頼し、それに聞き、また語り、共同体全体がそこに立ち返る。今日もそのことを続けていきたいと思います。

百武 真由美 《遺愛女子中学校・高等学校》

「今、この時にこそ聴くべき言葉」を

新型感染症の影響で生活様式が一変して一年になる。昨年の今頃は全国一斉臨時休校の指示で、卒業式が急遽取りやめになった学校も多かった。あの時以来、学校の予定は大幅に変更を余儀なくされた。ほぼ全ての行事が中止、各種大会も見送りとなった。生徒たちの「やりがい」、「愉しみ」がことごとく奪われてしまい、生徒も教職員も感染症の情報に振り回された。

学校は本来共同の場である。生徒が「共に過ごす」ことに学校教育の本質がある。キリスト教学校が一番に直面したのは、礼拝のために集まることができなくなったことだ。今年度、本校で全校生徒が集まって礼拝できたのはたった2回だけだ。それも時間と距離に細心の注意を払い、讃美歌は短く、大きな声は出さず、あるいは心の中で歌うように促してである。ただでさえ短い学校礼拝が「瞬間芸」と化した。特に新入生は集合する礼拝の経験がなく、礼拝が「皆で共に」捧げるべきものであることをどう伝えたらよいか迷った。

学校は教会より一層、関係者のいのちと健康に責任的でなければならない。そのため教師たちも未曾有の事態に対応することで精いっぱいだった。だからこそ各々の学校での「キリスト教」が日頃どのような立ち位置にあるかが露呈しただろう。

私の場合、コロナ禍の真っただ中で都心の学校から地方の学校へ転任した。関係を築くのにも普段以上に時間と気配りを要し、牧会のスタートラインに立つこと自体に困難を覚えた。そしてマスク越しで互いの顔も知らない中、彼らに放送で毎朝御言葉を語るのは、正直、喜びや感謝ばかりでなかった。だからこそ、これまで以上に「今、生徒たちがこの時にこそ聴くべき言葉」を語ることに力を注いだ。大人以上に十代の若者は見通しのつかない将来に(漠然とでも)不安を感じている。不安のあまり思考することを拒否しているように見える子もいる。その生徒らに、今、この時代、ここに生かされている意味を語り、「あなたを喜び尊んでおられる神さまは、目には見えないけれど共にいてくださる」ことを語り掛けた。すると、放送による礼拝であってもそれぞれの教室で不思議な一体感が生まれるようになった。当初は教室で捧げる放送礼拝では生徒は集中しないのではという懸念が教職員にはあった。けれども生徒たちには「ほんもの」に対する反応力があったように感じる。

教会訪問も中止せざるを得なかったが、ウェブ礼拝を紹介して参加を勧めている。積極的に視聴する生徒が多かったことが嬉しかった。

ウイルスという目に見えないものに振り回されながら、人間はいのちを支配できないこと、この状況下でこそ御旨に従ってたてられたこの学び舎に招かれ、呼ばれてきた意図が神さまには必ずあることを共に信じるよう教えられているように感じている。

【4946・47号】伝道報告 児童養護施設堀川愛生園について

社会福祉法人堀川愛生園 施設長 伊藤 信彦

堀川愛生園の創立は1945年に遡る。三崎町教会の牧師であった山北多喜彦先生が3月の東京大空襲により親を失い、住む家を失った子どもたちが安心、安全に暮らせるようにと、賀川豊彦先生と共に福島県の県南地域東白川郡棚倉町堀川(ほっかわ)の山林に東京で保護した子どもたちと生活するための場所を得る。そこに、教団を通して紹介された初代園長となる神戸周平氏とその家族、三崎町教会の女子青年有志が参加し、同年10月より子どもたちとの生活が始まった。と言っても、材木を切り出す山林の一角に掘立小屋を建てての生活は苦難の連続であったと記録されている。創立から数年後に、後に北海道家庭学校の働きもされた谷昌恒氏も加わり、1948年に児童福祉法に基づく児童養護施設として国の認可を受け、1951年に現在の丸内に移転する。愛生園は創立以来、棚倉町がこの働きを理解し、土地、食料や物資だけでなく労働力の提供に至るまで親身になって協力してくれている。

1965年より谷先生の後を受け飯田進氏が園長となり、2011年までの46年間園長として今日の愛生園の働きを理論的に構築した。愛生園は当初から小舎制養育という少人数(子ども6〜7名)の子どもたちと主たる養育者が共に生活するグループホームという形態をとってきた。飯田先生は愛生園における小舎制養育の基盤を確立されたと言って過言ではない。時代は戦後の経済復興期から高度経済成長期へと推移し、施設に来る子どもたちも大きく変容している。所謂バブル期から始まり2000年以降は児童虐待による保護のケースが入所児童の大半を占めている。実際に21世紀に入り今日に至るまで、全国200か所を超える児童相談所に寄せられた児童虐待相談件数は、今や年間20万件に届かんとしている。

2011年3月の東日本大震災での被災に加えて福島県は、福島原子力発電所の事故により放射能汚染災害という二重の苦しみを経験してきた。震災後の2012年に震災によるダメージもあり、それ以上に築40年強という老朽化の不安により、園舎の全面改築を行った。事業に当たっては、教団を通してドイツのBerliner Mission-swerk より厚い支援をいただいている。また、2013年にはドイツより園を訪問していただき、改築後の園の様子を見ていただき、職員とも交流することができた。その後も、改築事業による借入金返済のため毎年ご支援をいただいている。多くの教団の諸教会からも募金にご協力をいただいている。

東北の片隅で始まった働きが、75年支えられてきたのも、こうして多くの方々のお支えによるものと職員ともども感謝している。

【4946・47号】人ひととき 主の山に備えあり

現在、教会付属幼稚園の園長としての働き場を与えられ、毎日子どもたちと楽しい日々を過ごしている。

クリスチャンホームではなかったが、都内のキリスト教主義の小学校に入学したことが、キリスト教との出会いであった。

4年時に都内から千葉県八千代市に転居。公立小学校に転校した。ほどなくして公立小学校の生活の中でキリスト教への飢えを感じ、自ら八千代台教会に電話をし、教会に通うようになったのが教会生活の始まりであった。また、そのころからクリスチャンホームへの憧れを抱き、キリスト教主義小学校で働くことを夢見るようになる。

受洗前から自信満々に教会学校の手伝いをしていたが、奉仕する中でその自信が打ち砕かれていく。自分は神さまの助けなしには何もできない者である自覚が生まれ、高2で洗礼を受けた。

その後の教会生活はいたって順調だったが、大学卒業後就職したのは地元の公立小学校だった。キリスト教主義の学校ではなかったことが、どこかに心残りとしてあったのかもしれない。

大学卒業直前に結婚をするのだが、洗礼を受けていなかった連れ合いに対し、結婚の条件として受洗を願った。願いどおりに洗礼を受け、憧れ続けたクリスチャンホームという環境を神さまから与えられた。

子育てを契機に小学校の現場から離れるが、40代半ばでの現場への復帰は在籍教会附属の幼稚園であった。これでキリスト教主義の働き場も与えられ、現在の園は2か所目。

苦労がないわけではないが、求め続けたクリスチャンホーム、キリスト教主義の働き場での毎日は、予想通り恵みに満ち溢れている。主の山に備えありの人生に、感謝の人生を全うしたい。

廣田雅子さん 東京都出身、船橋教会員、船橋教会附属シオン幼稚園園長

【4946・47号】信仰告白、教憲・教規に基づく教師論を言葉に

「日本基督教団の教師論」承認に至る経緯

教師養成制度検討委員長 菅原 力

37総会期第3回常議員会(2011年7月開催)は、議長提案により「教師養成制度検討会議」を設置した。検討会議の設置は、日本基督教団における教師養成制度について、これまでの歩みを振り返り、教団の教師養成の現状と課題を検討し、将来の教師養成に向けて提言を作成することを目的としてのことであった。同検討会議は2総会期にわたり検討を重ね、「答申書」としてまとめ、常議員会に提出した。答申書を受け、39総会期第1回常議員会(2014年11月開催)は答申書の具体化を進めるべく「教師養成制度検討委員会」の設置を可決した。同委員会は、答申書に基づく議論を深めるとともに、教団関係神学校を訪問し、教団の教師養成に関する協議を重ねた。神学校との協議の中で同委員会が受けとめてきたことの一つは、教団は教団立神学校および認可神学校に対して、どのような教師の養成を望むのかを示してこなかった、ということであった。それは教団が日本基督教団の教師像を公にしてこなかった、ということである。同委員会は今後の神学校との関係を考えるうえで、また教団の教師養成を考えるうえで、「教団の教師論」を言葉にすることの重要性を受けとめ、委員会として取り組むこととし、検討を重ねた。それは、教団としての教師像を示している日本基督教団信仰告白、教憲・教規に基づく教師論に他ならない。同委員会は41総会期第9回常議員会(2020年10月開催)に日本基督教団信仰告白・教憲に基づく「日本基督教団の教師論」をまとめ、報告した。「教規」における教師論に関しては、今後の課題として残されている。この報告は常議員会で承認されたが、教団三役はこの「教師論」をその内容の重要性に鑑み、議長よりこれを議案として常議員会に提案することとした。

41総会期第11回常議員会(2021年2月開催)は議長より提案された「日本基督教団の教師論」承認に関する件を可決した。

 

日本基督教団の教師論

1.日本基督教団とはどのような教会か

1.1.「日本基督教団信仰告白」(以下教団信仰告白とする)は第一段において、聖書についての告白から始まる。それにより、日本基督教団(以下教団とする)は福音主義教会の伝統を継承しつつ、聖書を「教会の拠るべき唯一の正典なり」と告白し、教団が聖書の基の上に建てられる教会であることを明らかにしている。さらに第二段においてイエス・キリストにおいて啓示され、聖書において証言される神、すなわち三位一体なる神と、 イエス・キリストの救いのわざ、すなわちその贖罪のわざについて告白する。続く第三段においては、義認と聖化は神の恵みのわざであることを告白し、第二段、第三段を貫くのは、神の主権に基づく恵みのわざであることを告白している。

第四段において、教会についての告白がなされる。すなわち、教会は、キリストの体であり、神の救いの御業への参与へと召された者の集いであるとの告白である。教会は、公の礼拝をまもり、福音を正しく宣べ伝え、聖礼典を執り行い、愛のわざに励みつつ、主の再臨を待ち望む。そのすべては、神の主権に基づく救いのわざの中で、御手のうちに進められるわざに他ならない。

 

1.2.この教団信仰告白に立って、わたしたちは日本基督教団教憲(以下教憲とする)を受け取る。

教憲前文第一段において、「聖なる公同教会」について語られる。「神は万国万民のうちからキリストに在って聖意(みこころ)に適う者等を召して、これを聖別し、恩寵と真理とをあらわして、聖霊による交わりに与らしめたもう。これがすなわち聖なる公同教会である。」

教会は、神が一人一人を「キリストに在って」召し、聖別することによって、神の目的のために選び分かたれている共同体である。教会は人間の決断によって結成された団体ではなく、神の招集に拠る共同体である。神は、イエス・キリストにおいて成就した恩寵と真理とを教会においてあらわし、聖霊による父なる神と子なる神との交わりに与らしめ給う。これがすなわち聖なる公同の教会である。

 

前文第二段において、見えない教会、見える教会が語られる。聖なる公同教会は、見えない教会であると 同時に、今ここに地上の教会として存在する。「主イエス・キリストをその隅の首石(おやいし)とし」とは、世にある見える教会が人の目には欠け多いものであっても、主権者キリストの支配のもとに置かれているということである。「使徒と預言者との基の上に建てられ」とは旧新約聖書の言葉の上に立つ教会との意であり、「代々主の恩寵と真理とを継承し」、イエス・キリストを唯一証しする福音を宣べ伝え、聖礼典を守り、主の再臨を待ち望み、神のみ旨を成しとげること、それが公同教会であると語られる。

教団信仰告白に言い表される我は「聖なる公同の教会」を信ずとは、この第二段で現された公同教会を信じ、教会形成を目指すことに他ならない。

 

前文第三段においては、教団という教会の成立について語られる。教団成立以前に存在していた「福音主義教会およびその他の伝統をもつ教会」が1941年6月24日「くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって、おのおのその歴史的特質を尊重しつつ聖なる公同教会の交わりに入るに至った」。その背後には、国家の宗教団体統制の意思があり、国家の権力、圧力が働いていた事実がある。それにも拘らず、日本基督教団という教会は、神によって召された者の集いであり、神のわざによるものである。すなわち、神の召しが、国家の意思を越えて働いていると受け止め、一つの教会として、その使命を果たさせるのは、教会の主権者である神であることを語っている。「おのおのその歴史的特質を尊重しつつ聖なる公同教会の交わりに入るに至った」とは、教団成立時における出来事を語るだけではない。

教団成立前よりの諸教会の歴史的特質を尊重しつつ、一つの信仰告白に立つ教会として、その特質を公同教会としての歩みにおいて活かし、用い、教団という一つ教会に仕え、貢献すべきものとして受けとめるという、教団の現在と将来に関わる事柄として語られる。前文全体を貰き、教憲は教団が公同教会に連なる一つの教会であることを表明している。

 

1.3.教憲前文を受け、第1条においては、日本基督教団という教会の「本旨」が語られる。本旨とは根本の目的と使命である。教団はイエス・キリストを土台とする、キリストの体なる教会であり、教団信仰告白を告白し、教憲教規に立ち、公同教会の権能を行使し、その存立の使命を達成することをもって「本旨」とする。イエス・キリストを首と仰ぎ、キリストヘの信仰を告白する教会に、主の権能である公同教会の権能行使が託される。すなわちその権能行使とは、「聖旨を成しとげる」ことであり、日本基督教団の教会としての「存立の使命を達成する こと」に他ならない。

 

2.日本基督教団の教師論

上記の教団信仰告白、教憲に立ち、日本基督教団の教師像を以下に記す。

⑴日本基督教団の教師は、教団信仰告白で告白され、教憲において言いあらわされた公同教会の一つ の教会である日本基督教団に神により召されて、イエス・キリストの体なる教会に仕える者である。

⑵日本基督教団の教師は、日本基督教団信仰告白を告白する者である。

⑶日本基督教団の教師は、日本基督教団教憲教規に立ち、教憲の示す公同教会を信じ、教会に仕える者である。

⑷日本基督教団の教師は、教会が神の主権的なわざによるものであることを信じ、神に召され、正規の手続きを経て献身した者である。

⑸日本基督教団の教師は、見えない教会を信じ、かつ見える教会がキリストの支配のもとに置かれていることを信じ、仕える者である。

⑹日本基督教団の教師は、諸教会の歴史的特質を尊重しつつ、その特質を公同教会としての歩みのために活かし貢献せしめ、仕える者である。

⑺日本基督教団の教師は、日本基督教団の教会としての存立の使命を達成することに仕える者である。

⑻日本基督教団の教師は、公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと聖餐との聖礼典を執り行い、愛のわざに励みつつ、主の再び来たり給うことを待ち望む主の教会に仕える者である。

【4946・47号】2021年春季教師検定試験 学科試験はレポート、面接はオンラインで

組織神学的な思考の弱さが課題

2021年春季教師検定試験が2月9〜25日の日程で開催された。コロナ禍にあることを考慮し、受験生の安全の確保を第一と考え、オンラインでの試験開催となった。事務局の尽力により、十分な準備がなされ、ズームを用いた試験運営も滞りなく行うことができた。受験志願者も一人の欠けもなく受験できたことを感謝したい。

春季教師検定試験は、この春に神学校を卒業し、各個教会に遣わされていく補教師の試験が中心となる。補教師受験者40名(Cコース継続受験者含む)と正教師4名、教師転入審査1名の受験者が与えられた。

従来、旧約説教・釈義、新約説教・釈義などはレポート提出による試験であったが、筆記試験として課していた教憲教規・宗教法人法、旧約聖書神学、新約聖書神学などもレポート提出による試験とした。ギリシャ語と面接試験はズームを用いてオンラインで実施した。

試験全般に関しては、試験科目の多くがレポート形式となったことにより、参考書などを用いてよく準備されたレポートが多くあった。受験生が誠実に試験に取り組んだことの現れであると言える。面接に際しては事前に、公同教会、信仰告白、教憲・教規、説教、聖礼典を踏まえて召命を述べるようにレポートを求めた。レポート上ではきちんと述べられているにも関わらず、面接では日本基督教団がなぜ公同教会であると言えるのか、十分に答えられない受験者も数多くあった。「教憲・教規」の試験でも問われたが、与えられた召命についてはっきりと述べ、伝道者としての歩みに期待と希望、志を持って証しする受験者があったことは頼もしい。しかし中には自分の召命観を語ることに不十分な受験者もあった。

説教・釈義のみならず他の科目についても共通して見受けられるのは、日頃から聖書に親しんでいないことである。教師試験であるか否かに関わらず、聖書を読むというキリスト者の基本を重んじることが大切である。また組織神学的な思考・論述の弱さも感じる。これは今回の試験に限らず、ここしばらくの受験者の傾向である。

試験について「説教・釈義」のみの報告となるが、聖書の内容を丁寧にたどっているという点では好ましいレポートが多かった。一方でたどった聖書のみ言葉から、説教者自身が何を受け取り何を伝えたいのかはっきりしないものが数多く見られた。旧約聖書では創世記3章より罪をめぐる説教を求めたが、罪理解について倫理道徳的なところに留まるものが少なくなかった。悔い改めという言葉もキリストの十字架のない改悛として語られるものが少なくなかった。新約聖書ではヨハネ15章より説教を求めたが、十字架を前にした言葉であったことが十分に語れていない。加えてキリストとのつながりも、終末に根ざした結びつきであることに言及した説教はほとんどなかった。創造論、贖罪論、終末論というような組織神学的枠組みで思考する弱さが聖書理解、そして説教にも現れている。

教師検定試験は合格することはもちろんであるが、自分に不足している課題を見つめる場でもある。神とキリストの教会に誠実に仕えていくために、自分の欠けを理解しつつ主の憐れみにすがる伝道者として立っていただけるよう祈りたい。

試験終了後、Cコース受験者の認定面接も行われ、2名の志願者を認定した。その後、第11回教師検定委員会を開催した。今回の試験の振り返り、今後の予定などを協議・確認した。(清藤 淳報)

講 評

2021年春季教師検定試験は、昨秋の試験に引き続き、新型コロナウイルス感染症予防のため、受験志願者の安全を考慮して行われました。学科試験はレポート、全体、個人面接はオンラインで行われました。教師検定試験は召命を問う試験です。受験志願者が主の召しに応えて、誠実に試験に臨まれました。しかし、課題もありました。学科試験が全てレポートになり、参考書と取り組む時間ができましたが、参考書をそのまま書き写したようなレポートが多くありました。大切なことはレポートに記した言葉が、福音を語る生きた声となって受肉しているかどうかです。面接試験も同じ空間で、召命を問い、答える緊張感が、オンラインでどこまで迫ることができたのか、課題が残りました。しかし、主の導きのもと、試験が行われたことに感謝しています。

第41総会期 教師検定委員長

井ノ川 勝

 

2021年春季(レポート試験)・補教師試験問題

教憲教規および諸規則・宗教法人法

次の2題に答えてください。

(両方で1600字程度)

1.教憲・教規が定める教団の教師について、具体的な条文を挙げながら説明してください。また教憲では、召命という観点から教師になることを、どのように述べていますか。

2.宗教法人を設立する手続きにおいては、規則の作成と所轄庁の認証を受けることが求められています。その規則に記載すべき内容を宗教法人法の条文を引用して説明してください。また、このような規則が必要とされるのはなぜなのか、その目的とするところを記してください。

 

旧約聖書神学

次の2題を、旧約聖書の聖書箇所をいくつか挙げつつ、それぞれ1500字程度で神学的に論じてください。

1.モーセ五書における文書仮説を踏まえた歴史観について

2.旧約時代における黙示思想とその文学について

 

新約聖書神学

次の2題を、新約聖書の聖書箇所をいくつか挙げつつ、それぞれ1500字程度で神学的に論じてください。

1.新約聖書における聖霊について

2.マルコによる福音書の神学的特徴について

  • 日本伝道の推進を祈る日

    「2021 日本基督教団教会・伝道所一覧」発行

    10

    新型コロナウイルス対策資料

    共に仕えるためにPDF

    牧会者とその家族のための相談電話

    International Youth Conference in Kyoto

    日本基督教団2019年度宣教方策会議

    公募・公告

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