第四回宣教委員会が三月十一日(火)~十二日(水)水道橋の韓国YMCAの会議室にて行われた。三月十日(月)~十一日(火)と富士見町教会で開催された宣教方策会議に引き続いての日程である。
米倉美佐男委員の説教による開会礼拝に続いて諸報告がなされた。
協議では、先ず宣教方策会議の評価について話し合われた。自由に話されたそれぞれの意見を纏めてみることで報告に代える。
「今回は『伝道の協力』が主題として取り上げられたが、共に一つの課題に取り組めたと思う」。「互助のことも取り上げられたためか、これまで言われてきた『伝道は覇権主義だ』という意見は出てこなかった」。「だからといって、不満がないわけではないと思う」。「分団では伝道のビジョンを話し合うまでには行かなかった。そこに行くまでの時間が欲しかった」。「山口講演は教団という教会の宣教(伝道)方策の基礎的な理論を提供しているので、質疑をも合わせて報……
▼神学校で園芸ブームが起きたことがあった。当時まだ珍しいアスパラの種を蒔いて、「何年留年するつもり」と大笑いされた。収穫は数年後からで、十年以上は穫れるということだ。▼赴任する先々で、庭がなければプランターにアスパラを蒔いた。十年二〇年頑張るぞという覚悟を表す儀式だったのかも知れない。蒔くのはだいたい数年目。最初の挫折を体験した頃だ。▼以前の任地で創立百周年の準備に当たっている時に、古い古い牧会日誌を見つけた。「今年一年の覚悟で、一念を込めて」。元旦の頁に、必ずこう記されていた。信徒数、財政規模から見て、毎年その覚悟が要ったのだろう。▼先日の宣教方策会議、奥羽教区議長は、長期的展望をもって伝道・教会形成に当たる事の出来ない諸教会の現実を訴えた。▼アスパラを植えるくらいの時間と気持ちの余裕が欲しいものだ。庭の季節になりアスパラも出た。種蒔きよりも、雑草取りで忙しい。放っておくと…。
「教団新報」今号四六四九 ・五〇号を合併号とし、四六五一号は五月三一日に発行致します。
本号は、特別号として発行、各教区総会にお届けします。乞うご購読。
総幹事 内藤留幸
疑う者たちに注がれている主イエスの力 古屋治雄
・世の終わりまでいつも
私たちは、すでにイースターを祝い、復活の主の力強い導きの下に、四月からの新年度の歩みを始めています。そして私たちは復活された主が、四十日間弟子たちと共におられた後、天に昇られ、約束してくださった聖霊が注がれるペンテコステを迎えようとしています。
わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
マタイによる福音書末部にあるこの御言葉は、主イエスが復活された直後に、弟子たちに向かって語られた言葉です。しかしこの主イエスの呼びかけは、復活直後に限定されず、むしろ今日に至るまで、どんな時代の中にあっても……
生き方を通して
二人は聖学院大学での聖歌隊活動を通して出会った。秀行さんは大学で初めてキリスト教に触れ、礼拝に出席するようになった。郁絵さんは祖父母がクリスチャンであり、中学・高等学校とキリスト教学校出身であることもあって、キリスト教に違和感はなかったという。そして二人がキリスト者としての生き方への憧れを抱くようになったのは、大学で出会ったキリスト者教員の姿を通してであった。
さらに郁絵さんが聖学院みどり幼稚園へ就職、二人はそれが大きなきっかけとなり、上尾使徒教会へ通うようになった。そして彼女の方が一足先に、二〇〇二年の宗教改革記念日礼拝にて洗礼へと導かれた。それは「自分でどうこう言えないタイミングであった」という。その後に彼の方もキリスト教主義学校へ就職が決まり、「これで神さまと離れられない関係とされた」と観念し、二〇〇三年のイースターに洗礼へ導かれた。
キリスト教教育に携わる……
二月四日(月)から五日(火)にかけて、尾道市と福山市を会場に行われた。
一日目、尾道人権文化センターで「尾道市北久保地区の部落解放運動の歴史」について学び、胸に突き刺さるような痛ましい差別の現実と戦った人々の記録がそのままに紹介された。特に「春駒」と呼ばれる伝統行事を受け継いでいく中で、差別の現実と苦しみの歴史を決して忘れず、反差別の闘いをも受け継いでいく決意をもった若い世代と出会えたことは、大きな喜びであった。「春駒」はいわゆる「門付け」の一種だが、この舞を踊る役目は被差別部落出身の女性たちだった。子どもたちも正月には暗い内から起こされ、夕方まで母親と共に舞を舞ったのだそうだ。そして、謝礼としてわずかに受け取る米やお金によって生活を支えたという。「春駒」にかり出された記憶をもつ人々にとって、この伝統行事は痛ましい記憶でしかなかった。しかし、それをあえて復活させることによって、かつての差……
「教会に住み、牧師の傍らに立つ」とは
木下 晃子
(西千葉教会員)
独身時代のある日、いつものように青年会の集会が夜遅く終わって、玄関で牧師夫人にさようならのあいさつをしました。私たちは外へ、牧師夫人は扉を閉めて中へ入られました。それを見て、「まだ教会に残る人がいる」と思ったのが始まりだったかもしれません。
小さい頃から身近にすてきな牧師夫人を見てあこがれて、単純に牧師の妻となりました。でも、この立場になってみたら、お仕事は山のようにありました。
まずは「料理」。祈祷会の前に、夕礼拝の前に、食事を作る。小さな子どものいる中でカレーライスばかり作っていました。料理は苦手なのに。
そして「お茶」。一杯のお茶さえろくにいれられないので、この年まできて、複数のお客様にキチンとお出しすることができません。
その他、「掃除、戸締まり、火の用心、近所付き合い」などなど、私の苦手なことば……
☆日本基督教団年鑑二〇〇八年版の追録を発行いたしました
教団年鑑二〇〇八年版におきまして、ミスが多少あったことについてお詫び申し上げます。
そこで、当年鑑の正誤表を内容とする追録を、年鑑をご購入された方々に差し上げます。
年鑑を購入された書店、もしくは教団事務局総務部年鑑係(☎03-3202-0541)に直接お申し出ください。
小玉洋之助氏(無任所教師)
一月五日、逝去。七九歳。兵庫県に生まれる。一九五七年同志社大学大学院修了後、日向福島教会に赴任。その後天草平安教会牧師を務め、七八年から八四年まで明石愛老園教務教師を務めた。遺族は妻の裕子さん。
洗礼を受けていない者にも開かれた聖餐(以下開かれた聖餐)を執行しているということで、私は山北議長の提案によって常議員会から教師退任勧告を受けた。しかしこの私への教師退任勧告は明らかに不当である。まず私のような開かれた聖餐を執行している教師は、礼拝出席者が少なく、さまざまなしがらみで洗礼は受けられないが礼拝には毎週出席している方を排除できないという理由で、数は少ないが教団の成立時からいたと思われる。
一九六〇年代後半からは、いわゆる最後の晩餐の記事だけではなく、五〇〇〇人の共食、被差別者とのイエスの食事などにも聖餐との関わりがあるという聖書学の知見や神-世界-教会というミッシオ・デイによる宣教論、教会論の知見により、開かれた聖餐を自覚的に執行する教会や教師が出てくるようになった。
そのことは一九八七年発行の日本基督教団宣教研究所編による『聖餐』によって明らかである。同書所収の論文で村山氏……