教区総会取材で一泊した宿の部屋に一枚の版画がかけてあった。絵のクレジットに「秋吉台」とあった。限られた線とパステル調の色彩で、春だろうか、初夏だろうか、また朝なのか、明るい風景が描かれてあった。ここから秋吉台にアクセスできるのだと改めて気づかされた。まだ訪れたことがないところゆえ時間が許せば行ってみたかったが。気も遠くなるほどの年月に自然が造形した風景をいつか見てみたいと思う。▼子供の頃に行ったことのある鍾乳洞のことを思い出した。長い年月をかけて水が天井から滴って、水の落ちるところに石灰が筍のようになって堆積する石筍を見た。天井から延びてきたものと、床から延びる堆積物が繋がって柱となっているものもあったし、まだまだ遠く離れているもの、あと何センチかで繋がりそうだというものもあった。それでもその数センチが繋がるまで、あと何百年も何千年もかかるのであろう。けれどもたとえ何年かけてでも、一滴一……
牧師不在教会の礼拝支援を決議 三役再選
北海教区
5月2日~3日にかけて、札幌北光教会を会場に、第77回北海教区定期総会が開催された。開会時の議員数は、125名中101名であった。
組織会において、議場から、推薦議員として積極的に、伝道所の信徒を選出して欲しいとの意見が出された。
組織がされた後、開会礼拝が捧げられ、一同で日本基督教団信仰告白を告白し、聖餐式が執り行われ、更に、准允式が執行され、一人の教師の誕生の喜びを議場が共有した。なお、開会礼拝前に上程された議案「補教師准允に関する件」の採決前に、久世そらち議長が、「現在の教団の二重教職制は現場での矛盾を生み出しており、この問題が解決されることを願う」とコメントした。また、議事の後半では、同じく教団の教師制度改善の思いを持つ、兵庫教区との教区間宣教協約締結への取り組みを開始する議案が可決された。
議長報告で……
40総会期教憲・教規変更手続検討委員会は3名の構成で、1月20日に第1回委員会を開催し、組織会を行い、雲然俊美委員長、井田昌之書記、東野尚志委員を選出し、次いで議事に入った。
はじめに、常議員会での委員会設置議案を確認し、検討スケジュール、検討事項について扱った。教憲は「教団総会開会3箇月前に議案を公表し、教団総会において議員総数の3分の2以上が出席し、出席議員の3分の2以上の同意を得なければ、これを変更することができない」という現行の規則について、議案が出る場合の実際の処理上に必要な規定について検討することが課題であることを話し合った。
スケジュールとしては委員会を4回開催し、その中で常議員会への中間報告を2回行い、最後に最終報告をまとめとして、2018年2月の常議員会へ提出する予定とした。
検討事項については、変更手続きに関連する事項が現れている教憲教規・宗教……
3月28日、部落解放センター主催による「第30回神学校等人権教育懇談会」が教団会議室にて開催された。8つの神学校と関係団体から13名の参加があった。農村伝道神学校・大倉一郎氏による開会礼拝に続き、東谷誠部落解放センター運営委員長より現在もなお部落差別事件が頻発している状況が報告され、教師として宣教に仕える人たちへの人権教育の重要性が訴えられた。
その報告を受け、各神学校代表の参加者から、それぞれの取り組みの紹介をしてもらい、人権教育への熱意と取り組みの積み重ねを聞くことができた。
今回のメインプログラムは、日本バプテスト神学校の渡邊さゆり氏による発題「性によって差別することについて~神学教育の中で考えさせられること~」だった。渡邊氏自身の被差別体験、バプテスト神学校での取り組みの実践とその変遷、そして聖書を読む視点まで、丁寧に語られた。
その中で示されたことは、残……
40総会期の宣教委員会は教憲教規に従って委員会を運営していくことを第1回目の委員会で確認した。
前回の宣教方策会議では、教団の現状を踏まえて「日本基督教団は伝道をどう進めて行くか」を主題として開催した。協力してもらった発題者、講演者は宣教委員会の趣旨を汲み、良い発題、講演をしてくれた。
しかし、会議として十分な対話、討論ができたとは言い難かった。今期の方策会議を実りあるものとするために祈りと知恵を貸してもらいたい。
継続課題であった「牧会者とその家族のための相談室」を設置する準備委員会が稼働し始める。大変大きな課題で手探り状態での発進ではあるが、一日も早く具体化できるように、関係各位の協力を願いたい。
宣教委員会の働きを実質化し、より強くするために、常設専門委員会、自主活動団体とも今以上に密なる関係を築きたい。機構の再構築も視野に置く必要がある。伝道のスロ……
石原英一氏(名瀬教会担任教師)
17年3月23日逝去、89歳。東京都生まれ。77年受允、80年受按、77年より名瀬教会(和光伝道所)を牧会。
1875年4月15日に、エディンバラ医療宣教会のセオバルド・A・パームが、東京で日本語を学んだ後に新潟に着任した。パームは1848年にセイロン・コロンボで宣教師の子として生まれた。エディンバラ大学医学部を卒業したバプテストの外科医で、大学卒業と同時に結婚した直後の1874年に夫人と共に来日した。パームは医療宣教師のJ・C・ヘボンと相談した上で、五港の中でまだ宣教師がいない「最も困難な土地」を選んだ。新潟に来る3か月前に出産直後の母子を失った中で新潟にやって来た。
パームは東京から同行した料理人の水谷惣五郎・哲子夫妻と日本語教師の陶山昶、通訳として横浜から派遣された雨森信成によって支援された。病院兼自宅は湊町三丁目に建てられたが、1年後に病院を拡張して本町に移転した。パーム病院では、朝9時から集まった患者たちを前に説教がなされ、その後に朝10時から診察と治療が行なわれ、夕方には伝道……
浜松駅からバスに乗り、国道を北へ進むこと50分。家康時代ゆかりの姫街道の名を持つ道は赤土の台地へ向かう。やがて田園風景の中にヘリポートを備えた総合病院が姿を表した。87年前、結核を病む貧しい一青年のために病室を造ったことから出発した聖隷三方原病院である。病院の他に諸施設が建てられ、キリスト教主義理念に基づく福祉事業団が形成された。
淺井精一さんは聖隷三方原病院の高度救命救急センターに勤務して24年目を迎えた。部長として自らドクターヘリに搭乗し、救急医療の現場で働く。妻の八多美さんは介護老人保健施設「ベテルホーム」所長として医療・福祉・保健の連携に努めている。かつて、八多美さんは予防医学の分野で終生働こうと考えていた。詩編84編11節「わたしは神の家の門口に立っているのを選びます」の聖句に出会い、神の家・ベテルで高齢者医療に携わる道へ促されたと語る。命と向き合う中で、自身の限界・組……
議長談話で、まのあちゃんのことを書いた。「イエス様をいただいたから、もうクリスマスプレゼントはいらない」と言い、洗礼を希望していると母親から聞いた。その後、パッタリ教会学校に来なくなった。教会付属幼稚園の担任から、引越しをしたことを知らされた。新しい住所を知ったので、早速手紙を書いたら返事が来た。
まのあちゃんは小学1年生、彼女が住所を書き、そして宛名は「えんちょうせんせいへ」となっていた。郵便局員が「園長先生の家ですか」と確認して手紙を渡してくれた。その手紙には2つの顔の絵が描いてあった。一つは泣いている顔で、「ままが入院した」とあり、もう一つの顔は「手紙をもらって嬉しい」と笑顔の顔が書いてあった。
家に悲しいことがあり、そして母親の入院、この悲しい中で「イエスをいただいたから大丈夫」と、まのあちゃんの素朴な信仰が示されている。母親は入院中のため、「これからわたしが教会……
青年たちによる課題の担い方を模索
2014年3月、仙台・東北学院で行われた国際会議の宣言文に原子力問題を含め震災が引き起こした諸問題を、若い人々が担いリーダーシップを発揮することが記された。今回の国際青年会議は、この「決意と呼びかけ」に応え開催された。青年運営委員たちがプログラムし、「エネルギー持続可能社会の実現を目指して」をテーマに多彩な講師陣を招き、海外の青年たちにも参加を呼びかけた。東日本大震災6年を迎えて教団が救援対策本部終了を期する会議ともなった。
3月28日から31日にかけて、日本基督教団国際青年会議in京都が、関西セミナーハウスをメイン会場にして開催された。日本全国はもとより、世界各地、カナダ、インド、台湾、ドイツ、韓国、香港、アメリカ、コンゴ、フィリピン、アルメニアから約110名の参加者が京都に集まった。
会議はまず、同志社大学寒梅館を会場にして行われた……