第36総会期第6回社会委員会は、8月30日から31日までの2日間、沖縄の読谷教会で開催された。
1日目は、午前10時から釜土達雄委員による開会礼拝で始められ、続いて具志堅篤牧師及び芳澤弘和牧師から普天間基地移設問題について、概略次のように学んだ。
普天間基地は住宅の密集地にあり危険である。騒音被害も大きい。日本の政府は基地を造り、地域振興のための補助金は出しても、生産手段の導入はしない。沖縄の教会員には家族を沖縄戦で失った人が多い。天皇を守るため沖縄の者は犠牲にされた。ベトナム戦争に関しては加害者意識がある。移設の話は1995年9月4日の少女暴行事件を契機に始まったが、その後15年間迷走している。基地を辺野古に移設することは自分たちの意志ではない。
午後からは、現地の若い教師方の協力を得て、辺野古のキャンプ・シュワブ、辺野古漁港を訪れ、テントに泊まり込……
第36回総会期第5回靖国・天皇制問題小委員会が、2010年9月6日(月)~7日(火)、日本キリスト教会館4階会議室で開催された。芳澤信委員による開会礼拝の後、報告・協議が行われた。
委員会1日目において、栗原清委員による発題「靖国神社について」がなされ、委員による質疑応答がなされた。靖国神社の成立史、またどのように神社の管理運営が行われているのか、祭儀は具体的にどのようなものが行われているのかなどを共に学んだ。そこではあらためて、靖国神社で祀られている「英霊/神」は、信仰の対象ではないことが確認された。信仰の対象とは、神であれ仏であれ相手に自己を託し、祈願する対象である。しかし靖国神社の場合、そこでは逆に人間が神(とされた対象)を慰め、神が怒って祟りを起こさないようにと機嫌をとるという心性が垣間見られる。それは戦争に対する後ろめたさの表れであり、責任問題にはっきり……
残暑厳しい8月29~30日、恒例の西中国教区・部落解放現場研修会が、「教会に部落解放を Ⅺ」をテーマに 広島キリスト教社会館並びに呉市・山の手会館にて、参加者47名で開催された。
29日は18時から社会館にて、小郡教会・金澤正善牧師による開会礼拝に続いて、嶌本(しまもと)敏雄さんの「向き合って生きる」という講演を聴いた。嶌本さんは、近江八幡地区の出身、同市役所に勤務し、部長職を最後に退職、僧籍を得て、現在は安土町文芸の郷振興事業団事務局長の役目を担いながら、部落解放の闘いを続けており、キリスト教の青年とも交流を続けている僧侶。講演は、その嶌本さんの市役所勤務時代、主に建築畑におられて、同和対策事業を推進する中で遭遇した様々な部落差別の実態、そしてその解放運動の生々しい話を心に深く聴かせていただいた。
講演会終了後に呉に移動し、分散して宿泊。
翌30日は……
赦しが無ければ、平和は訪れない
台湾の教会青年と共に過ごした14日間
今回のユースミッション(8月10日~23日)には日本から8人の青年が参加した。最初の4日間は台北に滞在し、開会礼拝、総会事務所訪問、青年活動紹介などを行った。
そして、二二八事件とその後の戒厳令下の生活について学んだ。3日目に国際日語教会の方々から体験談を伺った。最も印象に残ったのは、二二八事件で義父を失い、自分も危機一髪で逃れた老人が体験談を話し終えた後に、「でも今、台湾は平和だから、昔のことは忘れて平和を愛しましょう、わたしは二二八事件のことを赦します」と言い切ったことだ。赦すことの凄さを感じた。
5日目からは阿里山の山奥で生活した。台風の再建記念礼拝では、苦難を経験しつつも明るく力強い賛美の歌声にパワーを感じた。楽野教会での日曜礼拝では日本語の単語が頻出していて、ツォウ族……
▼「鏡の前で祈ることは禁じられている...中略...目というものは、神の御心に向けられるものであって、外側に向けられたり、虚飾にそそのかされたりするものではないと考えられているのだ」。ユダヤ人社会を背景にした推理小説を著し、時にその信仰生活を詳細に描き出すフェイ・ケラーマンの作品『蛇の歯』から。▼普通は目を閉じて祈るから、自分が祈る姿は見えないし、自分だけではなく、他の人のことをも見ない筈だ。しかし、実際には、目を閉じていても、他の人をも、自分をも見ている。そして、評価したり、躓いたり、裁いたりしている。更には、他人の目を鏡として自分を見、自惚れたり、落ち込んだりしている。▼鏡の前で、祈ったらどうだろう。祈りの言葉が正直になるだろうか。もっと見てくれに拘るだろうか。それとも、恥ずかしくて、祈ることが出来なくなるだろうか。▼『鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか……
ローマの信徒への手紙1章16~17節
福音を恥としない
「わたしは福音を恥としない」(16節)という告白が響いています。そして、〈福音こそ、神の力だ〉という力強い宣言が聞こえてきます。
〈力〉というのは、世の終わりの日に、全世界を握りしめて離さない〈神の支配〉のことです。私たち一人ひとりの命に関わる救いの根拠は、ただ神の支配そのものにある、と御言葉は語るのです。
使徒パウロが、「福音を恥としない」と語った頃、まさに福音が恥とされていました。ローマには世界中から人間の知恵や知識、技術や富が集められていました。そこでは、キリストの福音は笑いとあざけりの対象でした。パウロが語る福音は〈愚かな言葉〉だったからです。〈全知全能の神のひとり子イエスが、一人の人間になって地上を歩み、十字架に磔にされて、私たちの身代わりに神の呪いを全部引き受……
3月で30年間牧会した教会を退任した。退任後ゆっくりしようと思っていたが、他の教会より代務者を依頼された。4月から半年間の約束である。
代務に就任してまもなく、洗礼志願をいただく。
30年前に前任の教会に赴任し、最初の礼拝が終わった時、一人の姉妹が受洗を申し出られた。同姉の信仰を受けとめつつも、同姉については何も分からない。役員会で協議し、クリスマス礼拝にて洗礼式を執行することにしたのである。それまで4ヵ月ある。
代務者になって、同じように早々と洗礼志願をいただいた時、前任の経験がよぎった。半年経てば後任の牧師が就任する。その時まで待ってもらってもよいのではないかと思ったのである。しかし、そのようにお答えする前に、役員会にかけることもなく、洗礼志願を受けとめたのである。
洗礼志願を申し出られたのは女性の教会員であり、お連れ合いの受洗である。末期の……
教団教誨師会会長に就任
深山祐さんは1985年、91歳で教誨師を退いた父の故佐太郎牧師の後を受けて、府中刑務所の教誨師に就任した。
以来教誨師25年間、今や父親の教誨師20年を上回り、近年、立川拘置所の教誨師も務めている。
府中刑務所は、受刑者3、000人と受刑者数では日本最大の刑務所だが、近年、目立つのは、「高齢化と再犯者の多いこと」だという。「再犯者が多いのは、教誨の力が足りないのではないかと、いろいろ考えさせられる」と深山さんはいうが、月1・2回、1回45分ほどの教誨では、時間的制約があるだけでなく、集合教誨、個人教誨とあって、1対1で話せる時間は限られている。
「出所後に、どこの教会でもいいから、教会を訪ねて下さい」と深山さんは、教誨で語りかけているが、それを覚えていて教会を訪ねてくれた人が、「聖書が欲しい」と申し訳なさそうに話しかけて来……
メアリー・イザベラ・ランバス(1832~1904)の名を冠して
小見のぞみ
(学校法人関西学院 聖和短期大学・宗教主事)
わたしが聖和大学のキリスト教教育学科の学生だったころ、 聖和(Holy Union)の源流となる3つの学校の創設について聞いた中で、特に印象深い話がありました。創立者の一人であるメアリー・イザベラ・ランバスが、10代の若い日に、中国宣教へのアピールがなされた集会で"わたしは、この5ドルとわたし自身を献げます"と語ったという話です。
この一途で情熱的な言葉は、120年以上経ってそれを聞いた学生であるわたしだけでなく、語られた当時、同じく中国への伝道を志していたジェームズ・ウィリアム・ランバスの心を強くうったのでしょう。彼は、それを語った女性、メアリー・イザベラ・マックリーレンとめぐり合い、1853年10月に結婚。南メソ……
4704・5号(8月14日発行)3面「第5回宣教委員会報告」記事中、3段目4行「その中で」から10行目までを以下のように訂正してお詫びいたします。
そこで、前担当職員で今は同宗連の事務局長に出向している職員にお願いしたが、どうしても時間がなくて進められないというので、幹事会で相談して、今アルバイトの方にテープ起こしをしてもらうという方向で進めている。