【4911号】▼信仰職制委員会▲ 諮問3件について答申

 第2回信仰職制委員会が、7月22〜23日、教団会議室で開催された。前回議事録承認の後、継続諮問について背景にある事実関係について確認後、協議した。

 次いで3件の諮問について協議した。諮問及び答申は次の通り。

諮問①》関東教区常置委員会、および関東教区総会議長・東野尚志より

1.教規124条①に「正教師とは、正教師検定試験に合格し、教区総会の議決を経て、按手礼を領したものとする」と規定されています。そこで改めて確認したいのは、このたびの阿部教師の正教師検定試験合格とは、上記教規124条①に言う「正教師とは、正教師検定試験に合格し」までの状態を満たしたものとして解してよろしいでしょうか。

2.上記の理解が正しいとすると、阿部教師を正教師として登録するためには、教規124条の「教区総会の議決を経て按手礼を領する」ことが必要となりますが、その場合の「教区総会の議決」とは、同教師が1979年5月29日に福音主義教会連合で受けた「按手」を関東教区総会が正式な按手として認めるという議決でも可能なのでしょうか。それとも、教団信仰職制委員会「教憲教規の解釈に関する答申集」76(1983年9月1〜2日付けの答申「『福音主義教会連合』の按手礼は、教憲教規による正規の手続を経てなされたものではない」)に従い、たとえ関東教区総会が当該「按手」を認めたとしてもそれは上記答申76の答申に反したものとして無効でしょうか。

答申

1.について

 満たしています。

2.について

 当該教師は、正教師検定試験を受験し合格して、教団の正教師としてすでに承認されているので、正規の手続きを経ていると認められます。ゆえに、当該教区で教区総会の議決を経て按手礼を領することができます。

 その場合、当該教師は1979年に福音主義教会連合で按手を受けており、その按手礼は教団信仰告白のもとで行われたこと、教団教憲教規に従う誓約がなされたことを、当委員会で確認しました。ただし、これをもって教団の正式な按手とするには、法的手続き〔教規18条①(7)および35条(1)〕を満たすために、常議員会の承認を経る必要があると判断します。

諮問②》中部教区総会議長・田口博之より

 教規第63条④に「補欠による議長、副議長および書記の任期は、各その前任者の残任期間とする」とありますが「補欠による」とは、何を意味するのでしょうか。

答申》「補欠による」とは、任期途中で欠員が生じた場合、何らかの方法で補充することを意味します。

諮問③》四国教区議長・黒田若雄より

 四国教区は、教区総会において聖餐式を執行してきました。この根拠として、日本基督教団教憲第6条にある「教会的機能」の中に位置づけられていると理解してよろしいでしょうか。

答申》教区総会における聖餐執行は、教憲第1条にある本教団の本旨に沿う行為と理解されます。

(田村 博報)

【4911号】♦︎第22回 部落解放青年ゼミナール♦ 「新たにきづく」ために

 第22回部落解放青年ゼミナールが、8月21〜23日に大阪・大正めぐみ教会を会場に開催された。部分参加も含めて28名の参加があった。

 今年は「新たにきづく青年ゼミ」と題して、太鼓の町として有名な大阪市浪速区で学んだ。部落解放同盟浪速支部の協力を得て、地域の歴史の学びとフィールドワーク、そして「リバティおおさか」の見学をした。

 部落解放同盟の資料室で地域の昔の写真を見た。川を挟んであちらとこちらで建物の作りが全く違う様子は、当時の厳しい差別を象徴しているように感じた。この地域は江戸時代までは太鼓の町として非常に栄えたそうだ。差別の中でも、人々はプライドと気概をもって生活していた。しかし、明治に入って行われた賤民廃止令(解放令)によって、被差別部落外から皮革産業への参入が始まる。厳しい差別意識が残る中で地域の人々は職を奪われ、一層貧しい生活を余儀なくされた。

 この地域は大きな被差別部落であり、皮革産業で豊かな人も一部いたため、こどもたちの教育に力を入れていた。現在は「リバティおおさか」となっている旧栄小学校は、ほとんどが地域の人たちの資金で建てられた。この場所に日本で唯一の人権の博物館が存在していることの意味は非常に大きい。

 最終日の振り返りでは、みんなで歌を作った。事前に用意した歌に合わせて、グループ毎に青年ゼミでの出来事を振り返り新しい歌詞を作った。一人一人が青年ゼミでの経験から言葉を選ぶことで、自分自身の差別意識と向き合うときとなった。そして最後にみんなで希望をもって歌った。

 私たちは「気付いた」差別をそのままにせず、差別と向き合い、新たな関係を「築く」ことで解放への道を歩みたい、その思いを新たにした三日間だった。(松村光司報)

【4911号】委員会コラム 世界宣教委員会 世界の教会と共に 西之園路子

 世界宣教委員会は、日本基督教団から海外への宣教師の派遣、海外の教会から日本基督教団の教会あるいは関係学校や諸施設への宣教師の受入れに関わっています。また海外の諸教会、キリスト教諸団体との窓口となっています。

 ここ数年、世界宣教委員会で意識的に力を入れているのが、海外へのユース(青年)の派遣です。派遣できる人数には限りがありますが、広い視野を持ち、世界のキリスト者たちと共に歩んでいけるユース、次世代のリーダーたちが育ってくれることを願い、2019年夏は、台湾(I Love Taiwan Mission)、カナダ(バンクーバー交流&研修ツアー)、ドイツ(日独ユースミッション2019)、スイス&フランス(テゼ黙想ツアー)にユースを派遣しました。現地の教会や現地に遣わされている教団宣教師等の協力のもと、派遣先の教会青年たちとの交流や先住民の文化や歴史に触れる機会となっています。世界宣教委員会のFacebook(ecumeni0544)をぜひご参照ください。

 私的には、日本の教会が世界で孤立することなく、どのようにしてアジア、北米、ヨーロッパ、またアフリカ等の世界の教会と共働していけるかということに関心を持っています。また、世界に視野を広げ、異なる言語・文化・思想を持った人々と共に歩む教会・教団でありたいと願っています。

【4911号】事務局報

村川弘一氏(無任所教師)
 19年5月23日逝去、89歳。樺太生まれ。53年日本基督教神学専門学校卒業。同年より関東学院六浦高校、静岡英和女学院に務める。

 遺族は妻・村川博子さん。

 

永田哲郎氏(無任所教師)
 19年6月1日逝去、81歳。兵庫県生まれ。99年受允、01年受按。99年より北柏めぐみ、薬円台、北柏めぐみ、我孫子教会を牧会。

 遺族は妻・永田ふさ子さん。

 

吉新 緑氏(無任所教師)
 19年8月27日逝去、84歳。大分県生まれ。11年東京神学大学卒業。12年より18年まで杵築教会を牧会。

 遺族は息・吉新主門さん。

 

雨宮栄一氏(隠退教師)
 19年8月26日逝去、92歳。韓国・京城生まれ。53年日本基督教神学専門学校卒業。同年より山梨、阿佐ヶ谷東、東駒形教会を牧会し、中部学院大学に務め、03年隠退。

 遺族は妻・雨宮美枝子さん。

 

渡辺君子氏(隠退教師)
 19年8月27日逝去、89歳。東京都生まれ。65年日本聖書神学校卒業。同年より須賀川、山都、熱海教会を牧会し、02年隠退。

 遺族は夫・渡辺晋さん。

 

久保惠三郎氏(無任所教師)
 18年10月20日逝去、87歳。兵庫県生まれ。96年同志社大学大学院卒業。同年より神崎川、仁川教会を牧会。

 遺族は妻・久保恭子さん。

 

宇都宮秀和氏(無任所教師)
 17年11月29日逝去、83歳。神奈川県生まれ。62年青山学院大学卒業。65年より昭島、ベテル教会を70年まで牧会。

 遺族は妻・宇都宮雍子さん。

【4911号】宣教師からの声

受け継がれた「敬神愛人」のバトン

-名古屋学院創設者 フレデリック・チャールズ・クライン宣教師-

大藪 博康

(名古屋学院 名古屋中学・高等学校 宗教部長)

 アメリカ・ボルティモアにあるクライン博士の墓石には「仕えられるためではなく、仕えるために」(マルコ10章45節)と記されている。クライン博士は、神様のため、教会のため、人のため、そして名古屋の地にある男子校・名古屋学院のために、その命を最大限用いた。

 クライン博士(フレデリック・チャールズ・クライン)は1857年ワシントンで誕生。1866年ボルティモアに移住し、1873年(16歳)受洗(この年、日本では明治政府がキリシタン禁制を解除した)。1876年ウエスタン・メリーランド大学入学。1882年メソジスト・プロテスタント教会の日本派遣宣教師となり横浜地区伝道団監督に就いた。1883年メアリー・エリザベス・パットンと結婚し日本に渡った。横浜ではアメリカの伝道本部と連絡を取りながら財政全般、土地、学校、教会の運営に従事した。横浜、藤沢で伝道を開始し、ブリタン女性宣教師とともに、英語学校、日曜学校、禁酒会、教会づくりに取り組んだ。

 1885年(明治18年)クライン博士は伝道の実態調査のため、京都・大阪・名古屋を旅した。その旅で名古屋に滞在したとき、山根虎次郎と出会った。山根は名古屋に英語学校を作りたいとクライン博士に訴えた。当時の名古屋は「名古屋区」と呼ばれていた。人口約15万人。日本で第4番目の都市であった。

 ある日本人牧師がクライン博士に言った。「名古屋は保守的な城下町で仏教の力がたいへん強く、宣教師にとっては開拓の難しい不毛の地です」。この言葉がクライン博士の開拓者精神に火をつけた。「理想を実現するために一番困難な場所を選んで道を開くのが私の使命だ」。横浜は外国人居留地があり、宣教師や多くのアメリカ・ヨーロッパ人がいて伝道も盛んであった。しかし、名古屋は儒教と仏教、古くからの神社があり伝統的宗教を重んじる町。キリスト教は邪宗教であると考える人の多い町であった。そこにクライン博士は身を投じていった。名古屋学院設立は初めから茨の道であった。

 1887年(明治20年)7月11日「愛知英語学校」設立。50名募集して12名が集まった。民家を改造した校舎。校長クライン博士、校主山根虎次郎。開設からしばらくして、山根が言った。「クラインさん。ここは英語を教える学校です。キリスト教を教えては困ります。私の思想とも反するし、人々に嫌われます」。漢学者である山根は当時の名古屋の人々の思いを理解する人物であった。当時、英語を学ぶことが身を立て世に出る第一歩と考えられ多くの人が英語を学んだ。しかし宗教は伝統的なものを重んじるのでキリスト教はいらない。そのような人々の思いを山根はクライン博士に伝えた。更に県教育局から「教科から聖書を外すよう」と指示があった。県教育局長からも「14歳以下の生徒に公式に宗教教育を施すことは禁止する。教科課程から宗教の授業を外すならば開校を許可する」との指示。クライン博士は学校内外から反発を受けた。

 それらに対しクライン博士は「毎日正科として聖書による宗教教育を行う」、「教育は知識だけを教えるものではない、心も教え育てなければならない。そのための宗教でありキリスト教なのだ」と一歩も引くことはなかった。当時の総理兼外務大臣である伊藤博文に「直訴状」を送り、正式にキリスト教学校として認めてもらうことを訴えた。直訴は却下されたが、結果的に県教育局との折合いをつけて、申請書の「聖書」を「彜倫(いりん)道徳」と改め、県から宗教教育には干渉しないとのお墨付きももらい、名古屋英和学校が公認されることとなった。開設当時の仲間であった山根とは襟を分かつ形となった。ここに名古屋英和学校の教育の指標が「敬神愛人」と定まった。

 1888年7月11日、民家を改造した校舎が崩れるという不思議な出来事が起こった。開校からちょうど1年。幸いけが人はなかった。それをうけてクライン博士は本格的な校舎建設に乗り出した。建設資金を集めるためにアメリカに一時帰国した。1889年から西洋風校舎建築工事がはじまった。1890年、アメリカの教会で名古屋の学校のために集めた献金を携えてクライン博士が名古屋に帰ってきた。完成した西洋風の校舎は人々の目を引いた。

 クライン博士がどのように聖書や英語を教えていたか、それを知る手掛かりは少ない。第一期生の牧野義雄(英国で画家として有名になる)によると、全人格を通して教育し、愛情と信仰深い生き方を生徒たちに示したことが語られている。

 1893年、人々に惜しまれながら、病気治療のためにクライン博士はアメリカに帰国した。6年に満たない期間であったが、クライン博士の命がけの働きによって「名古屋英和学校(のちの名古屋学院)」は誕生し、歩みをはじめたのであった。

 その後、クライン博士はアメリカでメソジスト・プロテスタント教会の役職を歴任し生涯を神様と人のために捧げ尽くした。1926年メリーランド州バーウィンの自宅でこの世での働きを終え、神様の御許に帰った。

 明治の時代、日本全国にこのようなキリスト教学校が宣教師の尽力によって誕生した。宣教師の人格に触れ、多くの日本人が感化され、キリスト者となっていった。名古屋英和学校でも、クライン博士の生き方、信仰が生徒、教員に引き継がれていった。「敬神愛人」のバトンはその後、130年たった現在に至るまで受け継がれている。

(Kyodan Newsletterより)

  • 共に仕えるためにPDF

    牧会者とその家族のための相談電話

    International Youth Conference in Kyoto

    日本基督教団2017年度宣教方策会議

    公募・公告

    エキメニュカル協力奨学金 申込書類一式

    日本基督教団年鑑2019年版

    よろこび

    日本基督教団 伝道推進室

    東日本大震災救援対策本部ニュース

    教団新報 archive

    教日本基督教団 文書・資料集 申請書等ダウンロードコーナー

    月間 こころの友