「高校の体育祭は地獄でした」と、ある牧師。「ぼく、『ぼっち』だったんです」と明かす。「でも、お弁当を独りぼっちで食べていても、イエス様はいてくださったんです」。問わず語りのような証しは、使徒信条の「死にて葬られ、陰府にくだり」の告白と共にこぼされた。
独りが好き、ぼっちも平気、という人も少なくないが、皆で共になすべき業の中で、孤立させられるのは辛い。「おひとりさま」と「ぼっち」は違う。私は好んで(休みが限られているので、仕方なくか)「ぼっちライダー」を自認しているが、自己紹介で「アラ還ぼっちライダー」としているSNSのフォロワーは1300人を超えてきた。ネット上には、「ぼっち弁当」を避ける方法などというものも数々紹介されている。
しかし、この世のあらゆる業を終えて主のもとに召されるとき、「共に、一緒に」はない。人はすべて「ぼっち」だ。その時になって初めて「ぼっち」を経験するとしたら、その孤独と不安は、ほぼ絶望に近いのではないだろうか。
「陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」。そのあなたが「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と告白する者にとっては、究極の「ぼっち」はすでに葬られた。月曜ぼっちライダーは、秋の心地よい風を切りながら「ぼっち」を味わう。
(教団総会副議長 藤盛勇紀)