【4899号】宣教師からの声 ディサイプルス派の最初の宣教師C・E・ガルスト

菊地 順

(聖学院キリスト教センター所長)

 学校法人聖学院は、アメリカのディサイプルス派の宣教師たちによって生み出されましたが、その最初の宣教師の一人、チャールズ・E・ガルストを紹介したいと思います。

 ガルストは1883年に日本にやって来た宣教師です。このとき、ガルストは30歳でした。ガルストは、日本に来る前は、ウェスト・ポイントというアメリカの有名な陸軍士官学校を出た軍人でしたが、ガルストは自分から進んで士官学校に入った人ではありませんでした。初めは、アイオワ州立大学で2年間農学を学び、その後その方面の仕事をしましたが、ある時その能力と人柄を認められて陸軍士官学校に推薦されることになったのです。当時、ガルストの父親は医者をしていましたが、8人兄弟であったため、経済的にあまり豊かではありませんでした。おそらく、そういうこともあって、ガルストは19歳で推薦されるまま士官学校に入学することになったのです。

 しかし、その4年間の士官学校時代に、ガルストは2つの重大な出来事を経験することになりました。一つは、母親の死です。母親は、アイルランドの出身で、非常に信仰心が厚く、ガルストには牧師になることを期待していました。もう一つの出来事は、宗教的信念の変化でした。ガルストは、当時さまざまに分裂していたキリスト教世界を再び一致させようという運動をしていたアイザック・エレットの呼びかけに深く共鳴するようになり、軍人として立身出世するよりも、キリストの一兵卒として、キリストと人類のために仕えたいと思うようになったのです。しかし、士官学校を卒業した者は8年間軍務に服さなければならないという規則がありましたので、ガルストは卒業後8年間軍務に服し、その間宣教師になる準備をしたのです。そして、同じ志を持つ女性ローラと結婚し、1883年、もう一組の宣教師夫婦であるスミス夫妻と共に、日本にやってきたのです。

 その後、ガルスト夫妻は、半年ほど横浜で日本語の勉強をしてから、まだ宣教師が入っていない東北の地、秋田を選んで、スミス夫妻と共にそこに行くことになりました。

 しかし、当時の秋田はまだまだ辺境の地で、古い日本の風習がそのまま残っていた地域でしたので、多くの苦労を経験しました。人々からは好奇の目で見られ、また難解な日本語に悪戦苦闘し、さらにキリスト教に対する偏見という大きな社会的壁にぶつかりました。そればかりか、ノミや蚊といった不衛生な環境にも苦しめられました。そして、そうした困難な生活の中で、一緒に秋田に行ったスミス宣教師の妻ジョセフィンが、着任の翌年、8歳の娘を残して病死するという悲劇が生じました。

 しかし、そうした宣教師たちの生き様は、徐々に人々に深い感銘を与えることになり、ガルストたちの働きは次第に受け入れられていったのです。そして、秋田での4年間の生活は実に実り多いものとなりました。

 その後、ガルスト夫妻は、さらに活動の範囲を広げるために、山形県の鶴岡という町に移り、そこでさらに4年間活動します。そしてその後、休暇で1年アメリカに帰りますが、1893年、再び家族と共に日本に戻り、今度は東京に居を構えながら、全国を伝道して回ったのです。その間、ガルストは、キリスト教の伝道だけではなく、政治や税制についてもしばしば重要な発言をし、特に税制に関しては、自ら「単税太郎」と名乗って「単税論」を唱え、税の不公平をなくすよう努力しました。また多くの政治家や社会活動家の相談役にもなりました。伊藤博文は、そうしたガルストの働きを高く評価し、「西洋は未だかつてチャールズ・E・ガルストに勝る贈物を送ったことがない」と語ったほどでした。

 しかし、そうした多忙な働きのために、健康を著しく損なってしまいます。それには、秋田時代から何度か重い病に見舞われ、次第に健康を損なっていたことも影響していました。そして1898年12月28日、日本の地で45歳の生涯を閉じることになったのです。今でも、その墓は、東京の青山霊園にあります。

 ガルスト宣教師は、感銘深い言葉をたくさん残していますが、亡くなる直前に、遺言はないかと妻から尋ねられた時、こういう言葉を語っています。それは、「My life is my message」という言葉です。その遺言が示すように、ガルスト宣教師は、正にその生き様そのものを通して、日本人にキリストのメッセージを語った人であったと言えます。(Kyodan Newsletterより)

【4899号】人ひととき 門脇 荘さん 自由の奴隷として生きる

 東北学院中学校に進学し、初めてキリスト教と接した門脇さん。中高6年間、授業の課題で教会へ行くことがあった。しかし、クラシック音楽が好きな門脇さんにとって、教会はオルガンの音色を聴くために行く場所であり、聖書の言葉は何も耳に入ってこなかったと振り返る。

 大学では教会へ行く課題が無くなったことで、教会と無縁の生活になると思っていた。しかし、1年次の夏、同じ学科の友人が出席していた名取教会の礼拝に誘われる。初めて訪れた時から、アットホームで居心地の良さを感じたことや、ピアノの演奏ができる賜物を認めてもらえることに喜びを覚え、毎週通うようになった。当時オルガニストが不足しており、一ヶ月後には奏楽奉仕の機会が与えられた。また、同じく友人に誘われて行った猪苗代教会でのワークキャンプをきっかけに、東北教区の青年活動にも関わるようになり、その交わりから仲間が与えられ、学生生活がより充実していくのを感じられるようになった。

 その頃から、自らを見つめなおす機会が増えたと語る。大学入学以後、自己と他者の違いから溝を感じ、日常を楽しめず、世界が白黒のように感じられた。しかし、交わりや聖書の言葉を通して、自らに無い物を求めている自分に気が付いた。「人間的な支配から脱出し、向こう岸へと渡っていくんだ」。殻を突き破られ、柵から解き放たれた思いを抱いた門脇さんは、受洗の意を伝え、宗教改革500周年を記念した一昨年10月29日の主日礼拝に洗礼を受けた。

 信徒になって1年半が経った。キリスト教と出会って与えられた「自由の奴隷として生きる」視点が、自分たらしめる原動力となっていると語る門脇さん。今後も好奇心を持ち、変革を求めて生きていきたいと強く語った。

1997年、宮城県生まれ。東北学院大学生。趣味はバロック音楽、チェンバロ演奏。名取教会員。

【4899号】「平成最後の〇〇」!?

 昨年、我が秋田県は大いに盛り上がった。年のはじめには、秋田犬(あきたいぬ)が話題になり、年末には、なまはげがユネスコの無形文化遺産に登録されて話題になった(なまはげは、怠け者を懲らしめる神であるが、「泣く子はいねがー」と叫びながら家に入って来るのを見るたびに、「アンタが泣かせてんでしょ!」と突っ込みたくなる)。そして、夏は甲子園での金足農業高校の活躍があった。県立で、農業高校で、野球部員は全員、地元の高校生ということで大きな励ましを与えられた。

 ただ、その活躍を伝えるテレビなどで、何度も「平成最後の甲子園!」と言われていたことには、そんなに繰り返して言わなくても…との思いをもった。もちろん今もいろいろなイベントや出来事を伝える時に「平成最後の〇〇」と言われているが、その度に私としては何となく、日本は天皇の御代で時代を区切り、時を刻んでいる国であることを教えられている気がするのである。

 もっとも、教会関係ではそのような言い方はされていなかったと思う(「平成最後のクリスマス」!?)。キリスト者と教会は神の時を生きているからである。そのようなわけで、昨年のクリスマスには、主イエス・キリストが皇帝アウグストゥスおよびヘロデ王の時代にお生まれになったことの意味を、改めて深く思わされたことであった。 (教団書記 雲然俊美)

【4897・98号】メッセージ 光を見る 詩編36編1~13節 雲然俊美

【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。】

 神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。彼の口が語ることは悪事、欺き。決して目覚めようとも、善を行おうともしない。床の上でも悪事を謀り、常にその身を不正な道に置き、悪を退けようとしない。

 主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう、あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。 《詩編 36編1~10節》

光はある

 「のぞみはありません」

 「……」

 「けれども、ひかりはあります」

 この会話で、どのような場面を想像されたでしょうか?

 実はこれ、JR東海道新幹線が停車する駅の窓口での会話であったとのこと。なかなか意味深長な会話であると思います。

 昨年11月、妻の父親が天に召されました。教団の隠退教師でした。同じ年の2月に連れ合い(妻の母)が召され、一時気落ちしていた様子であったのですが、その後、元気を回復してきたかなと思っていたところで、癌の治療で入院となりました。

 義父は高齢(90歳)で、やがて治療方法も無くなってしまい、最後にホスピスに移りました。そのホスピスでは礼拝が持たれていました。義父は自分からその礼拝で説教することを申し出て、娘に自宅から背広を持って来させて、説教をしたのです。

 「あの神の子、御子、尊いイエス・キリストが、あの苦しみのもとで、我々を救いの道に導きたもうた。うれしい。ありがたい。そんなイエスは、『心配するな。今日、あなたがたは私と一緒にパラダイスにあるのだ』とおっしゃってくださるのです。…ああ、うれしい、なんとうれしいことでありましょう」。

 この説教の一週間後に義父は静かに天に召されました。義父には、健康を回復するという望みはありませんでした。けれども最後まで、自らを照らす光を見、それを証したのです。

 望みはなくても光はあるのです。

 

世の根源を照らす光

 この世界は、創造主なる神さまが造られた世界であり、その根源には「光」があります。神さまが最初に造られたのは「光」でした。「神は言われた。「『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1・3)。この「光」は太陽や月の光ではなく(それらは第四の日に造られます)、この世界の根源を照らし続けている「光」です。

 私たちの世界は、暗く深い闇に覆われています。何事か事件が起きるたびに、「社会の闇」とか、事件を起こした人物の「心の闇」といったことが言われます。「神に逆らう者に罪が語りかける」(詩編36・2)現実は変わっていないのです。

 しかし、神さまが創造された「光」が無くなってしまったのではありません。私たちは、暗闇の中で悩み苦しみを抱えて過ごさなければならない時があります。けれども、その闇の中で見えてくるものがあるのです。

 昨年9月の北海道胆振東部地震が起こった夜、北海道に住む高校生が、あるラジオ番組にメールを送りました。「地震の被害に遭った方たちにはすみませんが、星がきれいです」。地上の光が消えてしまったために、星の輝きがはっきりと見えたのです。それは、東日本大震災の夜もそうでした。また、阪神・淡路大震災の夜もそうであったと聞きました。まさに、「主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている」(同6節)のです。

 普段、星の輝きが無いのではなく、地上の人工的な光が、星の輝きを見えなくしてしまっているだけのことなのです。神さまの光は無くなってしまったのではありません。私たち人間の身勝手な思いや罪が、神さまの光を見ることを妨げているのです。

 

まことの光の到来

 主なる神さまは、この世界の根源を照らす光があることを、私たち人間には想像もつかない仕方で示されました。

 私たちが一生懸命に光を求め、光を探すことによってそれを見出す…ということではなく、神さまの愛と知恵と力を注いで、この暗闇の世界のただ中に、尊い御子イエス・キリストをお遣わしくださるという仕方で、まことの光を示されたのです。

 「光は暗闇の中で輝いている。…その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1・5、9)

 私たちが、何とか自分の知恵や力でこの世を照らす光を生み出そう、作り出そうというのではなく、ただ一方的な神さまの愛と恵みによって光がもたらされたのです。まことの光の到来です。

 主イエス・キリストこそは、「世々に先立って父から生まれ、光からの光」(「ニケア信条」『讃美歌21』より)であられるお方です。私たちは、この方の光に、まことの光を見るのです。それは、この世の暗闇にこそ近づく光です。十字架の死こそが私たちの罪の贖いであることを証しする光です。死の壁を打ち破る復活の光です。

 

光に向かって

 広島で被爆後、洗礼を受けられ、アメリカに渡られたサーロー節子さん(2017年にノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン所属)が、昨年11月に、母校の広島女学院で講演をされました。その中で、サーロー節子さんは、被爆直後の不思議な体験を次のように語っておられます。

 「…すさまじい閃光に包まれ、体ごとに吹き飛ばされました。意識を失った後、気が付くと辺りは真っ暗でした。…私はここで死ぬのだなと思いました。…そのうち、誰かに左肩をぐいっとつかまれました。…『あきらめるな。左のほうに光が見えるだろう。そちらに向かって急いで這って出るんだ』と励ますように言われました。言われたとおり、懸命に外に這い出ました…」(広島女学院のホームページより)。

 このようにしてサーロー節子さんは奇跡的に助かりました。彼女はそれから地獄のあり様に直面しましたが、その体験をもとに、核兵器廃絶活動を生涯の課題とされたのでした。

 サーロー節子さんが見た光は日の光であったのでしょう。けれどもその体験から、この世を照らすまことの光を見つめつつ、光に向かって進んで行く困難な活動を始めたのです。

 暗闇が覆い、支配しているこの世界の中で、私たちもまた、「あなたの光に、わたしたちは光を見る」(詩編36・10)との信仰を受け継ぎ、まことの光を見つめつつ、光に向かって歩みを進めてまいりましょう。 (教団総会書記/ 秋田桜教会牧師)

【4897・98号】▼伝道対策検討委員会▲ 「基本方針」具体化・「機構改定」議案化

 1月29日、教団会議室にて、第1回教団伝道対策検討委員会を開催した。

 この委員会は、前総会期の教団伝道対策検討委員会の継続として常議員会の下に設置されたもので、メンバーは、委員が教団三役、常議員4名、8教区議長、伝道推進室書記の計16名、陪席者として常任常議員および総幹事ほか幹事4名である。委員会設置の目的は、「教団伝道推進基本方針」の具体的な展開を伝道推進室と連携して実施すること、および、教団の伝道を推進しつつ教団機構改定に取り組み、その議案化を図ることである。

 議事として、石橋秀雄議長を委員長に、雲然俊美書記を委員会書記に選任した後、第41回教団総会「教団伝道推進と教団機構改定に関する協議会」と、第2回常議員会「教団伝道推進・機構改定に関する協議会」の報告がなされた。

 続いて、石橋委員長より、「教団伝道推進に関する件」(①教団伝道推進基本方針の展開を検討する「教団伝道推進基本方針展開検討小委員会」の設置。②教会・教区の伝道の推進に仕え、教団の伝道を推進するための機構改革を検討する「教団機構改定検討小委員会」の設置。③検討内容の教区・教会等への周知を図ると共に、沖縄教区に配慮する)が提案され、協議の後、委員会としてこれを承認し、各4名の小委員会委員を選任した。

 協議においては、教団の伝道と財政について、機構の改定と運用面での改善について、教区と教団との間の信頼関係を築くことについて、「機構改定案骨子」をもとに検討を進めることについて、沖縄教区との関係の持ち方について、今後の検討のタイムスケジュールについて等の諸課題を検討した。

 その後、石橋委員長が、教団議長として、今年の各教区総会で配付する教団伝道推進・機構改定に関する資料の作成のために第3回(臨時)常議員会を開催する意向を述べ、次回委員会において、常議員会に提案する資料の原案を作成することとした。 (雲然俊美報)

 

伝道対策検討委員会
 石橋秀雄(総会議長・委員長)、雲然俊美(総会書記・書記)、久世そらち(総会副議長)、佐久間文雄(常議員)、井田昌之(常議員)、望月克仁(常議員)、河田直子(常議員)、網中彰子(伝道推進室)、邑原宗男(奥羽教区議長)、岸俊彦(東京教区議長)、三宅宣幸(神奈川教区議長)、小笠原純(大阪教区議長)、古澤啓太(兵庫教区議長)、大塚忍(東中国教区議長)、小畑太作(西中国教区議長) 黒田若雄(四国教区議長)

《教団伝道推進基本方針展開検討小委員会》
 岸俊彦(委員長)、雲然俊美(書記)、望月克仁、河田直子、網中彰子

《教団機構改定検討小委員会》
 久世そらち(委員長)、黒田若雄(書記)、佐久間文雄、井田昌之、小西望(陪席)

  • 共に仕えるためにPDF

    宗教改革500周年記念事業

    International Youth Conference in Kyoto

    日本基督教団2017年度宣教方策会議

    公募・公告

    エキメニュカル協力奨学金 申込書類一式

    日本基督教団年鑑2019年版

    よろこび

    日本基督教団 伝道推進室

    東日本大震災救援対策本部ニュース

    教団新報 archive

    教日本基督教団 文書・資料集 申請書等ダウンロードコーナー

    月間 こころの友