神様の癒しに生きる
長い信仰生活を送ってきた信徒が多い武蔵豊岡教会の教会員の中でも、本橋一一さんの信仰生活の長さは群を抜いている。
一一さんは、一九五〇年、二四歳の時に埼玉県川越市のハレルヤ教会で受洗した。この教会は目の不自由な方が集まる教会であった。信仰の道を歩むきっかけは、在学していた川越盲学校の英語教師が語る神様のお話だった。戦争中にもかかわらず、信仰的な話がなされる等、当時の盲学校では比較的自由な教育が行われていた。
一九六六年に盲学校の先輩の紹介で恭代さんと結婚、二人で埼玉県入間市にある武蔵豊岡教会の礼拝に出席するようになった。恭代さんは松本ホーリネス教会で受洗し、信仰を共にできる伴侶を主に望んでいたので、一一さんとの結婚は望んだ通りだった。現在はいつも肩を並べて礼拝に出席されているお二人だが、礼拝以外で二人一緒に並んで座るのは照れてしまう、と恥ずかしげに語る。しかし、……
〈二四年の歩み〉
この会は、青森県野辺地教会の教職、信徒の方の祈りにより立ちあげられた会で、教区主体の農伝が廃止されたことがきっかけとなり、自主団体としての活動が今も続けられている。農民信徒の自立的信仰確立を目差して、エキュメニュカルで始まったが、現在は、生活者全てを対象にして門戸を広げ、実質的には教区の農伝部分を担う活動となっている。
〈運営の特徴〉
運営は、参加費、年会費(一二〇〇円)、賛助会で賄われ、青森、秋田、岩手三県の教会を持ち廻り、食材と寝袋を持ち寄り、手づくりで行われている。委員は農民信徒が中心になりながら、協力牧師に支えられ、七回目からは報告を出すようになった。
〈八甲田での集い〉
去る一〇月二三、四日第二四回目の総会及び研修会が、八甲田伝道所・農村センターの収穫感謝の集いと合同で行われ、延べ三〇名の参加者が与えられた。
テーマは「『私の農村伝道論』~農村に生き……
「私」を探し続けて
寺島 順子
(野方町教会員)
その昔、真面目な顔をして夫が言ったことがあります。「生まれ変わってもまた君と結婚したいと思うけど、どう?」。私、「う~ん、牧師じゃなければねえ、返事は保留!」。祖母も母も牧師夫人だった私は、「牧師とだけは結婚したくない」と心に誓っていながら、神さまの悪戯の罠にはまってしまいました。その故か、「牧師夫人」という呼称には少なからず抵抗し自分らしい在り方を模索し続けて今日に到っています。しかし神さまはそのような反抗的な私を、忍耐と寛容をもって見守り続けてくださったばかりか、遣わされた各々の教会に於いて、さまざまな出来事と人々との出会いを用意して、私の小さな信仰を育て、鍛えてくださっています。
阿佐ヶ谷、下関丸山、甲府、野方町と、各々の教会での貴重な体験が今の私を形作っていることは紛れもない事実です。特に下関にいた三〇代の頃、在日大韓下……
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『教団新報』編集部
(1)誕生年
(2)出身地
(3)信仰歴(受洗年、受洗教会、教師名)
(4)趣味
(5)モットー
(6)抱負
斎藤仁一 東北教区山都教会
(1)1952年
(2)山都町(会津地方北西部)
(3)1973年、 山都教会、 渡辺晋牧師
(4)音楽を聴くこと、読書
(5)喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く
(6)◎過疎地にある教会と共に歩む
◎多様な考えや活動を認め合う
◎様々な考えや意見を積み上げていく会議制を重んじる
和田献一 関東教区氏家教会
(1)1947年
(2)東京都
(3)1959年、 氏家教会、 和田正牧師
(4)特になし
(5)特になし
(6)教団が「荒野の40年」の対立の過去を見据え、克服し、「対立から連帯」への新しい歩みを始め、多様性の中で深い対話が生み出されるようにしていきたい。アジアの教会……
4615号3面、小橋孝一氏の出身地「鎌倉市児島」を「倉敷市児島」にお詫びして訂正いたします。
粟津音松氏(隠退教師)
十月十六日、逝去。九一歳。広島県に生まれる。一九四〇年関西学院大学神学部卒業後、日本メソヂスト教会朝鮮清津教会に赴任。その後多度津教会、札幌教会を経て、六六から八〇年まで大分教会を牧会し隠退した。遺族は息子の安和さん。
木下芳次氏(隠退教師)
十月十八日、逝去。八八歳。北海道に生まれる。一九四一年青山学院大学神学部卒業後、日本メソヂスト教会茅ヶ崎教会に赴任し九三年まで牧会した。その後二〇〇三年まで茅ヶ崎南湖教会の牧師を務め隠退した。遺族は妻の潤子さん。
売春防止法公布(一九五六年五月二四日)から五〇年。これにはキリスト教諸教派・諸団体の祈りと、時には血を流す闘いの歴史がありました。現在、種々の婦人保護事業が展開されていますが、キリスト教社会事業の果たす役割はなお大きいようです。
さる十一月七~九日、「かにた婦人の村」で日本キリスト教社会事業同盟(以下、社事同)の中堅職員研修会が開催されました。福祉の原点を拝見し、学ぶと共に、聖書に聴きつつ研鑽を重ねる良い機会となりました。
国の社会福祉施策が大きく変わりましたが、まだ、調整すべきことが多々残っており、先の見えにくい状況の中にあります。新しい制度の中で、抱えている困難の大きな方々が見捨てられることがないように、制度面でもさらに検討が加えられなければならないでしょう。社事同はこの時代にキリスト教社会事業の意味を再確認し、方策を打ち出して関係協力を強めています。教団社会委員会は社事同とさらに……
命と向き合う~ キリスト教医療ミッションの現場から
JOCSの歴史は、日中戦争の惨禍の只中、一人の牧師の情熱に打たれたキリスト者医学生が中心となって中国難民救済施療団が赴いた(一九三八年)ことに遡ります。それは、学生YMCA・学生キリスト教運動のうねりと呼応し全国各地の若者たちを巻き込んでいきました。
第二次大戦後、日本キリスト者医科連盟が設立(一九四九年)され、その後創立(一九六〇年)されたJOCSは二〇一〇年に五〇周年を迎えます。私たちの歩みは、JOCS二五年史「アジアの呼び声に応えて(新教出版社:隅谷三喜男著)」に克明に記録されています。それは日本における海外での保健医療協力の草分けとして、時代の荒波を乗り越え草の根の人々と共に歩んだ歴史でもあります。
"Go to the people"(人々の中へ行きなさい)-これは、私たちの基本的な精神です。故岩村昇さんがあのネパール……
▼十二月二四日も深夜、帰省もできず、どこといって行き場もなく、一緒に過ごす恋人もない、哀れな神学生数人が、寮のロビーで、たむろしていた。未だコンビニのない時代、「お腹が空いたね」と愚痴りつつ、教会で貰ってきた菓子を、貧乏たらしく分け合っていた。▼突然の来客があった。神学生へのプレゼントにと綺麗に包装された品々と、クリスマスらしいご馳走もあった。残っていた神学生が皆呼び集められ、にわかにイブの祝会が始まった。▼客は作曲家の安部正義さん。『馬槽のなかに』が生まれる逸話、働いて弟妹を養わなければならない貧しい生活の中で音楽を志し、成人してからやっとピアノを弾くことができたという苦労話、否、証を伺った。讃美歌も一緒に歌った。▼田舎の貧しいノンクリスチャンの家庭に、サンタクロースは一度も来てくれなかったが、この日、神学校の寮で、確かにサンタクロースを囲んで、イブの宴が持たれた。三〇年程も昔の古い古い……