牧師になってから初めて出席した同窓会で、会場に入るなり「皆〜私たちは何があっても大丈夫〜アミを神さまにお捧げしたから〜!」との声。「あのね、一人捧げると全員救われる仕組みじゃないから」「そうなの?(笑)」そんな彼女は、私が不定期で説教奉仕をしていた教会のクリスマス・イヴ礼拝に2回出席してくれた。讃美歌を聴くと色々想い出がよみがえるという。同窓会を短い礼拝から始めたいと頼まれたので終わりに「では久しぶりの方もいるでしょうが、お祈りしますので『その通りです』という意味のアーメンと言ってください」と伝えて祈った。「懐かし〜い」「久しぶりに言った〜」素直な感想が飛びかった。
賛美や祈りを想い出に封じ込めるのではなく、今を生きるものとするには、聖霊の導き以外、信仰者に何が出来るだろうか。
『主イエスの洗礼は、神さまがわたしたちに差し出してくださった手です。(略)わたしたちにできる最善のことは、感謝してその手を取ることです。だからわたしたちも、洗礼を受けるのです』(『イエスの歩み31私に従いなさい』吉村一雄著/日本キリスト教団出版局)。洗礼は大切だが難しくも遠くもない。主ご自身が近くにおられる喜びが全ての教会に与えられている。祈り、身近な救いを知らせたい。12年ぶりの同窓会の知らせ。祈りが結実しますように。(教団総幹事 網中彰子)