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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【5030号】メッセージ 神の導く希望の岸へ(1面)

2025年3月22日

神の導く希望の岸へ

黒田 若雄(高知教会牧師)

人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」(使徒言行録27章21〜26節)

嵐の中で希望を持ち立ち上がる

 パウロは、危険な考えを広めているとの嫌疑で逮捕され、ローマまで船で護送されることになりました。順調とは言えない航海が続きますが、ようやくクレタ島に到着することが出来ました。しかし、既に航海には適さない冬に入っていました。それにもかかわらず、船は出航することになったのです。

 この選択は、必ずしも間違いとは言えないものでした。今いる港は冬を越すには適当ではなく、しかも、航海に最適と思える風が吹いてきたからです。この時との思いで出航しますが、その後、嵐に襲われます。ですから、乗船している人たちにとって、予想外の事態でした。船員たちは、船を軽くするために、積み荷や船具を捨てます。この嵐の中で最大限の努力をします。しかし、何日も続く嵐の中で、多くの人たちは、助かる望みないのではないかと思っていました。

 ところが、その状況の中で、パウロが立ち上がって言います。「元気を出しなさい」と。そして、食事をすることを勧めます。パウロのこの声は、混乱に飲み込まれていた船に、ある落ち着きを与えました。そして、嵐の中を進んでいく大きな力となりました。

 誰もがこの時のパウロの姿が心に残りますが、自分に置き替えればどうでしょうか。私たちも、人生の歩みの中で思いもしない現実の中に立たされることがあります。嵐はやむのか、どこに向かっていくのか分からない、そんな中に立った時に、パウロのように希望を持ち立ち上がっていくことが出来るだろうかと思います。パウロだからそう歩むことが出来たけれども、自分には無理ではないかと思ってしまうように思います。しかし、その受け止め方は、本当に正しいでしょうか。

必ず実現する神の計画

 パウロは、この船の中でただ一人希望を持ち続けられたのでしょうか。そうではありませんでした。「ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」の「助かる望み」は、聖書の元の言葉に遡ると「私たちの助かる望み」とあります。つまり、助かる望みはなくなったのではないかと思っているのは、使徒言行録を記すルカだけではありませんでした。ルカが使徒言行録で「私たち」と表現する際には、パウロを含めて「私たち」と言います。ですから、ここでの「助かる望みはないのでは」との思いは、ルカだけではなく、パウロの思いでもあったのです。パウロもまた絶望の中にいました。

 しかし、そのパウロは立ち上がります。パウロが立ち上がることには、大きな理由がありました。パウロが皆に「元気を出しなさい」と言う前夜、神からの使いが「恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」と語りかけます。神からの使いの言葉ですから、神からの言葉なのです。パウロは、その言葉を通して、嵐の先に神が備えられた道があることを示されました。

 注目したいのは、パウロに神が示されたのは、嵐を乗り越えていけるような処方箋のようなものではありませんでした。示されたことはただ一つです。「皇帝の前に出頭する」、つまり、自分たちが神の計画の中に置かれていることです。「私はあなたに対して計画を持ち、それを必ず実現する」と、神はパウロに示されました。この神の言葉によって、パウロは直面している現実の先を望み見ることが出来たのです。そして、その後、ある岸へと打ち上げられることになりました。

神の導く恵みの船路を進む教会

 今、日本の教会は厳しい状況の中に立たされていると言われます。日本のほとんどの教会がこの少子高齢化という現実の中に置かれているとすれば、それは神からの問いかけであり、神はこの現実を通して、教会に大切なものを示そうとしておられるのではないかと思うのです。大切なもの、それは、教会を真に導くのは神であることです。

 高知教会は、1885年に設立されました。東京や大阪から遠く離れた、人口も多くない地域で、伝道の可能性が高いようには思えなかったはずです。しかし、高知での伝道の歩みは、携わった人たちの思いを超えて進みました。ある宣教師は本国に送った手紙の中で、「高知で行った伝道を他の地域で実行しようとしたが、不可能だった」と書いています。つまり、唯一無二の伝道が、この高知で進められました。当時の感覚で言えば、「中央」から離れた地方において起こった伝道の展開を、宣教師は驚きを持って受け止めました。そうして高知教会は歩み始め、神によって導かれ、140年の歩みを重ねてきました。これは、高知教会だけの姿ではなく、それぞれの教会の姿であることを思います。

 それぞれの教会は、今まで導かれて歩んできました。それならばこれから先の歩みはどうなるでしょうか。この船のように、嵐に巻き込まれる時もあるでしょう。その時、自分たちの力で展望を見出して進んでいくのではないのです。嵐に遭っても、必ず打ち上げられる岸があることを忘れずに歩むのです。その岸は、私たちが思う岸とは違うかもしれません。しかし、神が導かれる以上、それは希望の岸なのです。

 そして、教会が嵐に見える現実の中を歩んで行くために、神は、私たちに大切なものを与えてくださっています。言葉、それも語りかけられる言葉です。厳しい状況の中で、神が私たちに語り続けてくださるのです。そうして、私たちは聞かされる。神の御声に聞く時に、先行きを見通せない現実の中で、神の将来を望み見て進むことができるのです。そして、思いもしない岸に打ち上げられる経験をし、神の御業の豊かさを知らされるのです。教会は、これまでこうして歩んできましたし、これからも歩んでいくのです。教会という船は、神の導く恵みの船路を進み続けていくのです。

 
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