ウィリアム・H・W・ジャクソン 氏(神愛教会牧師)
六月二四日、逝去。八六歳。北アイルランドに生まれる。一九四九年英国エマヌエル聖書神学校卒業後、五三年来日。六八年上山教会に赴任。七二年から神愛教会牧師を務めた。遺族は妻の信(ノブ)F.さん。連絡先/静岡市清水区沼田町8-5
今年度の東京教区の取り組み
木下宣世
二〇〇五年度、東京教区が特に力を入れて取組もうとしていることがある。
それは教区内の教会・伝道所に対する助成制度の整備に関することである。
これまで東京教区には「教会強化のための支援要網」というものがあった。これは比較的短期間に自立する可能性のある教会を対象としたもので、例えばこの支援により教師がアルバイト等から解放され、牧会・伝道に専念できれば教会の強化につながるのではないか、というのが当初の意図であった。
しかし、この要網が実施されたのは一九六九年であり、その後起こった長期に亘る紛争のため実際にはこの要網は有効に機能することはなかった。
また、今日となってみると時代の変化により、実情に合わない面も出てきている。
そこで、この要網を見直し、今日の実情に合ったものを作ろうというわけである。
加えて東京教区には「教会設立および伝道所開……
「日本キリスト教海外医療協力会・JOCSは、『お金や物を安易に送るのではなく、人を派遣することを通して共に生きる』ことをモットーに活動しているNGOです」小冊子に記されている通りに、計七年以上バングラデシュで活動し、様々な障碍を持つ人々と「共に生きて」きた岩本直美さんの報告会が、去る七月二三日、玉川教会を会場に行われた。
北海道くらいの面積に一億五千万の人口、高い山が迫り人が住める所は限られている、ドラム缶をひっくり返したような雨、講演は国土と気候についての説明で始められた。何より、私たちがいかにこの国について無知であり、無関心であったかを教えられた。それは、イスラム教徒についても同様だ。断食月の厳格さは聞いていても、厳密な人は唾も飲まないというのには驚いた。
もっと驚き深刻に受け止めたのは、親がいても放置され、自ら家を出、路上や駅で生活する子供たちの実態だ。希望のない生活の現実、麻薬……
「何故部落差別が今だに残っているんだろう。差別はなぜおこるのか?」このような基本的な疑問をもって多くの人が今年も第八回部落解放青年ゼミナールに集った。八月九~一二日、京都から大阪のいずみ教会に会場を移し行われたゼミは二年目。部分参加等も含めて総勢五九名の方々が関わってくださった。
参加者の半数は一〇代・二〇代という知識も経験も若い私たちであったが、だからこそ語り合える現実というものがあったと感じる。遠くは北海道からの参加、また韓国の大学生との交流・対話の時が与えられ、今後の関係性の継続も期待される。東岡山治部落解放センター運営委員長による開会礼拝では、ご自身の歴史を踏まえ人間解放に向けての希望が力強く語られた。
昨年に引き続き地元の青年との交流、また初めての試みとして彼らの活動であるDASHとの共催の公開講演会が行われた。基礎講座と各地における現実が様々な視点から報告された。青年ゼミ自……
学校伝道研究会は、幼稚園から大学までのプロテスタント・キリスト教学校において、伝道と教育に奉仕することを使命とする者たちの研鑽と相互育成を目指す会である。
各学校における孤立した活動としてではなく、全国的視野に立った意識と連帯を持ち、教育の中核に生徒・学生の人格的・霊的育成を見、その実現に向けて、福音に基づく教育の具体的展開、実践的課題を探求するための「伝道と教育に関する神学」を目指している。また青年の信仰育成の場として、教会との連携を極めて重視している。
第二二回夏期研修会は八月四~五日の二日間、参加者四三名で開催された。一日目は夕方から荻窪清水教会を会場に懇談会が持たれ、大阪キリスト教短期大学チャプレン・重富勝己氏より「学生の魂に届くために-大阪キリスト教短大チャペル活動紹介-」との発題があり、勤務校における学生の霊性育成のための工夫、努力を伺った。更に地域の教会に繋げていくことが……
おとなと子どもの合同礼拝 小林克哉
いわゆる「教会学校の低迷」について語られるようになったのはいつ頃からだろうか。少子化や、子どもを取り巻く社会状況の変化など、外的要因も取りざたされる。そのような中、各教会とも様々な工夫や試みをなしているかと思う。
今回はそのような教会の一つとして呉平安教会の試みを紹介したいと思う。
・教会学校休校状態から
呉平安教会は一九〇四年に南美以呉教会として創立された。宣教師の働きにより幼児教育施設も設置され、教会は幼稚園と共に歩んできた。教会学校の生徒は在園児や卒園児が多くを占めていた。 しかし一九九二年に幼稚園が廃園になると、幼稚園つながりで来ていた子どもたちは次第に教会学校に来なくなっていったのである。教会学校教師だけで礼拝をささげる日が多くなり、遂に教会学校は休校状態に追い込まれることとなる。教会堂に子どもたちの声が聞こえない日々が続い……
▼先日、壮年会の修養会を持ち、『主の祈り』を学んだ。毎日曜日毎に、それどころか集会のある度毎に唱える。ために念仏化し、殆ど無意識に祈っている。一節一句を吟味しない。▼ある教会では、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく」で、皆が息を飲み、一瞬沈黙する。人を赦すことのできない己が現実を見据えるためだ。しかし、これも既に習慣化している。▼「悪より救い出したまえ」を、『こどもさんびか』で見ると「救いいだしたまえ」とルビがふってある。何十年も「救いだしたまえ」だと思い込んでいた人は少なくないらしい。▼讃美歌も信仰告白もそうだが、慣れ親しんだもの程速く唱える。殆ど何も考えずに。礼拝が終わったら、今日の式次第に使徒信条があったかなかったか記憶が定かでなかったりする。▼心臓を患ってから、直ぐ息が上がる。年配の方々がゆっくり祈る理由が初めて解った。主の祈りをもっとゆっくり唱和しましょうと申し合わせた。勿論……
マタイによる福音書二〇章二九~三四節
開かれた瞳で何を見るのか 新井 純
主イエスと弟子たちは、エルサレムに向かう途中、エリコの町を通った。町を出ようとした時、道端に二人の目の不自由な人が座っているところを通りかかった。
二人は、そこを通り過ぎているのがナザレのイエスとその一行だと知り、声を張り上げ懇願した。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください!」
“あわれむ”という言葉には、一般によく知られている同情するというのとは別に、生きるか死ぬかの権利を握られているような罪人を、罰しないで許そうという慈悲、情け、容赦、そういった意味もある。
障碍や重い病気などが罪の報いであると信じられていた時代のこと、もしかしたら、この二人は単に障碍を持つ者への慈悲を求めただけではなく、救い主と噂されていたナザレのイエスに、罪の赦しを願ったのだろうか。
この時、周囲の人々は二人を……
「赤バッチになりました」と言い、少年はいつに無くうれしそうである。この日の面接は積極的に自分から話をするのであった。少年院の篤志面接委員をしている。少年達と面接をすることで更正指導を行い、社会復帰の備えをするのである。
しかし、少年達は自らが望んで面接を受けているのではなく、少年院の指導のもとに面接に臨む。本来は少年達がいろいろ相談を持ちかけるのであるが、何を相談してよいか分からない。そこでこちらから話しかけ、現状や将来について話し合うのである。
少年達は窃盗、猥褻、薬、暴走運転、放火等により保護されている。比較的に多いのは放火である。それも火災まで考えていないようで、軽い気持ちでゴミ箱や物置等に放火するのである。軽い気持ちであるが、そこに至るのは多くの場合、孤独にさいなまされてのことである。神社仏閣の賽銭箱から盗んでは遊びの資金にしていたと言い、教会は表に賽銭箱がないので魅力が無いと……
私の思いを超えたところで
両親がクリスチャン。教会に行くのが当たり前の生活だった。音楽に触れたのも、「将来奏楽のご奉仕ができれば」という親の祈りだったという。ピアノを習った先生が、本来声楽が専門だったこともあり、声楽の道に進んだ。
「自分は今のまま、長く歌手として生きることができない」限界を感じ、自分を崩したいと願うようになった。ミュンヘン音大に留学中だった。「でも、崩れる時って人間の想定内の崩れ方をしないんですね。本当に何もなくなりました」声を壊し、歌えなくなった。さらに帰国後、病が追い打ちをかける。「喉にかなり大きなポリープが見つかり、手術が必要になりました。声帯は筋肉ですから」。手術すると、またゼロから鍛えなければならない。
声を失って、歌えなくても教会は受け入れてくれる。できる範囲の奉仕もさせてくれた。「それがかえって嫌でした。私はこんなに弱いの。私に構わないで」と思った……