二日目午後は、午前中に審議できなかった17号議案から議事が再開された。
在外教師の按手礼執行
前回の常議員会から継続して審議されてきたベルリン日本語教会の秋葉睦子補教師の按手礼執行について、木下宣世世界宣教委員長から「日本で教区に属しておらず、受按が困難である。ベルリン日本語教会は現在聖礼典のない礼拝を守っており、秋葉教師の受按が切実に待ち望まれている」と説明があり、山北宣久議長から「世界宣教委員会の立場に合わせて、議長が按手礼式を執行する」方針が上程された。
議場からは前回に引き続き、教規にない取り組みであることが指摘され、世界宣教委員会の推薦であるならば東京教区ではないのか、できるだけ教憲教規に沿う形が望ましいのではないかという見解が示された。在外教師については、教団の責任で行うべきとの見解も示されたが、議論の結果、再度継続審議となった。
日本伝道150年
近く日本伝道が開始……
教団が「中越地震被災教会・被災地を覚える主日」を制定したのを受けて、東京教区の中越地震被災教会を覚える特別礼拝が、一〇月二八日午後、霊南坂教会で行われ、十教会から七〇人近くが出席した。
礼拝で教団中越地震災教会会堂等再建支援委員長の小橋孝一牧師(霊南坂)は、「主のみ体の枝として」と題し説教を行った。
「教団の特徴の一つは、日本の隅々にまで伝道の拠点を持っていることで、その拠点を失うことは、その地域から事実上伝道の手を引くことになる。その教会の再建は、教団全体で負うべき私たちの責務だ。
パウロのいうように、私たちはキリストの体なる日本基督教団の枝々であり、教区が腕であれば、各教会は一本の指だ。私たちがこの三年間行って来たことは、左腕の指の血を右腕の指に流すことだった。この血が循環することによって、体全体が一つの命を生きることが出来る。
パウロが命をかけて、異邦人教会で募金したものをエ……
第三回世界宣教委員会は一〇月五日に開催された。
この日は、中国の武漢に派遣されていた加藤実・鈴両宣教師を招いて帰国報告をうけ、慰労を兼ねた昼食会を催した。中国での厳しいキリスト教伝道状況下にも、確かに主のみ言葉が蒔かれていることを証してくださった。
今回の委員会で特に大切な協議は、以下のとおり。
①従来CoCが担当していた留学生への奨学金継続の今後について、詳細に奨学金規定内容の議論やその資金確保などの検討がなされた。日本から北米へ留学した青年達を支えてきたこの奨学金の意義を歴史的に再確認し、今後アジア等の諸国からの留学生を支援するために継続する旨が承認された。また、財源のひとつとして、来年度より「世界宣教の日献金」を組み入れることが決定された。
②北米関係教会との宣教協約締結は、作業部会を中心に検討中であるが、協約内容を相互に確認し合い、新しい時代に向けての宣教課題や展望を共有し……
新しい互助体制が始まります
福島純雄
この五月の教区総会で、これまでの謝儀保障規則に代えて、宣教共働連帯金規則を制定した。この新規則に基いて、次年度から新しい互助制度がスタートすることとなった。
旧謝儀保障制度は一九九四年に始まったが、保障受給教会が固定化し、また財源の制約もあって新規受給をストップせざるを得ない状況がここ数年続いてきた。保障を受給すれば牧師を招きうる教会が幾つかあり、今後もそうした教会が増加するであろう事が予想される。
現行の制度ではそうした事態に対応できないため、今回の改定がなされたのである。
新制度の最大の特色は、宣教共働連帯金の申請主体が地区となった点である。勿論第一次的な受給申請は、その教会が所属する地区に対してなされるのであるが、地区はこれを受けて地区全体の宣教の見地からその必要の是非や受給額を協議して、地区から担当する委員会に申請を提出する事にな……
主 題 「聖 餐」
日 時 二〇〇八年一月八日(火)〜十日(木)
会 場 国立オリンピック記念青少年総合センター
開会礼拝 学 長 山内 眞
主題講演 「聖 餐」 教 授 近藤 勝彦
シンポジウムⅠ 教 授 大住 雄一
教 授 小友 聡
准教授 中野 実
常勤講師 焼山満里子
シンポジウムⅡ 教 授 山口 隆康
教 授 棚村 重行
教 授 関川 泰寛
准教授 ジャンセン
特別講演 「ホスピスとキリスト教」
金城学院大学学長 柏木 哲夫
シンポジウムⅢ 教 授 芳賀 力
教 授 ヘイスティングス
教 授 神代真砂実
閉会礼拝 教 授 朴 憲郁
会 費 二五、〇〇〇円
申 込 案内が届いていない場合は、郵便振替(00160-5-188941 東京神学大学学外活動委員会)に会費を振り込んで下さい。振替用紙の……
村田武一氏(隠退教師)
九月二二日、逝去。七七歳。東京都に生まれる。一九五五年日本聖書神学校卒業後、五六年から九九年まで深沢教会牧師を務め、隠退した。遺族は妻の文子さん。
土合竹次郎氏(隠退教師)
十月三日、逝去。一〇一歳。富山県に生まれる。一九三四年青山学院大学神学部卒業後、日本メソヂスト教会樺太敷香教会に赴任。三六年から七四年まで秋田楢山教会を牧会。その後、八四年まで土崎教会牧師を務め、隠退した。遺族は娘の菊池安子さん。
神の善い業に参加する日々
タヒューン・ヘイゼル
タヒューン・ロバート
(合同メソジスト教会《UMC》からの派遣宣教師)
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」とパウロはフィリピの信徒への手紙1章6節に記しています。それは大昔そこにいた信徒への約束というだけでなく、伝道するために日本へ導かれた私たちへの約束であるとして受け止め、今、それを確信させられています。この約束と神の愛と恵に満ちた働きと支えがあったからこそ、日本に住んで伝道する忍耐と希望が与えられたと言えます。
ヘイゼルがこの「善い業」に参加するきっかけとなったのは、アメリカのペンルヴァニヤ州の田舎にいた九歳の時でした。教会の礼拝で朗読されたイザヤ書6章8節の神のみ言葉に感動し、「あなたのみ旨ならば私はあなたの宣教師になります」と、心の……
猛暑といわれた夏も終わり、凌ぎ易くなった十月九日(火)に、二○○七年度の伊豆諸島伝道協議会が東京教区東支区内の三崎町教会にて開催された。毎年四月に行われていたが、五月には、伊豆諸島連合修養会が行われたので、今年はこの日の開催となった。
各島の教会から教職と信徒、東京教区各支区から五〇名近くの教職信徒の出席を得、この度日本基督教団総幹事として立てられた内藤留幸師をお迎えし、開会礼拝説教「恐れるな、語り続けよ」との御言葉と説教を頂き、「島における確かな教会形成」のテーマに相応しい励ましとお教えを頂いた。島の教会は勿論、都会の信徒にも有意義な礼拝のひと時であった。
昔は、都会でもよく路傍伝道が行われたが、最近はあまり見かけない。教会の中だけに留まらず、地域に溶け込み、とにかく出て行って、主が共にいて導いて下さることを信じ、何も思い煩わずに恐れず語るようにとの奨励をいただいた。
島の各教会か……
日本基督教会の牧師家庭に生まれる。一番幼かったので礼拝の時間は、一人で牧師館にいる事が多かった。その頃、礼拝堂からの歌声が心に響いてきた。その曲は、ハレルヤコーラスであり、それ以来、心に響く美しい音をいつも求め続けている。
その後、父は教会を辞し、目黒で幼稚園を経営する。園舎の一部が自宅であり家庭環境は余り良くなかった。学生時代は、受験競争とスパルタ教育に大きな反発を覚え、家にあった教育講座や関係書物を読み漁った。暗闇のような現実と、教育の理想の明るい世界との落差にどちらが本当なのかと悩んだ。
少し絵心があって研究所に通う途中、一念発起して一九四四年に地方の代用教員となり、学生生活を終えてから正式な教師となる。絵が好きというだけで美術の教師となったので、絵の何たるかを何も知らなかった。だから、とにかく良い絵を見ようと美術館に通った。フランスの後期印象派、セザンヌの絵を三三……
教会の近くに住む教会員が召天され、当然キリスト教の葬儀が行われた。葬儀にはご近所の皆さんも多く参列された。所用で電気屋さんに寄ると、葬儀には列席されたと言われ、キリスト教のお葬式はよいものですね、と言われる。お話も良く分かりましたとも。
葬儀は召天された方の証を示されるのであるが、それと共に社会の人々に聖書のメッセージを伝えることができる。伝道が深まるときでもある。
そして、葬儀と共に一般の皆さんにメッセージを示すことができるのは結婚式である。
幼稚園の先生が結婚することになり披露宴に招かれた。相手の彼は小学校の先生である。彼の主賓は校長先生で、僧侶でもあるということである。教育者であり、宗教家である校長先生は、さすがに感銘深く祝辞を述べられた。終わったとき、随分長いなあと思った。
次に花嫁さんの主賓である園長(牧師)の祝辞である。園長は、キリスト教主義幼稚園で……