五月末に五日間の日程でドイツ・ハノーファーで行われた「キルヘンターク」の報告をしてみたい。「キルヘンターク」とは直訳すれば「教会の日」となるが、「教会祭」というのが一番ぴったり来るように思われる。キリストを信じる者が二年に一度集まって「キリストを祝う(つまりは「祭り」)というのが趣旨だからである。元々の起源は一九世紀末の敬虔主義的な信徒運動から始まったこの祭りに、今年は一〇〇万人のキリスト者が全国から集まった。この信徒運動は、ドイツ国内に留まらず、ヨーロッパ全体に広がる国際的な性格を持っていたため、第二次大戦中はナチから禁止されていたという経緯もある。戦後新たに数えて今回が三〇回目となる。信徒運動という性格故に「信徒大会」と訳すこともあるようで、「教会の公式の行事」ではなく、教会はあくまで経済的な後援を行うという慣例になっている。ドイツの教会の性格の一面を知るには、私のような外国人にとって……
▼二昔も前のこと。重度の身体的障碍を持った方々と月一回の礼拝を一緒に守っていた。日常会話も不自由な人が多く、讃美歌を歌うことが困難なことだった。▼少し歌える人も、大幅に音を外す者に引きずられてしまう。一〇数人の讃美は、悲惨な状態になるのが常だった。讃美歌が無くても礼拝は成立する、そうも考えたのだが、メンバーは歌いたいらしい。▼ヒムプレーヤーは未だ持っていなかった。奏楽を録音したものを持参する。必死でこの音を聞いた。メンバーがトンデモなく外れた音を出しても、その声には耳を閉ざし、ひたすら奏楽だけを聞く、そんな器用なことが出来るようになった。メンバーには関係なく、一人で正しく歌えた。▼初めて正しく歌えたその瞬間に目が覚めた。何をやっていたのだろうと。これでは讃美でも何でもない。次の礼拝からテープも止めた。みんなで歌った。思いっきり音を外して、気持ち良く歌っている彼らの心持ちが、だんだんに分かっ……
ヨハネの黙示録 三章二〇節
扉を開いて 藤掛順一
会堂開放
私たちの教会は昨年秋から、「会堂開放」を始めました。私たちの教会堂は一九二六年に建てられた、ご覧のように大変厳めしい建物です。新来者にとって決して入り易くはない、敷居の高いものですが、他方横浜市の歴史的建造物に指定されており、それらを巡るツアーのコースにも入っていて、見学を希望する人はけっこうあります。
しかしこれまでは、正面玄関近くに事務所を設けることができないという構造上の制約もあり、週日には扉を閉ざしていました。それをこのたび、教会員の中から奉仕者を募り、毎週木曜日から土曜日の午前十時から午後四時まで、正面入口の受付に奉仕者が二人ずつ待機して、来訪者を迎え、必要があれば建物の説明などをするという体制を整えました。開放中、外には「会堂開放中です」という看板を出し、気候のよい時には扉を開けたままにしておいて、……
各教区総会が続いている。残念ながら沖縄、京都の両教区は問安使を拒否されたが、それゆえにこそ対話を求めて行かねばならないと感じている。沖縄教区総会には愛澤豊重総務幹事を傍聴せしめたので、報告を受け対応していきたいと思っている。
四役で分担して一五の教区総会を問安しているが、幹事たちも一人一教区ずつ随行訪問させていただいた。
私は四国、奥羽、東北、西東京、関東の五教区を問安させていただいたが、各々の教区固有の宣教課題を担いつつ歩んでいる様子を今回も教えられている。
差異はあるが、「合同のとらえなおし」の問題をめぐる質疑、そして、セクシュアル・ハラスメント裁判についての質問が多かったように思えた。
これらについては深めることは出来なかったが、現状の把握はそれなりなしえたことは有益であったと感じている。
一方、教区活動連帯金の受入額減少をめぐっては厳しい意見、注文もなされ、これも今後に反……
必要なものは与えられる
必要なものは、主が与えてくださる。それが、民代さんが信じてきたことだし、事実、これまでもそうだった。
民代さんの父、森敬造氏は関西学院に学んだメソジスト教会の牧師だった。必ず民主主義の時代が来ると三番目の娘に民代と名付けた。父の転任に伴い、家族も石川、愛知、愛媛と住まいを移った。戦争となり四年ごとの転任がなくなる。民代さんは、三瓶教会で小学生から高校生までを過ごし、父と母が教会に仕える姿を間近に見てゆく。父は伝道一筋の牧師だった。
終戦後、女学校を卒業した民代さんは、姉の学んだ東洋英和女学院に進みたかったが道が開かれなかった。東京・府中に開校された生活指導学校へ社会福祉主事になるべく進学した。
父は、娘たちに職業に就くことを強く勧めた。二人の姉は、それぞれに栄養士、幼稚園教諭となっていた。民代さんに与えられたのは幼稚園助手としての働きだった。二百名の園児……
「新潟県中越地震」被災教会会堂等再建支援委員会が発足し、一億五千万円の目標を掲げ、全国の諸教会に支援のお願いを始めて半年が経ちました。現在約三千万円の募金が皆様のお祈りと共に寄せられています。ご協力を心より感謝いたします。
被災地は震災の後、例年にない豪雪にも見舞われました。関東教区発行の「被災支援センターニュース」11号に、「雪との戦いが終って、再び地震の被害との戦いが始まる。この痛みを負った被災地の現実に主の導きと私達の真心を持って望みたいと願っています」とありました。雪解けと共に被害の姿が再び露にされ、補強・補修工事を含め、復興作業が急がれます。
仮住まいを続ける牧師ご家族、体調を崩された信徒の方々、そのような厳しい中でなお主のお守りに感謝し、主を信じて前向きに歩んでおられるとのこと。新たな雪の季節を迎える前に、どうか再建・復興させていただきたいと願います。
多額の会堂建築負債……
「さいはて」こそ伝道の拠点
輪島教会牧師 勇 文人
朝、金沢方面に車で向かう途中、何台もの観光バスとすれ違う。「奥能登さいはての地めぐり」や、「辺境を旅する」などと銘打ってバスツアーが実施されているのが分かる。私は六年余前、輪島に遣わされた当初、この地が「さいはての地」と呼ばれていることに、あまり良い感情を持たなかった。
しかし、鉛色の雲に覆われ牧師館を揺らすような激しい暴風雪が連日吹きすさぶ冬は、荒涼としたイメージさえ漂わせる。能登半島の北端にある輪島は鉄道が四年前に廃止となり(今年三月には珠洲線が廃止となったために奥能登から鉄路は完全に消えた)、交通手段はバスと車しかない。同じ能登伝道圏を構成している「隣りの」七尾教会まで六〇キロ、羽咋教会まで七五キロ離れている。さらに金沢までは一二〇キロという地に住むと、車は貴重な交通手段となる。私の車の走行距離は毎年三万キロを超える。……
佐々木悟史氏(隠退教師)
三月二七日、逝去。七六歳。長野県に生まれる。一九五五年、東京神学大学大学院修了後、酪農学園教務教師、野幌教会を経て、六七年から八六年まで山梨教会、九一年まで西ドイツケルン・ボン日本語教会牧師を務め、九三年隠退した。遺族は妻の五津子さん。
照澤康晴氏(砥部教会牧師)
四月二八日、逝去。七五歳。東京都に生まれる。一九五三年日本聖書神学校卒業後、松山御宝教会に赴任。その後、卯之町教会、野村教会を兼任、旭川豊岡教会を牧会した。箱根伝道所、大井伝道所を兼務の後、〇三年から砥部教会牧師を務めた。遺族は妻の幸子さん。
四五六二号三頁「消息欄」教師身分、「無任所牧師」を「無任所教師」に、また四五六二号、四五六三号、四五六六号、四五六七号、四五六九・七〇号、四五七四号、四五七七・七八号、四五八〇号三頁「消息欄」教師身分、「隠退牧師」を「隠退教師」にお詫びして、訂正いたします。
セクシュアル・ハラスメント事件の解決を願う
深澤 奨
二〇〇五年四月二二日、大阪高裁は、九州教区内で起こったセクシュアル・ハラスメント事件に関する裁判の判決を下した。一審判決に続いて、加害牧師によるセクシュアル・ハラスメント行為を明確に認定し、不法行為責任を問うて被害者への慰謝料支払いを命じるものであった。
そしてこの判決を受けてすぐさま九州教区は、当時の議長名で、①当該牧師への「辞任勧告」、②当該教会信徒への「主任牧師解任要請」、③山北教団議長および常議員会、教師委員会への「戒規適用要請」を発した。
しかし当該牧師は未だに主任担任教師として居座り、教団執行部や教団教師委員会も戒規適用に踏み切れぬままいたずらに時を重ねている。
判決から約十日後に九州教区総会が開催され、わたしたちは教団問安使から判決について何らかのコメントを期待したが、一言も触れられず、質疑でコメントを求めて……