祈るほかない現実を前にして
――楽に祈るな、汗を流して祈れ――
41「目を覚ませ。そして祈れ。誘惑に入らないために。霊は熱望しても、肉は弱い」。
(マタイによる福音書26章41節[私訳])
冒頭に引用したマタイ福音書26章41節は、有名な「ゲツセマネの祈り」(マタイ26章36−46節)の場面において、イエスが弟子たちに向かって発した言葉の一節です。「ゲツセマネの祈り」は自らの死が避けられないことを悟ったイエスが神に祈りを捧げる場面を描いています。マタイ福音書によれば、イエスはガリラヤという周縁からユダヤのエルサレムという中央に弟子たちを伴って乗り込み、群衆からの人気を後ろ盾にして、ユダヤの支配者たちと渡り合い、エルサレム神殿で一悶着起こします(マタイ21章12−17節)。しかし、この事件を境として風向きが変わります。イエスは危険因子としてユダヤ当局に命を狙われます。さらに……
誰かが平伏させられることのない世界を願って
――2024年のクリスマスに寄せて――
1さて、イエスがヘロデ王の日々にユダヤのベツレヘムで生まれたとき、見よ、東方からの占星術の神官たちがエルサレムに到着し、2言った、「お生まれになったユダヤ人たちの王はどこにおられるのですか。わたしたちは東方でその星を見たので、その方に平伏してキスするためにやって来たのです」。
(マタイによる福音書2章1−2節[私訳])
マタイ福音書2章1−2節は東方の占星術の神官たち――いわゆる東方の博士たち――の来訪の物語の冒頭を飾るテクストです。クリスマス物語を解釈するうえでの最近の潮流のひとつはポストコロニアル批評による読解です。ポストコロニアル批評とは、西洋の植民地主義と帝国主義を批判的に省察する学問的営みであり、同様の視点から古代ローマ帝国支配下に著された新約聖書テクストの読解が試みられています……
分断という名の二項対立図式を脱構築する未来を求めて
――コリント教会の分派争いに寄せて――
4というのも、一方である者は「わたしはパウロ系の者だ」と言い、他方で別の者は「わたしはアポロ系の者だ」などと言っているのだから、あなたたちは人間で〔しかないで〕はないか。5では、アポロとは何なのか。また、パウロとは何なのか。この者たちを通して、あなたたちが信じるに至った奉仕者である〔にすぎない〕。6しかも、それぞれに主が与えてくださった仕方に応じている〔奉仕者でしかない〕のである。7わたしは植えた〔だけであり〕、アポロは水やりをした〔にすぎない〕が、〔ほかならぬ〕神が成長さてくださったのである。したがって、植える者も水やりをする者も何ら重要ではなく、成長させてくださる神だけが重要である。8もっとも、植える者と水やりをする者はひとつではあるが、それぞれが自らの報酬を自らの労苦に応じて受け取……
困窮するひとりの命を
――古の預言者はガザに遣わされる――
24 すると、彼〔=イエス〕は言った、「アーメン、わたしはあなたたちに 言う、自分の故郷で受け入れられる預言者はひとりもいない 25 そこで、ま ことにわたしはあなたたちに言う、多くのやもめたちがエリヤの日々にイ スラエルにいた。そのとき、天が 3 年 6 ヶ月のあいだ閉じられ、大飢饉が 全地に起こった。26 すると、彼女らの誰のもとにもエリヤは遣わされるこ とはなく、シドン地方のサレプタのひとりのやもめの女性のもとにだけ 〔遣わされた〕。27 また、多くの〔律法に規定された〕皮膚病の者たちが預 言者エリシャの頃にイスラエルにいた。すると、彼らの誰も清められるこ とはなく、シリア人ナアマンだけが〔清められた〕」。28 すると、これらの ことを聞いていた会堂内の全ての者たちは怒りに満たされ、29……
現代のヘイト問題から歴史認識の問題へ
――長血の女と朝鮮人虐殺――
25さて、12年もの間、血の流出を病んでいるひとりの女がいた。26大勢の医者たちによって散々苦しめられ、自分の持ち物すべてを費やしたが、何の甲斐もないどころか、よりいっそう悪くなってしまったのだが、27彼女はイエスのことを聞いて、群衆に紛れ込み、後ろからその衣に触った。28というのも、「せめてあの男(ひと)の衣にでも触ることができれば、自分は救われる〔=癒される〕だろう」と彼女は〔何度も〕言っていたからである。29するとすぐに、彼女の血の源流が乾き、彼女は悪疾から癒されていることをその身に感じた。30するとすぐに、イエスは自分から力が流れ出たことに気づき、群衆のなかを振り返って〔何度も〕言った、「誰だ、わたしに触ったのは」。31すると、彼の弟子たちが彼に〔何度も〕言った、「あなたは群衆があなたに押し迫っているの……
復讐の連鎖を断ち切る
――詩編の詩人から広島・長崎へ――
22なぜなら、わたしは貧しく、乏しく、
わたしの心はわたしの内奥で刺し貫かれている。
23影が傾くように、わたしは過ぎ去り、
バッタのように、わたしは振り払われる。
24わたしの両膝は断食のゆえによろめき、
わたしの肉体は脂肪を失くして痩せ衰える。
25わたしは彼らの嘲笑の的になり、
彼らはわたしを見て、その頭を振る。
26わたしを助けてください、ヤハウェ、わたしの神よ、
わたしを救ってください、あなたの慈しみにふさわしく。
(詩編109編22−26節[私訳])
詩編109編は6−19節に呪詛の言葉が連ねられていることから、長らく「呪いの詩編」と呼ばれてきました。そこでは腐敗した権力者たちによって法廷に引き摺り出された詩人が呪詛の咆哮を浴びせられています。
冒頭に引用した22−26節は呪詛……
無力さに打ちひしがれながらも
――しつこく何度でもガザに拘り続ける――
6また、彼はわたしに言った、「成就した。わたしはアルファ[であり]、そしてオメガ[である]。初め[であり]、そして終わり[である]。わたしは渇いている者に生命の水の泉からただで与えよう。
(ヨハネの黙示録21章6節[私訳])
ヨハネの黙示録は世の終わりの出来事を預言する文書として書かれています。しかし、その内容は実際には未来の予知ではなく、紀元1世紀後半のローマ帝国支配下において民衆が飢えと渇きに瀕し、命を落としていた現実を炙り出そうとしているのです。
冒頭に引用した黙示録21章6節は終末の出来事が全て成就した後に、天地の創造(アルファ=初め)から世界の終末(オメガ=終わり)までの全てを司る神が、渇く者をひとりも取り残すことなく、尽きることのない「生命の水の泉」を「ただで」与えてくれるとの約束……
強奪された者たちが叫んでいる
――ガザの人たちの叫び声が届く場所に――
1さあ、だから富める者たちよ、迫り来るあなたたちの悲惨さを前にして泣き叫ぶがよい。2あなたたちの富は腐ってしまい、あなたたちの衣服は虫が喰ってしまっている。3あなたたちの金と銀は錆びており、それらの錆があなたたちに対する証しとなって、火のようにあなたたちの肉を喰らうであろう。あなたたちは終わりの日々にありながら富を蓄えたのである。4見よ、あなたたちの畑を刈り入れた労働者たちの賃金、つまりあなたたちによって強奪された賃金が叫んでいる。そして、収穫した者たちの叫び声が万軍の主の耳に入っている5あなたたちは地上で贅を尽くし、放蕩に耽り、屠りの日にありながらあなたたちの心を太らせたのである。6あなたたちは義人を断罪し、殺害した。彼はあなたたちに敵対していない。
(ヤコブの手紙5章1−6節[私訳])
ヤコブ書5……
荒野から世界を見る
――荒野の洗礼者ヨハネに寄せて――
4洗礼者ヨハネが荒野に起こり、そして〔諸々の〕罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。5すると、彼のもとにユダヤ地方の全域とエルサレムの全住民が出て来て、自分たちの〔諸々の〕罪を告白して、彼〔=ヨハネ〕からヨルダン川のなかで洗礼を受けた。6さて、ヨハネはラクダの毛〔革〕を着て、革のベルトを自分の腰の周りに締め、イナゴと野蜜を食べていた。(マルコ福音書1章4−6節[私訳])
洗礼者ヨハネは自らの教団を設けて荒野で洗礼運動を展開していました。この時代のユダヤ教にはクムラン教団に代表される荒野で修道士のように共同生活する人たちがいました。ヨハネもクムラン教団もユダヤ教の宗派であるエッセネ派の流れに属していたと考えられます。ヨハネが巷間から離れ、荒野に退いたのは、腐敗した祭司や貴族といった支配者の権力に背を向けたからです……
絶望のメシア
――希望と絶望を抱えつつ生きる――
29すると、通りすがりの者たちが頭を振って彼〔=イエス〕を蔑み、そして言った、「おい、神殿をぶっ壊して、三日で建てる〔とほざいた〕野郎、30十字架から降りて、自分で自分を救ってみろ」。31同じように祭司長たちも律法学者たちと一緒になり、嘲って〔仲間内で〕言い合った、「こいつはほかの者らを救ったというのに、自分を救うことはできないのだな。32キリスト〔=メシア〕、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りてみるがよい。〔それを〕見せてくれるなら信じようではないか」。また、彼〔=イエス〕と共に一緒に十字架につけられた者たちも彼を罵った。
(マルコ福音書15章29−32節[私訳])
冒頭の引用はイエスが十字架上で侮蔑される場面です。31節でイエスは「こいつはほかの者らを救ったというのに、自分を救うことはできないのだな」と皮肉たっぷりに言……