15ヒルに二人の娘たち〔がいる〕。
もっと、もっと〔と求める〕。
満足しないのは三人〔の娘たち〕。
もう十分と言わないのは四人〔の娘たち〕。
(箴言30章15節a[私訳])
冒頭に引用した箴言30章15節aは「数え歌集」(箴言30章15−33節)の冒頭を飾るテクストです。このテクストは「貪欲」を戒めており、血を吸う「ヒル」と「娘」(女性)が二重に「貪欲」の隠喩(メタファー)として描かれています。ここには古代世界と現代世界に通底する女性嫌悪・女性蔑視(ミソジニー)がダダ漏れになっています。
冒頭で「ヒル」と訳したヘブライ語のעֲלוּקָה(アルーカー)は旧約聖書(ヘブライ語聖書)ではここにしか用いられておらず、その意味は不明とされます。岩波訳(勝村弘也訳)はアラビア語から類推して「情欲」と翻訳していますが、日本で最も流通してきた聖書(文語訳、口語訳、新共……
死に取り残された世界に寄り添う
――ヨブの苦難に寄せて――
24なぜなら、わたしのパンの前にわたしの呻きが迫り来て、
水のようにわたしの唸りが吐き出されるのだから。
25なぜなら、わたしが恐れていた恐れがわたしに臨み、
わたしが怖がっていたものがわたしに迫って来たのだから。
26わたしは安らぐことなく、穏やかにいることもなく、
憩うこともない。ただ混乱だけが迫り来る。
(ヨブ記3章24−26節[私訳])
ヨブ記の主題のひとつは神義論であり、神はなぜ悪や苦悩を放っておくのか、また悪人(罪人)が栄え、善人(義人)が苦難に遭うといった不条理を神はどうして見過ごしにするのかが問われています。義人ヨブは自らの命と妻以外の家族と財産を失い、自らも病に冒されます。彼は神に訴えかけ、また自らを詰る友人たちと議論を繰り広げます。
ヨ……
失敗を悔いてやり直す
――愛すべきイエスの一番弟子ペトロの失敗――
26さて、彼ら〔=イエスと弟子たち〕は讃美歌を歌いながら、オリーヴの山に出かけて行った。27すると、イエスは彼ら〔=弟子たち〕に言う、「あなたたちはひとり残らず罠にかかるだろう。なぜなら、次のように書いてあるからである。
わたしは羊飼いを打つだろう。
そして、羊たちは散らされるだろう。
28しかし、わたしは甦らせられた後に、あなたたちを先導してガリラヤに行くだろう。29だが、ペトロが彼〔=イエス〕に言った、「もし彼ら〔=弟子たち〕がひとり残らず罠にかかったとしても、わたしだけは罠にかかったりはしません」。30すると、イエスは彼〔=ペトロ〕に言う、「アーメン、わたしはあなたに言う、そのあなたが、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを拒絶するだろう」。31だが、彼〔=ペトロ〕はさらに……
時代を飲み込む「空気」に背を向ける
――「嵐を黙らせるイエス」に寄せて――
35そして、その日に、夕方になると、彼〔=イエス〕は彼ら〔=弟子たち〕に言う、「向こう岸に渡ろうじゃないか」。36すると、彼らは群衆を残して、彼が舟のなかにいるのをそのままに、彼を連れ出す。ほかの舟〔々〕もそれ〔=その舟〕と一緒にいた。37すると、風の大きな嵐〔=大暴風〕が生じ、そして波〔々〕が〔次から次へと〕舟のなかに打ち寄せ、そのためすでに舟を満たすほどであった。38さて、彼〔=イエス〕自身は〔舟の〕後ろ側にいて、枕の上で居眠りをしていた。そこで、彼ら〔=弟子たち〕は彼を起き上がらせ、そして彼に言う、「先生、わたしたちが滅んでしまいそうだっていうのに、あなたは気にならないのですか」。39すると、彼は目を開け、風を叱りつけ、そして海に言った、「黙れ、口を塞いでいろ」。すると、風が止み、そして大きな凪が……
やっぱり「愛」でしょ
――「愛の讃歌」(Ⅰコリント書13章)――
13だが、今や信仰と希望と愛、これら三つが残る。
だが、これらのうちで最も大いなるものは愛である。
(コリントの信徒への手紙一 13章13節[私訳])
Ⅰコリント書13章(1−13節)は「愛の讃歌」と呼ばれる有名な聖書箇所です。このテクストにおいて、パウロは愛とはどういうものであるのかを説き、愛こそが永遠に存続する最も大いなるものであると声高らかに謳っています。
1−3節は異言、天使の言葉、預言、神秘、知識などのカリスマ(賜物)よりも愛が大切であり、山を動かすほどの信仰、全財産の喜捨、そして殉教の死さえも、愛がなければ無に等しいと述べるほどに愛を讃美しています。
4−7節は愛の属性を列挙しています。愛とは寛容であり、慈悲深く、妬まず、自慢せず、高ぶらず、見苦しくなく(礼を失せず)、自己満足せず……
犠牲を喜ばない神
――誰かを犠牲や生贄にすることを必要としない世界――
19神の犠牲は砕かれた霊。
砕かれ、悔いた心を、
神よ、あなたは見下さない。
(詩編51編19節[私訳])
詩編51編は自らの罪を悔いる詩人の祈りが詠われています。引用した詩編51編19節はその祈りの中心とされる言葉であり、詩人の切なる願いが綴られています。
19節冒頭の「神の犠牲」(神の生贄/神の供犠)は「神に対して捧げる犠牲」の意ですが、直前の18節を考慮に入れると、「神が喜ぶ犠牲」を意味すると考えられます。古代ユダヤ教は神殿において動物を犠牲として神に捧げる祭儀を中心に置く宗教でした。にもかかわらず、この詩編の詩人は「神が喜ぶ犠牲」は動物を犠牲として捧げることではないというのです。これは神殿祭儀に対する明らかな批判であり、その批判の先に詩人は「神が喜ぶ犠牲」とは「砕かれた霊」や「砕かれ、……
虚しく風を追うように
――単純さと複雑さの狭間――
7人間の労苦の全てはその口のため。そして、その魂は満たされない。8実際に、賢者は愚者よりも何か益があるか。生者たちの前に歩むのを知る貧者に何か〔益があるか〕。9目が見ることは魂が去り行くよりは良い。だが、これもまた空であり、風を追うこと。(コヘレトの言葉6章7−9節[私訳])
29見よ、これだけがわたしの見定めたこと。神は人間をまっすぐ〔な者〕に創造した。だが、彼ら〔=人間〕は数多の謀略を追い求めた。(コヘレトの言葉7章29節[私訳])
コヘレト書はニヒリズム(虚無主義)やペシミズム(厭世主義)の祖と言える文書です。コヘレトに共鳴すると、労苦してヘブライ語でコヘレト書を読んでみたところで、それがいったい何になるのかと嘆きたくもなります。とはいえ、ユダヤ教がコヘレト書を聖書に組み入れてくれたことによって、宗教や信仰が……
シスターフッドの物語
――女たちの経験と歴史――
16すると、ルツは言った、「わたしに無理強いしないでください。あなた〔=ナオミ〕を棄て去ったり、あなたに背を向けて帰ったりするのを。あなたが赴くところにわたしは赴き、あなたが宿るところにわたしは宿るからです。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神だからです。17あなたが亡くなるところでわたしは亡くなり、そこにわたしは葬られたいのです」。
(ルツ記1章16−17節a[私訳])
ルツ記は異邦の地モアブで夫とふたりの息子を亡くしたユダヤ人ナオミが、亡き息子の妻であったモアブ人ルツを伴って郷里のベツレヘムに赴き、そこで苦労しつつも、やがてルツが――ナオミの遠縁である――町の有力者ボアズと結ばれて幸せになるシンデレラストーリーとして理解されます。ナオミとルツは夫を失った寡婦(やもめ)であり、家父長制社会において貧困の底に……
仕事にあぶれた労働者の譬
――レントに「ぶどう園の労働者の譬」を再読する――
「1なぜなら、天の王国はある家の主人のようなものである。その人は夜が明けると同時に自分のぶどう園に労働者たちを雇うために出て行った。2彼は労働者たちと1日1デナリオンで合意し、自分のぶどう園に派遣した。3また、第3の刻〔=午前9時〕頃に出て行くと、彼は別の者たちが仕事にあぶれて広場に立っているのを見て、4そしてその者たちに言った、『あなたたちもぶどう園に行きなよ。そうすれば、正当なもの〔=報酬〕をわたしはあなたたちに支払うよ』。5[さて]再び彼は第6の刻〔=正午〕頃と第9の刻〔=午後3時〕頃に出て行き、同じようにした。6さて、第11の刻〔=午後5時〕頃に出て行くと、彼は別の者たちが立っているのを見つけて、そして彼らに言う、『どうしてここであなたたちは日がな一日仕事をしないで立っているんだい』。7彼……
小さな命に寄り添う
――イエスの傷と痛みと死を覚える――
19さて、夕方になると、週の初めの日だったのだが、弟子たちがいた場所は、ユダヤ人たちへの恐れのゆえに、その〔場所に複数ある〕扉は閉じられていたのだが、イエスが来て、その中央に立ち、そして彼らに言う、「あなたたちに平安があるように」。20aそして、このように言うと、彼は彼らに〔両方の〕手と脇を見せた。
(ヨハネによる福音書20章19−20節a[私訳])
冒頭に引用したヨハネ福音書20章19−20節前半は復活したイエスが弟子たちに顕現する場面です(私訳の前半はたどたどしい日本語訳になっていますが、19節の前半には独立属格という構文が繰り返し使われていたりもしているため、なんとも歪なギリシャ語の文章なので、その風合いを出したつもりです)。弟子たちはイエスが十字架刑で処刑されたために、自分たちも捕まってしまうことを恐れて……