現代のヘイト問題から歴史認識の問題へ
――長血の女と朝鮮人虐殺――
25さて、12年もの間、血の流出を病んでいるひとりの女がいた。26大勢の医者たちによって散々苦しめられ、自分の持ち物すべてを費やしたが、何の甲斐もないどころか、よりいっそう悪くなってしまったのだが、27彼女はイエスのことを聞いて、群衆に紛れ込み、後ろからその衣に触った。28というのも、「せめてあの男(ひと)の衣にでも触ることができれば、自分は救われる〔=癒される〕だろう」と彼女は〔何度も〕言っていたからである。29するとすぐに、彼女の血の源流が乾き、彼女は悪疾から癒されていることをその身に感じた。30するとすぐに、イエスは自分から力が流れ出たことに気づき、群衆のなかを振り返って〔何度も〕言った、「誰だ、わたしに触ったのは」。31すると、彼の弟子たちが彼に〔何度も〕言った、「あなたは群衆があなたに押し迫っているのを見ていながら、『誰だ、わたしに触ったのは』などと言うのですか」。32しかし、彼は〔何度も〕あたりを見回して、このことをした女(ひと)を見つけようとした。33すると、この女は自分に起こったことを知っていたので、恐ろしくなり、震えながら、進み出て、彼〔の足もとに〕にひれふし、彼にありのままをすべて話した。34すると、彼は彼女に言った、「お嬢さん、あなたの信頼があなたを救った〔=癒した〕のですよ。平安に帰るといいよ。そして、悪疾から〔癒されたまま〕元気でいるんだよ」。
(マルコによる福音書5章25−34節[私訳])
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担当者から2024年9月のテーマを関東大震災時の朝鮮人等の虐殺の問題にするとの連絡を受け、その説明には朝鮮人虐殺がガザの虐殺の状況と同じ生々しいグロテスクな現実であることが記され、その最後に聖書箇所として長血の女のテクストの前半部が指定されていました。原稿に取りかかろうとした矢先に、高熱に見舞われ、数日寝込んでも熱が下がらず、病院に行って検査を受けた結果、新型コロナウイルスに初感染していたことが分かりました。高熱のせいもあってか、長血の女の物語と朝鮮人虐殺がどう結びつくのかが判然とせず、夢現つの状態で漸くそのつながりを了解したしたつもりで原稿を書き始めたのですが、熱にうなされてイミフな文章を書いている説もあることを予めお断りしておきます。
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冒頭に引用したのは「長血の女」のテクストです。「長血」とは女性の不正出血(不正子宮出血)を表しますが、経血を含めた女性の出血を不浄とする律法の――差別的な――規定によって(レビ記15章19−30節)、この女性は12年もの間、「穢れ」のラベルを貼られ、社会から隔離され、不当な差別と抑圧に喘いできたのです。彼女は身体的・精神的・宗教的・社会的・経済的・家族的・性的などのあらゆる次元で自分を苦しめてきた悪疾から救われたいと渇仰し、イエスの衣に触れたのです。しかし、これはその時代においては暴挙でしかありません。人混みに紛れてイエスの衣に触れるということは、不特定多数の人たちに彼女の「穢れ」を移してしまうタブーを冒すことにほかならなかったからです。もし知り合いに顔を見られてしまったら、あるいは彼女が長血であることがバレてしまったとすれば、リンチに遭って殺されるかもしれない・・・。まさに彼女は命賭けでイエスに触れたのです。
毎年9月になると、関東大震災時の在日朝鮮人等の虐殺が想起されます。昨年(2023年)は虐殺から100周年でもあり、福田村事件の映画が公開されるといった出来事もありました。今年(2024年)はどうでしょうか。東京新聞(ウェブ版)によれば、今年も東京都知事は朝鮮人犠牲者らを追悼する式典に個別に追悼文は送らず、朝鮮人虐殺の史実については、さまざまな研究があると述べるに留めているとのことです。しかし、このような動向とは異なり、埼玉県知事が朝鮮人を悼むさいたま市内の式に追悼文を送ることを検討しているとも報じられています。埼玉県知事の歴史認識をめぐっては、すでにネットではヘイト発言も巻き起こっており、ヘイトの声に屈することなく、公正な視点から朝鮮人虐殺の歴史が省察されるよう願うばかりです。
1年前の2023年9月の「キリスト教の小部屋」でも触れたように、朝鮮人の虐殺は――日本人が犠牲になった福田村事件からも分かるように――単に見た目で判別したわけではなく、「15円50銭」が「シボレート」(合言葉)になり、「じゅうごえんごじゅっせん」と正確に発音できない者を炙り出して実行されたことが知られています。それと同様に、長血の女も見た目からは「長血」という――本来は存在するはずのない――「穢れ」を持つことが知られるはずもなく、彼女は身バレしないように注意を払い、群衆に紛れてイエスにそっと触れたのです。しかし、イエスは彼女に気づき、「誰だ、わたしに触ったのは」と何度も問います。イエスの問いは律法を破った穢れた自分に向けられた断罪のように彼女には響いたのです。群衆のなかですから、自ずと大きな声になっていたでしょうし、繰り返し問われたのですから、そう感じたとしても仕方ありません。それゆえ、彼女は「恐ろしくなり、震えながら、進み出て、彼〔の足もとに〕にひれふし」たのです。
長血を穢れとするのは、女性であることを理由に女性を排除する偏見でしかありません。それと同様に朝鮮人虐殺は、朝鮮人であることを理由に朝鮮人を排除する憎悪犯罪(ヘイトクライム)にほかならないのです。関東大震災後の朝鮮人たちは「恐ろしくなり、震えながら」身を潜めていましたが、軍隊、官憲、自警団などに見つかってリンチに遭い、殺されたのです。犠牲者の数は関東大震災の死者10万5千人の1%〜数%とされ、したがって千人〜数千人に上る朝鮮人たちが殺されたのです。それは壊滅的な打撃を受けた関東大震災の被災地を中心に起こった虐殺です。その光景はガザで起きているのと同じ阿鼻叫喚の世界だったのです。
現在の日本では朝鮮人等の虐殺はなかったという歴史認識が大手を振ってまかり通る事態にしばしば遭遇します。この歴史認識は在日コリアン等に対するヘイトスピーチと並行して現れたものです。つまり、朝鮮人等の虐殺を否定する歴史認識は、新自由主義史観や歴史修正主義といった新たな歴史観の仮面を被ってはいますが、実際には現代のヘイトが生み出した偏見でしかないということです。その意味では、長血の女が女性特有の血の流出を「穢れ」とする偏見から自らを解き放つ新たな一歩を踏み出したように、わたしたちもまた在日コリアン等を排除する「ヘイト」という偏見から自らを解き放つ新たな第一歩を踏み出すことによって、現代のヘイト問題から歴史認識の問題へと歩みを進めることができるのではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一)