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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

無力さに打ちひしがれながらも

2024年7月1日

無力さに打ちひしがれながらも
――しつこく何度でもガザに拘り続ける――

6また、彼はわたしに言った、「成就した。わたしはアルファ[であり]、そしてオメガ[である]。初め[であり]、そして終わり[である]。わたしは渇いている者に生命の水の泉からただで与えよう。
(ヨハネの黙示録21章6節[私訳])

 ヨハネの黙示録は世の終わりの出来事を預言する文書として書かれています。しかし、その内容は実際には未来の予知ではなく、紀元1世紀後半のローマ帝国支配下において民衆が飢えと渇きに瀕し、命を落としていた現実を炙り出そうとしているのです。
 冒頭に引用した黙示録21章6節は終末の出来事が全て成就した後に、天地の創造(アルファ=初め)から世界の終末(オメガ=終わり)までの全てを司る神が、渇く者をひとりも取り残すことなく、尽きることのない「生命の水の泉」を「ただで」与えてくれるとの約束です。「ただで」と訳したδωρεάν(ドーレアン)は元来「賜物」や「贈物」を意味する語ですので、「生命の水の泉」は現世で渇いている者だけが来世で享受できる神の賜物や贈物であるという神の偏愛が表明されています。しかし、これは未来の天国の素晴らしさを描写しているようでありながら、実際には黙示録の著者が目の当たりにしていた飢えと渇きに喘ぐ者たちが置かれている現実世界のむごたらしさを描いているのです。自分の力では飢え渇く人たちを助けることのできない無力さに打ちひしがれ、黙示録の著者はせめてローマ帝国支配という悪辣なこの世界が滅びて天国=神の国が到来するときには、神がそれらの人たちを嘉せられるようにとの願望を来世に託さざるを得なかったのです。
 キリスト教の小部屋の担当者が今月の聖書の言葉として黙示録21章6節を選んだのは、4人に1人が飢餓の状態にあるガザの人たちを助けることのできない無力さに打ちひしがれ、せめて来世ではとの思いを持つほかにはないペシニズム(厭世主義)に押しつぶされそうになりながらも、今この現実世界でガザの飢え渇く人たちを助けたいとの思いを諦めることなどできようはずがないからにほかなりません。イスラエルによるガザの侵略が始まってからは、毎月のようにガザがテーマになっており、特に今月はその魂の奥にある呻きから、ガザの人たち、特に飢え渇く子どもたちに思いを馳せていることを実感しつつ、黙示録の言葉を受け取りました。
 このようにしつこいほどにガザに拘る姿はヨハネの黙示録とも重なります。なぜなら、黙示録の著者は7章16−17節や22章17節でも、飢え渇く人たちを助けたいゆえに、渇いている人に生命の水を神が飲ませてくださるとの約束を繰り返しているからです。何度繰り返しても届くことのない現実に直面しているからこそ、また同じ奴がまた同じことを言っているという蔑みの視線と声に曝されようとも、等閑に付すことなどできないのがガザの人たちの生命であり、その生命と直結する飢えや渇きというガザの人たちが置かれている現実です。黙示録から2千年のときを経ても、権力者や為政者の暴挙や愚挙によって被害を蒙るのは民衆、とりわけ子どもたちであるという現実は変わってなどいません。来世に希望を託すことしかできないような現実の直中にあって、自分の無力さに打ちひしがれながらも、現世でしつこく何度でもガザに拘り続けたいのです。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一

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