祈るほかない現実を前にして
――楽に祈るな、汗を流して祈れ――
41「目を覚ませ。そして祈れ。誘惑に入らないために。霊は熱望しても、肉は弱い」。
(マタイによる福音書26章41節[私訳])
冒頭に引用したマタイ福音書26章41節は、有名な「ゲツセマネの祈り」(マタイ26章36−46節)の場面において、イエスが弟子たちに向かって発した言葉の一節です。「ゲツセマネの祈り」は自らの死が避けられないことを悟ったイエスが神に祈りを捧げる場面を描いています。マタイ福音書によれば、イエスはガリラヤという周縁からユダヤのエルサレムという中央に弟子たちを伴って乗り込み、群衆からの人気を後ろ盾にして、ユダヤの支配者たちと渡り合い、エルサレム神殿で一悶着起こします(マタイ21章12−17節)。しかし、この事件を境として風向きが変わります。イエスは危険因子としてユダヤ当局に命を狙われます。さらに、イエスを支持していた群衆たちや弟子たちのうちからは、イエスの言動が度を超えたものであり、社会の常識からすると、常軌を逸したものであるとして、イエスのもとを離れる人たちが現れます。
イエスは自分が孤立していくのを実感していました。あるいは、最初から最後までイエスは孤独だったのかもしれません。そのイエスを支えていたのは神でした。神に対する燃えるような信仰がイエスを支えていたのです。何があっても神は自分を守ってくれるとイエスは熱狂的と言えるほどに信じていました。しかし、そのイエスに魔の手が忍び寄り、イエスは死を覚悟せざるえない状況に追いやられます。昼間にエルサレムで活動する分には、人々の耳目を集めるイエスにユダヤ当局も手出しができませんでしたが、夜の闇に紛れて暗殺されてしまう危険が常につきまとっていたために、夜はエルサレムの城壁の外に逃れていました。
このような危機迫る状況において、イエスは死の杯を飲まねばならない苦悩に苛まれつつ、ゲツセマネの園で祈ります。そのイエスとは対照的に、イエスに伴われた側近の弟子であるペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人はイエスの不安など知る由もなく、居眠りをします。イエスは三度繰り返して祈ります。だが、三人の弟子たちは三度繰り返して居眠りをするのです。最初に引用したイエスの言葉は二度目に居眠りしていた弟子たちに発せられたものです。
歴史批評学的に考えると、「ゲツセマネの祈り」の物語はノンフィクションとフィクションが入り交じっていると言えます。良く指摘されることですが、イエスに伴われた弟子たちは居眠りをしていたわけですから、イエスの祈りを聞いていた者は誰ひとりとしていませんし、この祈りの後すぐにイエスは逮捕されるわけですから、イエスの祈りの内容が伝わるはずはないのです。その意味では、この場面は創作(フィクション)ではあるのですが、この背後にはイエスがそれまで祈っていた内容やイエスが弟子たちに漏らしていた弱音が何ほどか伝わっていたようにも思えます。また、イエスが祈っている間にペトロ、ヤコブ、ヨハネが居眠りしていたという内容は、この三人がイエスの最側近の弟子であり、初代教会の使徒であることから考えると、このようなマイナスの情報は史実を反映していると判断できます。
担当者が2025年1月という新年のキリスト教の小部屋の聖句として、マタイ26章41節を選んだのは、韓国ドラマの「楽に祈るな、汗を流して祈れ」というセリフにドキリとさせられたからだとのことです。確かに、「ゲツセマネの祈り」はイエスがその全存在を賭した祈りであり、「祈り」を非合理的なものとして否定するわたしたち現代人にも、否定することのできない真実があるように思わせる迫力があります。「目を覚ませ」と訳したγρηγορέω(グレーゴレオー)は、「注意する」や「備える」という意味でも用いられる語であり、ここではイエスの逮捕が近いことをも暗示しています。命賭けで祈るイエスと安逸に居眠りする弟子たちのコントラストが際立ちます。「熱望する」と訳したπρόθυμος(プロテュモス)にも「備える」という意味がありますので、「霊は熱望しても、肉は弱い」という言葉からも、「イエスと弟子たち」の対照的な姿が「霊と肉」の比喩を用いて繰り返されていることがうかがわれます。イエスが逮捕され、十字架で処刑される前夜であるにもかかわらず、弟子たちが祈ることさえしない姿にイエスの絶望の深さが伝わってくるようです。
2025年は1月17日に阪神・淡路大震災から30年を迎えます。そして、6月23日の沖縄戦の終結、8月15日の日本の敗戦、9月2日の日本の降伏文書署名による第二次世界大戦の終結から80年の節目を迎えます。2024年11月にゼミ生たちと神戸を訪れ、また2025年1月初頭にも神戸に赴き、震災の軌跡を辿り、戦災の足跡として『火垂るの墓』(野坂昭如)のモニュメントなどをめぐりました。ひとりひとりの名前が刻まれたモニュメントには、宗教儀礼としての空疎な祈りではなく、「ゲツセマネの祈り」のように、命の尊厳の前に祈るほかない現実を経験した人たちの想いが伝わってきます。ロシアとウクライナの戦争でも、イスラエルとパレスティナ・ガザの戦争でも、命の尊さの前に祈るほか術がない人たちがいることにも自ずと想いを馳せました。
新年早々のテーマが「祈り」とは、何が出てくるか分からない「福袋」のように驚いてしまったのですが、祈るほかない現実を前にして、ひとりひとりの祈りがひとりひとりの想いと行動になり、「ゲツセマネの祈り」のように孤独と絶望に打ちひしがれている人たちの命が尊ばれる世界を現実のものとするために、祈るのであれば、楽に祈るのではなく、汗を流して祈り求める一年にしたいとの想いを新たにします。
(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任 デザイン宗利淳一)