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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

キリスト教の小部屋:一覧

積極的ニヒリズムを生きる

2023年5月1日
積極的ニヒリズムを生きる ——友と食べて飲むことに一縷の希望を——  コヘレトの言葉1章2−11節は、「空の空/空の空、一切は空である」(2節)という言葉が象徴するように、人間の歴史は太古より永遠回帰のように繰り返されるだけの空虚なものだと吐露しています。「空」と訳されているヘブライ語のהֶבֶל(ヘベル)は「霧/息/風/虚いくもの/偽り」といった意味を持っていますので、「無/空/虚無/無意味/無価値)を意味するラテン語のnihilから造られた「ニヒリズム」(虚無主義)とコヘレト書を結びつけるのも無理からぬことだと感じられます。現代のニヒリズムの祖であるニーチェが提唱したのは、あらゆるものが無意味であるゆえに、後ろ向きに生きざるを得ない消極的ニヒリズムではなく、あらゆるものが無意味であるのなら、前向きに生きることを肯定する積極的ニヒリズムだと言われています。そして、コヘレト書もまた……

イエスの家族観

2023年4月1日
イエスの家族観 ——アジール(逃れ場)としての教会——  マルコ福音書3章34−35節はイエスと家族との間の不和や葛藤を描写する「イエスの家族」(3章20−21節、31−35節)と呼ばれるテクストを締め括る言葉です。イエスが自分の家族だと宣言する「自分の周りを囲んで座っている人たち」(34節)とは「群衆」を表します(32節)。群衆とはイエスの周りに集う寄る辺のない人たちであり、その人たちもまた家族から「おかしくなった」と言われていたイエスと同じように(21節)、家族や社会から零れ落ちてしまった存在だったのです。イエスは古代地中世界で当然視されていた子孫繁栄のための婚姻制度に背を向け、規範的な家族でいることを強制するしがらみから自由になろうとしていました。翻って現代の教会を省みるとき、教会が好む「神の家族」という理念が人を縛りつける鎖になってしまってはいないでしょうか。レントからイー……

レント(受難節)

2023年3月1日
レント(受難節) ——この世界の痛みを覚えつつ過ごす—— 30アーメン、わたしはあなたたちに言う、これらのすべてのことが起きるまでは、この時代は過ぎ去ることはない。31天と地は過ぎ去るだろうが、わたしの言葉が過ぎ去ることはないであろう。 (マルコ福音書13章30−31節[私訳])    冒頭の引用は「小黙示録」(マルコ福音書13章)において「アーメン」で導入されるイエスの唯一の言葉です。30節の「これらのすべてのこと」は24−27節の「天体の滅亡」が表す宇宙万物の終焉に至る一連の出来事を指します。また、その予兆として「戦争と戦争の噂」(7節)や「地震と飢饉」(8節)などが起きるとも言われていますが、ロシアのウクライナ侵攻、シリアとトルコの地震や飢餓に喘ぐ今の時代を彷彿とさせるかのようです。31節においてマルコは天地万物が過去のものになったとしても、イエスの言葉……

抵抗としての暴力 ——強者の暴力と弱者の暴力—

2023年2月1日
抵抗としての暴力 ——強者の暴力と弱者の暴力——  非暴力主義を掲げるキリスト教では、イエスがエルサレム神殿で暴れたという事件を「宮清め」と呼んで正当化しています。しかし、いくら誤魔化そうとも、この事件がイエスの暴力沙汰であることに変わりはありません。問題は暴力を一様に否定することで、却って暴力を肯定してしまうという逆説が生じてしまうことにあります。だが、暴力は一様ではありません。強者の暴力と弱者の暴力は同じではないのです。圧倒的な力を持つ強者の暴力と抵抗としての弱者の暴力は正反対の場合すらあります。四福音書が揃って神殿でのイエスの暴力事件を伝えているのは、イエスの暴力がやがて圧倒的な力を持つ権力者の暴力によって十字架刑へと行き着いてしまったという現実を直視しているからにほかなりません。翻って現代社会を見るとき、強者に対する弱者の抗議が暴力やテロとしてラベリングされてしまうことで……

友のための死/愛する者のための死

2023年1月1日
自分の生命を自分の友〔=愛する者〕のため棄てる、 これよりも大きな愛を誰も持っていない。 ヨハネ福音書15章13節(私訳)  ヨハネ福音書15章13節は「友のための死」と呼ばれる有名なテクストですが、イエスの贖罪死よりも大きな愛はないことを想起し、信者にも同様に死を理念化して示しています。「友」(原文は複数形)の原意は「愛する者」ですが、ここでは16節の「奴隷」と対比して用いられています。「友/愛する者」のために死ぬことが最も大きな愛だというのは、確かに自己犠牲を厭わない無償の愛として称賛に値するのかもしれません。しかし、戦争の名において、「友のための死/愛する者のための死」はその死が自己犠牲を超えて、自ら望んだ死でもあるかのような錯覚によって死が理想化され、力を持つ者によって力を持たない者の生命が収奪されてしまう事態を引き起こします。新しい年を迎え、「戦争と戦争の噂」(マルコ福……

マリアのクリスマス

2022年12月1日
 使徒信条はイエスが「処女マリアより生れ〔た〕」(natus ex Maria Virgine)と告白していますが、その基になっているのは福音書のクリスマス物語です。ギリシャ・ローマ世界には英雄が神と人間の女性との間から生まれたとする神話が存在します。最も有名なのは初代ローマ皇帝アウグストゥスですが、そこには処女降誕のモティーフはありません。処女降誕はイエスこそが「救世主」と呼ばれたアウグストゥスを凌ぐ真の「救い主」にほかならないことをヘレニズム・ローマ世界に伝えるために生み出されたのです。しかし、マリアのクリスマスに思いを馳せるとき、聖書が真に伝えているのは、後の教会が強調した「処女性」や「母性」の象徴としてのマリアではなく、「マリア讃歌」(ルカ福音書1章46−55節)においてこの世の価値観の転換を宣言する自由と解放を求めるマリアだと言えるのではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大……

公同の教会

2022年11月1日
 「公同の教会」とは、「普遍的な教会」や「全体教会」を意味し、この世界に無数に存在する現実の個々の教会は時間と空間を超えた同一性を有する普遍的な教会でもあるというキリスト教神学の教理です。この語の初出はアンティオキアの第2代主教イグナティオス(35年頃〜110年頃)であり、彼は「主教が現れるところ、そこに会衆が在らねばならない。それはイエス・キリストが在ますところ、そこに公同の教会が在らねばならないのと同じことである」(『イグナティオス書簡:スミュルナの人々への手紙』8章2節a[私訳])と述べています。この引用の後には、主教が洗礼と愛餐(聖餐)の執行の認可者であり、神の代理人の如く崇めるようにも勧告されており、「公同の教会」の教理は主教の絶対的権威とセットになってもいますので、聖書主義に立つプロテスタントの側から改めて「公同の教会」とは何なのかを再考することが必要かもしれません。なお、……

世界宣教の日

2022年10月1日
 日本基督教団は10月の第1日曜日を「世界聖餐日・世界宣教の日」に定めています。前者は1930年代にアメリカの長老派教会で始まり、1940年にアメリカ全体に広まったエキュメニカルな運動であり、現在はカトリックとプロテスタント諸教派が相互の違いや多様性を認め合い、分断や対立から一致へと向かう超教派運動として世界中で行われています。後者は戦後に教団が世界聖餐日を採用するに当たり、世界の教会の一致の証として世界宣教のために協力し合うことを目的として定められ、現在は海外で働く宣教師やアジア圏から教団関係学校に留学している学生を覚える日になっています。教団は聖餐理解や宣教理解をめぐって対立や分断が続いていますが、その本来の精神に立ち返り、合同教会として相互の違いや多様性を認め合う世界聖餐日・世界宣教の日が実現するように願っています。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一)……

関東大震災と朝鮮人虐殺

2022年9月1日
 1923年9月1日に発生した関東大震災は10万人を超える死者・行方不明者を出しました。未曾有の災害を覚えると同時に、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」といったデマが流され、6千人以上の朝鮮人が日本人によって虐殺されたことを忘れることはできません(http://www.ayc0208.org/2_8/kanto.php)。デマの発生源は特定できませんが、デマの流布に最も力を発揮したのは内務省であり、虐殺を実行した自警団を組織したのは軍と官憲でした。このように朝鮮人虐殺は国家機関の主導によって行われたのですが、政府は民衆や自警団に虐殺の責任を転嫁し、さらに司法省を使って朝鮮人の犯罪が事実でもあるかのように情報を捏造することで、朝鮮人虐殺の国家的関与を隠蔽したのです。聖書は最後の審判で歴史の全てが明らかになると述べていますが、それは問題を歴史の彼方に先送りにするためではなく、今ここで問題を明……

戦責告白

2022年8月1日
 いつの頃からか8月の平和を訴える情景が風物詩にしか感じらない自分がいます。その理由を考えながら、「戦責告白」※を読み返しました。やはりこの告白に色濃く残るナショナリズムやジェンダーの視点の欠如が気になったのですが、戦責告白からは風物詩のような雰囲気を感じることはありませんでした。この告白には日本の侵略戦争を正視し、二度と同じ過ちを繰り返してはならないという本気さが溢れ出ているからです。かの戦争から「侵略」の二文字が消え、平和の名の下に戦争が肯定される矛盾、そしてこの矛盾を見過ごしにしてきた自分の在り方が平和を訴える情景を風物詩に感じさせていたようです。ロシアのウクライナ侵略という現実の直中にあって、戦責告白が見据える平和を渇仰する「明日にむかっての決意」を胸に刻みつつ、8月15日の敗戦記念日を迎えたい。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一) ※「戦責告白」とは、……
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