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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

抵抗としての暴力 ——強者の暴力と弱者の暴力—

2023年2月1日

抵抗としての暴力 ——強者の暴力と弱者の暴力——

 非暴力主義を掲げるキリスト教では、イエスがエルサレム神殿で暴れたという事件を「宮清め」と呼んで正当化しています。しかし、いくら誤魔化そうとも、この事件がイエスの暴力沙汰であることに変わりはありません。問題は暴力を一様に否定することで、却って暴力を肯定してしまうという逆説が生じてしまうことにあります。だが、暴力は一様ではありません。強者の暴力と弱者の暴力は同じではないのです。圧倒的な力を持つ強者の暴力と抵抗としての弱者の暴力は正反対の場合すらあります。四福音書が揃って神殿でのイエスの暴力事件を伝えているのは、イエスの暴力がやがて圧倒的な力を持つ権力者の暴力によって十字架刑へと行き着いてしまったという現実を直視しているからにほかなりません。翻って現代社会を見るとき、強者に対する弱者の抗議が暴力やテロとしてラベリングされてしまうことで、強者の暴力が等閑に付されるという逆説が生じている現実に気づかされます。「宮清め」という過激なテクストを再読することを通して、強者の暴力と弱者の暴力という暴力の両義性を再考し、今も各地で起こっている戦争や紛争という名の暴力に抗っていく力にしたいのです。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一

 

マルコによる福音書11章15-19節
 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 そして、人々に教えて言われた。
「こう書いてあるではないか。
『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
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