罪人を招くために来た
藤盛 勇紀
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章9〜13節)
呼ばれて立ち上がる座っていた者
徴税人マタイが、イエスに召されて弟子となる。この「マタイ」は、マルコ福音書やルカ福音書ではユダヤ名「レビ」だが、マタイはこの福音書を書いたマタイと考えて良い。記事は実に簡潔だ。あまりにもあっさりしている。自分のことだからか。しかし、この極めて簡潔な記述の中に、マタイ自身が経験した真実が、凝縮されているように思われるのだ。
マタイは収税所に「座って」いた。何でもないことだが、イエスは彼が「座っているのを」ご覧になった。金の勘定でもしていたのだろうか。しかし、「座って」いたことを記しているのはマルコもルカも同じ。座っていたマタイは、イエスから呼ばれると「立ち上がった」。そして思いもしなかった新しい生が開かれた。単純な話だ。
私の教会の周辺では、夜になると若い人たちがコンビニで酒やつまみを買って、ベンチや地べたに座って小宴会をしている。歓迎会や忘年会シーズンになると綺麗な広場も汚されていることがしばしばだ。そんな様子を見ると、私が迷惑を被ったわけでもないのに、「なんだアイツら」と思う。しかし、その度に自分に言う(聞こえる)のだ。「お前は伝道者だろ。アイツらの中に入って行くくらいでなくてどうする」。でも、どうせ変なおっさんと思われるだけだろうし、地べたに座る若者たちは、「汚い」と思われようが、「おかしい」と言われようが、通りがかりのおじさんに注意されようが関係ないのだ。そう思いながら、彼らを横目で見ながら、私はまたビールを買って一人帰る。
マタイは座っていた。しかしこれは、宴会ではない。ふだんのふて腐れた態度なのか、人生を投げた開き直りか。徴税人は一定額を納めさえすれば、あとはローマの権力を笠に取りたいだけ取る。貧しい同胞にも容赦ない。あのザアカイのように金持ちになり、悪魔のように忌み嫌われる。そんな仕事は、開き直ってなければ無理だ。「どうせ俺は、神の恵みだの救いだのには関係ない。どうせ新しく行く所もない。悪魔だ売国奴だと、何とでも言え」。
そんなマタイに、イエスは声をかける。「私に従いなさい」。「はあ?どこのおっさんだよ」と悪態をつかれておしまい、でもおかしくなかった。しかし、そうではなかった。なぜか。マタイ自身も分からなかっただろう。なぜか分からないまま、マタイはイエス一行を招いて宴会を開いた。しかも「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」。娼婦らもいただろう。この楽しげで怪しげな宴会には、人から後ろ指を指される連中が集まった。傍から見れば、いきなり大変なことになっているが、イエスにとっては珍しいことではなかった。
イエスに触れられた者として出て行く
イエスは彼らをどう見ておられたのだろうか。「人から色々言われる連中だが、付き合ってみれば、本当はいいヤツら」なのか。「一緒に飲み食いして腹を割って話をすれば仲間になれる」ということか。しかし、そんなことで人を真の命に導くことなど無理だ。
イエスは言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。イエスは、一緒にいる人々は「病人」「罪人」なのだと言われる。座っている所から自分で立ち上がって出て行けない病気なのだ、的を外したまま、その罪に堕ちたまま生きるしかない囚人なのだと。
ところが、そんな罪の中に座り込んでいる病気のマタイを見て、イエスは「私に従って来い」と言われた。マタイの心にいったい何が生じたのか。聖書はそんな心理描写に関心はない。イエスはマタイをご覧になった。そして彼に呼びかけた。するとマタイは立ち上がった。そしてイエスに従った。それだけだ。彼の生き方がどうなったのか、だけが記される。
彼は立ち上がってイエスに従った。そして派手な宴会を催した。同胞も食い物にするマタイは今や、イエスと周囲の罪人たちのために自分の財産を使っている。イエスがおられる所に生まれる不思議な交わり。こんな交わりは経験したことがなかった。しかも、誰の目を気にするでもない解放感。マタイ自身驚いただろう。どうしてこんなことになったのか。理由は一つ。他でもないイエスが彼をご覧になって、呼ばれたから。それだけ。
イエスの眼差しは、いつもの人々の眼差しとは違った。軽蔑する目でも、恐がって見る目でもない。上から憐れむ目でもなければ、真面目人間ファリサイ派の裁く目でもない。イエスの眼差しは、人のそれではなかった。全てを投げ捨ててでも、この方について行きたい。なぜかそう思わされる眼差しに、マタイは捕らえられた。
「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。この言葉は、ホセア書の主の言葉を思わせる。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。…わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」。
ホセアは、「淫行の妻をめとれ」と主から命じられる。なぜなら「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」と。主は、そんなどうしようもない民を憐れんで「胸を焼かれる」。
それを、「行って学びなさい」。「行け」とは「出ろ」ということ。「出て行け」と。しかし私(たち)はひるんでしまう。アイツらの中に、なかなか出て行けない。
イエスは罪人たちに、「私があなた方の罪を負う」とか、「私があなた方の代わりに裁きを受けて死ぬ」などと、恩着せがましいことは何一つ言われなかった。ただ、口を開かずに屠り場に引かれていく小羊のように、死んでしまわれた。
自分が何をしているのかも知らずにいい気になって「十字架に付けろ!」と叫ぶアイツらを後ろ手にかばうように、死なれた。「父よ、彼らをお赦しください」。
このお方とその言葉に触れられると、なぜか立ち上がる。主よ、私たちも出て行きます。(富士見町教会牧師)
高知教会では、毎年最初の祈祷会を「新年祈祷会」として、役員が奨励を担当している。
今年担当した役員は、都合で出席できなかったので私が代読をした。その中で、改めて、礼拝の持つ意味、自分にとって洗礼や聖餐とは何かについて研鑽していきたいと書かれ、最後こういう言葉で閉じられていた。「特に今年は、復活について深く学ぼうと思っている」と。
この言葉を読み、とても考えさせられた。信徒の方々が、今何を求めているのか、その一端を知らされたように思う。今年の高知教会の修養会は、信徒の準備委員の意見で、「信仰義認」について学ぶことになっている。また、昨秋の四国教区全体修養会の主題も「死について」であった。これも、信徒の準備委員の意見であったと聞く。
このようなことを通し、信徒の方々が、信仰の内容について、深く受け止めたいという思いがあると感じさせられている。勿論、それは、教科書的ではなく、聖書が示す真理を自分に深く関わることとして、生き生きと受け止めたいということだと思う。その求めに、自分がどう歩むかと問われる思いがする。信徒の方々が求めている信仰の深い問いを受け止め、聖書に聞いて示される真理を共に分かち合う。そのためにも、信徒の方々と御言葉に深く聞いていきたい、それが、私の新年の祈りとなった。(教団総会書記 黒田若雄)
分かち合い、助け合い、共に生きる1年のために
1月13日に信濃町教会を会場に新年礼拝を以下のタイムスケジュールで行いました。11時より礼拝。12時より共に昼食、発題・応答、話し合いとまとめ。
2024年度活動方針の一つである、「地域ごとの教会間の交流・協力」に重点をおき企画し、ゲストに小林よう子奥羽教区議長をお招きし挨拶と応答をいただきました。
礼拝では本郷中央教会の米山結実牧師にエステル記とヘブライ人への手紙より「伴走者イエス」との説教をしていただきました。困難にあっても主イエスが伴走者としていてくださること、教会もまた主イエスが共に走ってくださっていることを力強く語ってくださいました。讃美3曲のうち2曲は、弓町本郷教会の二俣泉さん作詞作曲の讃美歌を用いました。
「発題と応答」では、石神井教会の村上実基牧師から「支区は教会たりうるか?」との発題をしていただきました。九州教区・神奈川教区での経験を通して牧師会でお互いの教会の情報が密に行われていることや、地区の教会から自分の教会を考えることをお話しくださいました。小林議長からは、「奥羽教区は小さい教会が多いが、それでも頑張りたい。教区の教会性を大切にしていて教派性よりも地域性が先立っている」とのこと。
昼食時には池袋西教会と信濃町教会の信徒3名による三重奏があり、にじのいえ信愛荘のためのバザーもあり、くつろいだ雰囲気の中で分かち合いの時を持ちました。
参加者は支区内17教会から約80名でした。参加者からは楽しかったとの感想がありましたが、北支区には48の教会があり「みんなで礼拝」を捧げることができたか課題です。教会員の高齢化が進み苦闘している状況だからこそ、主イエスが共に走ってくださっているのだから信条の違いを越えて共に生きよ、と語られる神様のみ声を聞いたように思います。(高橋真軌報)
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