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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【5029号】メッセージ 「罪人を招くために来た」(1面)

2025年2月22日

罪人を招くために来た

藤盛 勇紀

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章9〜13節)

呼ばれて立ち上がる座っていた者

 徴税人マタイが、イエスに召されて弟子となる。この「マタイ」は、マルコ福音書やルカ福音書ではユダヤ名「レビ」だが、マタイはこの福音書を書いたマタイと考えて良い。記事は実に簡潔だ。あまりにもあっさりしている。自分のことだからか。しかし、この極めて簡潔な記述の中に、マタイ自身が経験した真実が、凝縮されているように思われるのだ。

 マタイは収税所に「座って」いた。何でもないことだが、イエスは彼が「座っているのを」ご覧になった。金の勘定でもしていたのだろうか。しかし、「座って」いたことを記しているのはマルコもルカも同じ。座っていたマタイは、イエスから呼ばれると「立ち上がった」。そして思いもしなかった新しい生が開かれた。単純な話だ。

 私の教会の周辺では、夜になると若い人たちがコンビニで酒やつまみを買って、ベンチや地べたに座って小宴会をしている。歓迎会や忘年会シーズンになると綺麗な広場も汚されていることがしばしばだ。そんな様子を見ると、私が迷惑を被ったわけでもないのに、「なんだアイツら」と思う。しかし、その度に自分に言う(聞こえる)のだ。「お前は伝道者だろ。アイツらの中に入って行くくらいでなくてどうする」。でも、どうせ変なおっさんと思われるだけだろうし、地べたに座る若者たちは、「汚い」と思われようが、「おかしい」と言われようが、通りがかりのおじさんに注意されようが関係ないのだ。そう思いながら、彼らを横目で見ながら、私はまたビールを買って一人帰る。

 マタイは座っていた。しかしこれは、宴会ではない。ふだんのふて腐れた態度なのか、人生を投げた開き直りか。徴税人は一定額を納めさえすれば、あとはローマの権力を笠に取りたいだけ取る。貧しい同胞にも容赦ない。あのザアカイのように金持ちになり、悪魔のように忌み嫌われる。そんな仕事は、開き直ってなければ無理だ。「どうせ俺は、神の恵みだの救いだのには関係ない。どうせ新しく行く所もない。悪魔だ売国奴だと、何とでも言え」。

 そんなマタイに、イエスは声をかける。「私に従いなさい」。「はあ?どこのおっさんだよ」と悪態をつかれておしまい、でもおかしくなかった。しかし、そうではなかった。なぜか。マタイ自身も分からなかっただろう。なぜか分からないまま、マタイはイエス一行を招いて宴会を開いた。しかも「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」。娼婦らもいただろう。この楽しげで怪しげな宴会には、人から後ろ指を指される連中が集まった。傍から見れば、いきなり大変なことになっているが、イエスにとっては珍しいことではなかった。

イエスに触れられた者として出て行く

イエスは彼らをどう見ておられたのだろうか。「人から色々言われる連中だが、付き合ってみれば、本当はいいヤツら」なのか。「一緒に飲み食いして腹を割って話をすれば仲間になれる」ということか。しかし、そんなことで人を真の命に導くことなど無理だ。

 イエスは言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。イエスは、一緒にいる人々は「病人」「罪人」なのだと言われる。座っている所から自分で立ち上がって出て行けない病気なのだ、的を外したまま、その罪に堕ちたまま生きるしかない囚人なのだと。

 ところが、そんな罪の中に座り込んでいる病気のマタイを見て、イエスは「私に従って来い」と言われた。マタイの心にいったい何が生じたのか。聖書はそんな心理描写に関心はない。イエスはマタイをご覧になった。そして彼に呼びかけた。するとマタイは立ち上がった。そしてイエスに従った。それだけだ。彼の生き方がどうなったのか、だけが記される。

 彼は立ち上がってイエスに従った。そして派手な宴会を催した。同胞も食い物にするマタイは今や、イエスと周囲の罪人たちのために自分の財産を使っている。イエスがおられる所に生まれる不思議な交わり。こんな交わりは経験したことがなかった。しかも、誰の目を気にするでもない解放感。マタイ自身驚いただろう。どうしてこんなことになったのか。理由は一つ。他でもないイエスが彼をご覧になって、呼ばれたから。それだけ。

 イエスの眼差しは、いつもの人々の眼差しとは違った。軽蔑する目でも、恐がって見る目でもない。上から憐れむ目でもなければ、真面目人間ファリサイ派の裁く目でもない。イエスの眼差しは、人のそれではなかった。全てを投げ捨ててでも、この方について行きたい。なぜかそう思わされる眼差しに、マタイは捕らえられた。

 「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。この言葉は、ホセア書の主の言葉を思わせる。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。…わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」。

 ホセアは、「淫行の妻をめとれ」と主から命じられる。なぜなら「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」と。主は、そんなどうしようもない民を憐れんで「胸を焼かれる」。

 それを、「行って学びなさい」。「行け」とは「出ろ」ということ。「出て行け」と。しかし私(たち)はひるんでしまう。アイツらの中に、なかなか出て行けない。

 イエスは罪人たちに、「私があなた方の罪を負う」とか、「私があなた方の代わりに裁きを受けて死ぬ」などと、恩着せがましいことは何一つ言われなかった。ただ、口を開かずに屠り場に引かれていく小羊のように、死んでしまわれた。

 自分が何をしているのかも知らずにいい気になって「十字架に付けろ!」と叫ぶアイツらを後ろ手にかばうように、死なれた。「父よ、彼らをお赦しください」。

 このお方とその言葉に触れられると、なぜか立ち上がる。主よ、私たちも出て行きます。(富士見町教会牧師)

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