インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
calendar

コリントの信徒への手紙一1・26~2・5

2025年1月1日

兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

祈るほかない現実を前にして
――楽に祈るな、汗を流して祈れ――

41「目を覚ませ。そして祈れ。誘惑に入らないために。霊は熱望しても、肉は弱い」。
(マタイによる福音書26章41節[私訳])

 冒頭に引用したマタイ福音書26章41節は、有名な「ゲツセマネの祈り」(マタイ26章36−46節)の場面において、イエスが弟子たちに向かって発した言葉の一節です。「ゲツセマネの祈り」は自らの死が避けられないことを悟ったイエスが神に祈りを捧げる場面を描いています。マタイ福音書によれば、イエスはガリラヤという周縁からユダヤのエルサレムという中央に弟子たちを伴って乗り込み、群衆からの人気を後ろ盾にして、ユダヤの支配者たちと渡り合い、エルサレム神殿で一悶着起こします(マタイ21章12−17節)。しかし、この事件を境として風向きが変わります。イエスは危険因子としてユダヤ当局に命を狙われます。さらに、イエスを支持していた群衆たちや弟子たちのうちからは、イエスの言動が度を超えたものであり、社会の常識からすると、常軌を逸したものであるとして、イエスのもとを離れる人たちが現れます。
 イエスは自分が孤立していくのを実感していました。あるいは、最初から最後までイエスは孤独だったのかもしれません。そのイエスを支えていたのは神でした。神に対する燃えるような信仰がイエスを支えていたのです。何があっても神は自分を守ってくれるとイエスは熱狂的と言えるほどに信じていました。しかし、そのイエスに魔の手が忍び寄り、イエスは死を覚悟せざるえない状況に追いやられます。昼間にエルサレムで活動する分には、人々の耳目を集めるイエスにユダヤ当局も手出しができませんでしたが、夜の闇に紛れて暗殺されてしまう危険が常につきまとっていたために、夜はエルサレムの城壁の外に逃れていました。
 このような危機迫る状況において、イエスは死の杯を飲まねばならない苦悩に苛まれつつ、ゲツセマネの園で祈ります。そのイエスとは対照的に、イエスに伴われた側近の弟子であるペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人はイエスの不安など知る由もなく、居眠りをします。イエスは三度繰り返して祈ります。だが、三人の弟子たちは三度繰り返して居眠りをするのです。最初に引用したイエスの言葉は二度目に居眠りしていた弟子たちに発せられたものです。
 歴史批評学的に考えると、「ゲツセマネの祈り」の物語はノンフィクションとフィクションが入り交じっていると言えます。良く指摘されることですが、イエスに伴われた弟子たちは居眠りをしていたわけですから、イエスの祈りを聞いていた者は誰ひとりとしていませんし、この祈りの後すぐにイエスは逮捕されるわけですから、イエスの祈りの内容が伝わるはずはないのです。その意味では、この場面は創作(フィクション)ではあるのですが、この背後にはイエスがそれまで祈っていた内容やイエスが弟子たちに漏らしていた弱音が何ほどか伝わっていたようにも思えます。また、イエスが祈っている間にペトロ、ヤコブ、ヨハネが居眠りしていたという内容は、この三人がイエスの最側近の弟子であり、初代教会の使徒であることから考えると、このようなマイナスの情報は史実を反映していると判断できます。
 担当者が2025年1月という新年のキリスト教の小部屋の聖句として、マタイ26章41節を選んだのは、韓国ドラマの「楽に祈るな、汗を流して祈れ」というセリフにドキリとさせられたからだとのことです。確かに、「ゲツセマネの祈り」はイエスがその全存在を賭した祈りであり、「祈り」を非合理的なものとして否定するわたしたち現代人にも、否定することのできない真実があるように思わせる迫力があります。「目を覚ませ」と訳したγρηγορέω(グレーゴレオー)は、「注意する」や「備える」という意味でも用いられる語であり、ここではイエスの逮捕が近いことをも暗示しています。命賭けで祈るイエスと安逸に居眠りする弟子たちのコントラストが際立ちます。「熱望する」と訳したπρόθυμος(プロテュモス)にも「備える」という意味がありますので、「霊は熱望しても、肉は弱い」という言葉からも、「イエスと弟子たち」の対照的な姿が「霊と肉」の比喩を用いて繰り返されていることがうかがわれます。イエスが逮捕され、十字架で処刑される前夜であるにもかかわらず、弟子たちが祈ることさえしない姿にイエスの絶望の深さが伝わってくるようです。
 2025年は1月17日に阪神・淡路大震災から30年を迎えます。そして、6月23日の沖縄戦の終結、8月15日の日本の敗戦、9月2日の日本の降伏文書署名による第二次世界大戦の終結から80年の節目を迎えます。2024年11月にゼミ生たちと神戸を訪れ、また2025年1月初頭にも神戸に赴き、震災の軌跡を辿り、戦災の足跡として『火垂るの墓』(野坂昭如)のモニュメントなどをめぐりました。ひとりひとりの名前が刻まれたモニュメントには、宗教儀礼としての空疎な祈りではなく、「ゲツセマネの祈り」のように、命の尊厳の前に祈るほかない現実を経験した人たちの想いが伝わってきます。ロシアとウクライナの戦争でも、イスラエルとパレスティナ・ガザの戦争でも、命の尊さの前に祈るほか術がない人たちがいることにも自ずと想いを馳せました。
 新年早々のテーマが「祈り」とは、何が出てくるか分からない「福袋」のように驚いてしまったのですが、祈るほかない現実を前にして、ひとりひとりの祈りがひとりひとりの想いと行動になり、「ゲツセマネの祈り」のように孤独と絶望に打ちひしがれている人たちの命が尊ばれる世界を現実のものとするために、祈るのであれば、楽に祈るのではなく、汗を流して祈り求める一年にしたいとの想いを新たにします。
(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任 デザイン宗利淳一

2024年12月31日
神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。
2024年12月30日
イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
2024年12月29日
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2026
The United Church of Christ in Japan