インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
calendar

コリントの信徒への手紙一3・10~23

2025年1月4日
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。
「神は、知恵のある者たちを
その悪賢さによって捕らえられる」
と書いてあり、 また、
「主は知っておられる、
知恵のある者たちの論議がむなしいことを」
とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
2025年1月3日

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

2025年1月2日
しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、
「目が見もせず、耳が聞きもせず、
人の心に思い浮かびもしなかったことを、
神は御自分を愛する者たちに準備された」
と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、
主を教えるというのか。」
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
そして今、わたしの僕ヤコブよ
わたしの選んだイスラエルよ、聞け。
あなたを造り、母の胎内に形づくり
あなたを助ける主は、こう言われる。
恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。
わたしの選んだエシュルンよ。
わたしは乾いている地に水を注ぎ
乾いた土地に流れを与える。
あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
あなたの末にわたしの祝福を与える。
彼らは草の生い茂る中に芽生え
水のほとりの柳のように育つ。
ある者は「わたしは主のもの」と言い
ある者はヤコブの名を名乗り
またある者は手に「主のもの」と記し
「イスラエル」をその名とする。
2025年1月1日

「背負われ、刻まれて」

聖書箇所:「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

イザヤ書46章3〜4節

 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうかたとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。」

イザヤ書49章15〜16a節


大阪城北教会
東島美穂 牧師

 新年最初の月のメッセージを担当いたします、大阪城北教会の東島美穂と申します。
隣りに映し出した写真は、昨年、こどもの日・花の日礼拝で当教会CSにつながる子どもたちが手作りした花を飾った際の礼拝堂です。2025年、この動画を視聴してくださったお一人おひとりのいのちと旅路が、「この花のように みんなの心に やさしくかおる」(こどもさんびか改訂版115番より)ものとなりますようお祈りしています。

 年が変わっても、わたしたちが住む世界や抱く想いがすぐに、よりよく変わる訳ではありません。ずっと変えることのできないもの、きっと変えることのできるもの、をそれぞれが背負い刻みながら生きています。そうした中で、これまでもこれからもずっと変わることのないものについて、「ピエタ」を通してお伝えしたいと思います。
 「ピエタ」はイタリア語で憐み・慈悲などを意味しますが、それを題材にしてミケランジェロが制作した彫刻作品のことです。ネットで検索すると、これから紹介する3つの「ピエタ」の写真がありますので、よろしければご覧ください。
 一つ目に紹介する「サン・ピエトロのピエタ」は、ミケランジェロが20代の若い時に作成したものです。十字架から降ろされた若き息子イエスを母マリアが抱え、悲嘆に暮れている姿が表されています。
 そのように、これまでに若くして愛する我が子を見送らねばならない、また親より先に逝かねばならない悲嘆を刻まれた方がおられると思います。
 また、主イエスがそうであったように死を前にして「願わくはこの杯を取り除けてください」、と悶絶し格闘せずにいられなかった叫び祈りを背負い。この「ピエタ」に彫られているように、その時に寄り添い、愛おしく強く抱きしめながら、とめどない涙を流した人の存在があることを思います。

サン・ピエトロのピエタ Juan M Romero – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46153417による

 二つ目に紹介する「フィレンツェのピエタ」はミケランジェロが80歳頃の作品です。十字架から降ろされたばかりのイエスを抱いているのは、母マリアと病を癒してもらったマグダラのマリア。その後ろにいる男性については諸説ありますが、この作品を自分の墓碑にしようとしていたことからミケランジェロ自身では、と言われます。
 親しい友人を次々と失ってゆく孤独感に加え、我が身の衰えも顕著になり、死をも意識するようになっていた頃の作品ですから、自分が十字架のイエスを見つめつつ歩んできた生涯であったことを伝えようとした、とも言われています。
 そのように、これまで孤独や我が身の衰えを刻みながら、主イエスと共に歩んできた生涯を伝えてこられた方。晩年に主イエスを見つめて生きられた方。これから見つめようとしている方がおられることを憶えます。そして、それぞれの人生の傍に、その姿に触れ、見つめ続ける人たちがいたことを思います。

フィレンツェのピエタ

 三つ目に紹介する「ロンダニーニのピエタ」は、ミケランジェロが召される直前まで掘っていた最後の作品です。腰が曲がり頭を上げることもままならず、視力を失いながらも手探りで掘ったと言われています。ですから、見るからに荒削りの作品となっています。
 また前の二つの作品と違い、この「ピエタ」はマリアが息子イエスを抱えるのではなく、イエスが母マリアを背負っています。イザヤ書4634節のみ言葉に「あなたたちは生まれた時から負われ〜わたしはあなたたちの老いる日まで背負っていこう」とあるように、ミケランジェロは自分の90年に及ぶ生涯は、主イエスに背負われた人生であったことを最後に伝えたかったのでしょう。
 そのように、皆さんの中に、隣り人に、歩くことも頭を上げることも見ることも困難で、我が身の弱りや終わりを見つめ、背負っている方もおられると思います。

 「ロンダニーニのピエタ」には、「フィレンチェのピエタ」で彫られていた周りの人々が誰もいないように、その弱り終わりの時を側で見つめる者がおらず、孤独の内に過ごさねばならない方がおられることを思います。
 けれども、そうした一人ひとりが生まれた時から最後の最期まで、主イエスに背負われているから決して一人ではない、ということを先のイザヤ書46章のみ言葉は示しています。

ロンダニーニのピエタ – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=465664による

 ミケランジェロはこの最後のピエタを、愛する者を亡くして悲しむマリアを主の霊が慰めている様を表現するために作った、とも言われています。これまで、様々なかたちで愛する者を亡くして嘆き悲しみ弱りくず折れる一人ひとりを、慰め主が背負われている。その故にこれからを生きていく力が与えられますように、と切に祈り願います。
 イザヤ書491516a節のみ言葉に、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。」とあります。
 母マリアが子イエスに抱いたピエタ(慈悲)は生涯忘れ得ぬものだったでしょう。けれども、そのような深い絆で結ばれた人たちがたとえ私を忘れるようなことがあっても。たとえ自分で自分のことさえ分からなくなり、忘れてしまうことがあっても。「造り主なるわたしがあなたを忘れることは決してない。あなたはわたしの手のひらに刻みつけられたかけがえのない存在であり、何ものもあなたをわたしの手から奪い消すことはできない!」
 このずっと変わることのない、「背負われ、刻まれて」いるそれぞれのいのちと旅路が、傷を負い悲痛を刻む誰かの心にやさしくかおる花として芽吹きますように。

祈り:神さま、あなたが造られたこの世界と一人ひとりの心のすみずみにまで、いのち活かす道がゆきわたりますように。主のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2026
The United Church of Christ in Japan