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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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マルコによる福音書2・23~28

2022年11月2日

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

2022年11月1日
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

「変わらない確かさ」

聖書個所:「神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」
ヘブライ人への手紙第13章5b~8節

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日本基督教団札幌教会
牧師 小林克哉

 

 

 日本基督教団札幌教会牧師の小林克哉です。日本基督教団のホームページ、YouTubeチャンネルにお越しくださりありがとうございます。

 みなさんは、聖書の言葉をお読みになられたことはおありでしょうか。聖書の中に次のように記されています。
 神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」
 わたしが聖書に最初に真剣に聞いたのは中学3年生のときでした。家の近くにある教会に通うようになったからです。聖書の言葉に触れ、自分が偶然生まれてきて生きているのではなく、天地万物を造られた神さまが、わたしを造り、命を与え、生かしていてくださる存在であることを知りました。そしてその神さまのことを気付かず知らず背を向けてしまっている罪があることも知りました。創り主である神を愛し、神に共に生よと与えてくださっている隣人を愛するために生きている、その命を生き得てない、そこに罪があることも知りました。そして何よりも、その罪のために、その罪を赦すためにイエス・キリストが身代わりとなって十字架で死んでくださったことを知ったのです。その深いその強い愛を知り、深く感動したのでした。
 牧師先生を通して語られるメッセージに深く感動し、深く慰められ、励まされ勇気づけられたのを覚えています。「わたしたちのために十字架で死んで復活してくださったイエスさまが、わたしたちの神さまなんだから何があっても大丈夫。」わたしはイエス・キリストを信じ、洗礼を受けキリスト者となました。そしてその後牧師とさせていただいたのです。
 牧師になってからもいろいろな出会い経験をさせていただきました。ある時、こんな方が教会に来られました。家庭の破綻を経験し背負いきれない過去を背負い自分を責めている方でした。わたしはその方にこう申し上げました。「イエス・キリストの十字架によってあなたの罪は赦されています。」罪の赦しの宣言を聞き、その方は神さまによって新しい人生を始めたのです。その出来事を見せていただきました。

 また、こんなこともありました。末期がんに侵された方がありました。希望を失い、キリスト者である妻に寄り添われて教会を訪ねて来られました。イエス・キリストを知りました。罪の赦しと永遠の命を知りました。その最期は実に平安のうちに過ごすものでした。そして復活と永遠の命の希望の内に召されていかれたのです。
 生きることに何の意味も見いだせず、死んだ方がよいのでないかと闇の中に捕らわれていた若者がいました。教会に来てイエスさまのことを知りました。神さまの愛、その神さまの愛を知って、生きることを知ったのです。光を見出し闇から立ち上がり人生を歩き出していきました。
わたし自身、欠けや弱さに満ち、罪を抱えて生きている者でしかありません。何にもできない。何もしてあげられない。人を救うことなどできません。しかしそのような出会いや経験を通し、「本当に主は生きておられる。神さまは本当にすごい」と思わされ続けてきたのです。

 聖書、ヘブライ人への手紙第13章5節から8節にこう記されています。

 神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
 世は移ろい、人は変わるものです。しかしイエス・キリストは変わらない。変わらない確かなお方がおられます。

 牧師としての経験の一つとして、わたしは刑務所教誨師のお働きをさせていただいたことがあります。刑務所で受刑者の方と面談するのです。人生をやり直したい、牧師さんと話をしてみたい、聖書のことを教えてほしい。そんな希望を持つ方とお会いする働きです。一般的に、犯罪をおかし、家族に縁を切られている人も珍しくありませんでした。ある日、何度目かにお会いする方がありました。「○○さん、いかがでしたか。あなたのことを覚えて祈っていましたよ。」するとこう言われるのです。「先生、先生だけなんですよ。自分のことを覚えてくれている人は先生だけなんですよ。」わたしがその方に伝えたのは、わたしではないということです。わたしがそうするのは神がイエス・キリストによって、あなたのことを決して忘れることも見放すこともないから。そのことを証しするため。決して見捨てないイエス・キリストの神を知ることが、あなたのこれからの人生の支えとなり、人生の軸となるのです。わたしはその方に一生付き添ってあげることはできません。しかし、決して見放すことも見捨てることもない神がおられるのです。

 先ほどお読みした聖書の御言葉は、牢に捕らわれ周りの人が離れていく現実、夫や妻、家族に裏切られる辛さ、お金だけは確かだと思いながら、それも役に立たなくなる時があるのだと語り、そしてこう言うのです。
 神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
 神は決して見捨てない。変わらない確かなものがある。
 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」・・・・イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

 世は変わり、人は移ろいます。しかし、変わらない確かなものがあるのです。わたしは聖書を通してそのことを知り、教会を通して信じる幸いを与えられました。みなさんにも、この確かさに生きる幸いを知っていただきたいと心から願っています。

 みなさんのこれからの人生に、神さまの恵みと平安がありますようお祈り申し上げます。神さまの祝福がありますように。アーメン!

 「公同の教会」とは、「普遍的な教会」や「全体教会」を意味し、この世界に無数に存在する現実の個々の教会は時間と空間を超えた同一性を有する普遍的な教会でもあるというキリスト教神学の教理です。この語の初出はアンティオキアの第2代主教イグナティオス(35年頃〜110年頃)であり、彼は「主教が現れるところ、そこに会衆が在らねばならない。それはイエス・キリストが在ますところ、そこに公同の教会が在らねばならないのと同じことである」(『イグナティオス書簡:スミュルナの人々への手紙』8章2節a[私訳])と述べています。この引用の後には、主教が洗礼と愛餐(聖餐)の執行の認可者であり、神の代理人の如く崇めるようにも勧告されており、「公同の教会」の教理は主教の絶対的権威とセットになってもいますので、聖書主義に立つプロテスタントの側から改めて「公同の教会」とは何なのかを再考することが必要かもしれません。なお、殉教を美化することはできませんが、イグナティオスは、自らの信念を貫いた結果、ローマで殉教の死を遂げていますので、無責任な権威主義者ではなく、「良い羊飼い」を地で行く「牧者」だったようです。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一

2022年10月31日

 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

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