インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
calendar

ヘブライ人への手紙6・4〜12

2026年10月3日
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。
ヨブは主に答えて言った。
あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。
お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。
主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。
「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。
ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。
主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。
ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。
2026年10月2日
勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。
見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。
彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。
いるなら、わたしの前に立て。
あえてわたしの前に立つ者があれば
その者には褒美を与えよう。
天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。
彼のからだの各部について
わたしは黙ってはいられない。
力のこもった背と見事な体格について。
誰が彼の身ごしらえを正面から解き
上下の顎の間に押し入ることができようか。
誰がその顔の扉を開くことができようか。
歯の周りには殺気がある。
背中は盾の列
封印され、固く閉ざされている。
その盾は次々と連なって
風の吹き込む透き間もない。
一つの盾はその仲間に結びつき
つながりあって、決して離れない。
彼がくしゃみをすれば、両眼は
曙のまばたきのように、光を放ち始める。
口からは火炎が噴き出し
火の粉が飛び散る。
煮えたぎる鍋の勢いで
鼻からは煙が吹き出る。
喉は燃える炭火
口からは炎が吹き出る。
首には猛威が宿り
顔には威嚇がみなぎっている。
筋肉は幾重にも重なり合い
しっかり彼を包んでびくともしない。
心臓は石のように硬く
石臼のように硬い。
彼が立ち上がれば神々もおののき
取り乱して、逃げ惑う。
剣も槍も、矢も投げ槍も
彼を突き刺すことはできない。
鉄の武器も麦藁となり
青銅も腐った木となる。
弓を射ても彼を追うことはできず
石投げ紐の石ももみ殻に変わる。
彼はこん棒を藁と見なし
投げ槍のうなりを笑う。
彼の腹は鋭い陶器の破片を並べたよう。
打穀機のように土の塊を砕き散らす。
彼は深い淵を煮えたぎる鍋のように沸き上がらせ
海をるつぼにする。
彼の進んだ跡には光が輝き
深淵は白髪をなびかせる。
この地上に、彼を支配する者はいない。
彼はおののきを知らぬものとして造られている。
驕り高ぶるものすべてを見下し
誇り高い獣すべての上に君臨している。
2026年10月1日

 

 11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊たちのためにその生命を棄てる。
(ヨハネによる福音書11章11節[私訳])

 

 「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ福音書10章11節)というイエスの言葉は広く知られている聖書の言葉です(14節でも繰り返されます)。イエスが弟子(教会)を導く「羊飼い」であり、弟子(教会)はイエスに導かれる「羊」であるという譬の背景には、「ヤハウェはわたしの羊飼い〔=飼い主〕。わたし〔に〕は欠けるものはない」(詩編23編1節[私訳])という旧約聖書の一節が示すように、羊飼いである神が羊である人間を養い導くという思想があります。
 この言葉を聞くと、学生時代に受けた牧会心理学の授業を思い出します。牧会心理学とは、牧師に必要な心理学やカウンセリングの基礎を学ぶものであり、担当者はアメリカで牧会心理学を修め、日本に広めた第一人者の先生でした。その先生は授業の冒頭で「わたしは良い羊飼いである」という言葉を引き合いに出し、「みなさんは将来牧師になるのだから、まさに良い羊飼いにならなくてはならないのです」と開口一番に語りました。その先生からすると、将来牧師になる学生を励ますためにそのように言ってくれたのですが、わたしたち生意気な学生はその発言に反発し、「牧師と信徒」を「羊飼いと羊」という主従関係、しかも「人間と家畜」として理解するのは傲慢であり、牧師と信徒も含めたあらゆる人間関係は対等なものであるとの批判を先生にぶつけたのです。
 その先生はまさか学生からこのような物言いをされるなどとは夢にも思っていなかったはずです。というのも、「牧師」を意味する英語のpastorはラテン語(pastor)に遡るのですが、その意味はまさに「牧者=羊飼い」であり、「牧会心理学」の「牧会」とは、「牧師」が「教会」の人たちに対して行う働きを意味するpastoral care(牧者の配慮)に由来しますので、その先生は牧師としての矜持を持ちつつ、キリスト教では常識とされている理解を述べたに過ぎなったからです。
 自分が教員になってみると、当時のわたしたち学生がいかに傲慢であったのかに気づかされ、申し訳なくも感じるのですが、やはりこの先生の考えに与することはできません。ヨハネ福音書が伝える「わたしは良い羊飼いである」という譬では、羊飼いと羊の関係は通常のものではなく、「良い羊飼いは羊のためにその生命を棄てる」と続いているからです。これはイエスが十字架刑によってその生命を落としたことを象徴的に言い表しています(15節をも参照)。したがって、ヨハネ福音書が羊飼いと羊の関係をイエスと弟子(教会)の関係に当てはめているのは、羊飼いが羊のためにその生命を棄てるという特別の前提があるからであり、それはイエスという稀有な存在との関係としては成り立つのかもしれませんが、それを教会の牧師と信徒の関係に敷衍して当てはめるのは危険ですし、ましてや信徒を家畜に喩えて牧師である羊飼いによって一方的に導かれる存在に仕立て上げるのは、教会の司牧性(職制/教職制)が抱える構造的差別にほかならないからです。
 このように神と人間、イエスと弟子(教会)、牧師と信徒の関係を羊飼いと羊の関係に喩える発想は、ドイツの人類学者エーゴン・フライヘア・フォン・アイクシュテット(1892−1965年)が提唱した「人間の自己家畜化」(Selbstdomestikation des Menschen)と通底するように思えます。アイクシュテットは「家畜とは人間が利用するために野生動物を遺伝的に改良したもの」との前提から、「人間は野生動物よりも、むしろ家畜と似たところがある」と考え、「家畜は人間が野生動物を人為交配することによってある目的のために改良したものだが、人間は無意識のうちに自己をある方向に『改良』、つまり『自己家畜化』した産物ではないだろうか」との興味深い説を唱えたのです。つまり、人間は他の動物を家畜化しただけではなく、自分自身をも家畜化してしまったとの大胆な仮説です。
 アイクシュテットの仮説は、産業革命に代表される近代化に伴い、衣食住や労働を含めた生活の総体が量産化されるようになった状況を背景に提唱されたと考えられますが、同種の指摘はフランスの社会人類学者クロード・レヴィ=ストロース(1908−2009年)によってもなされています。すなわち、レヴィ=ストロースは西洋の文明社会が発達させた「科学的思考」(la pensée scientifique)が、「栽培/耕作された思考」(la pensée cultivée)ないし「家畜化された思考/飼い慣らされた思考」(la pensée domestiquée)とでも呼びうるものだと言って批判を展開しているからです。この思考は、地球や宇宙をも含めた自然万物という外界を科学という名の体系内に「飼い慣らす/囲い込む」性質を持っており、レヴィ=ストロースはことにこの思考の特質が「効率を高めるため」のものであることを問題視します。確かに、効率化や合理化は現代社会がモットーとするものであり、特にこの状況は資本主義システムによって、全てを画一化しようとするグローバリズムとして、確実に世界を飲み込もうとしているからです。
 レヴィ=ストロースは「家畜化された思考」に支配されつつある世界に省察を促し、「家畜化された思考」の対立概念として、「神話的思考」(la pensée mythique)に代表される「野生の思考」(la pensée sauvage)を措定し、その特質として「ブリコラージュ(bricolage)」(器用仕事・日曜大工)という概念をあげています。ブリコラージュとは、創意工夫して手仕事で道具を編み出すことに表象される古来の人類の知の様相を表します。つまり、「家畜化された思考」が「効率を高めるため」に画一化した規格品を作るものだとすれば、「野生の思考」は創意工夫して臨機応変に必要な新たなものを自らが作り出していくことを表します。彼は西洋世界が非効率的・非合理的として切り棄ててしまった「未開社会」や古来の英知の大切さを再発見しようとしているのです。
 「人間の自己家畜化」は、宗教、軍隊、教育、会社などを含めた社会の全体を覆っているように感じられます。近年「社畜」という言葉を聞きますが、これは「自己家畜化」の現代版とでも言える現象ではないでしょうか。確かに、同じサプリメントを飲み、同じブランドの服を着て、一様に会社のために働き、その規格から外れるものに社会不適合の烙印を押し、スマホでAIからマニュアル的な回答を得て、自分で考えなくなってしまっているわたしたち現代人もまた「自己家畜化」してしまっていると言えるのかもしれません。この社会を覆う「自己家畜化」に抗うには、自ら創意工夫して考え行動するブリコラージュを求め、効率化や合理化によって切り棄てられてしまったものを取り戻す必要があるのではないでしょうか。
 そう言えば、イエスは道具や家屋を直したりするプロの大工職人でしたから、イエスを「ブリコルール(bricoleur)」(日曜大工)などと呼んだら叱られてしまいますが、その場の状況に応じて臨機応変に創意工夫するブリコラージュを大切にしていたことは確かではないでしょうか。

(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)

ヨブに答えて、主は仰せになった。
全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
神を責めたてる者よ、答えるがよい。
ヨブは主に答えて言った。
わたしは軽々しくものを申しました。
どうしてあなたに反論などできましょう。
わたしはこの口に手を置きます。
ひと言語りましたが、もう主張いたしません。
ふた言申しましたが、もう繰り返しません。
主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
男らしく、腰に帯をせよ。
お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。
お前はわたしが定めたことを否定し
自分を無罪とするために
わたしを有罪とさえするのか。
お前は神に劣らぬ腕をもち
神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。
威厳と誇りで身を飾り
栄えと輝きで身を装うがよい。
怒って猛威を振るい
すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし
すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き
神に逆らう者を打ち倒し
ひとり残らず塵に葬り去り
顔を包んで墓穴に置くがよい。
そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。
お前が自分の右の手で
勝利を得たことになるのだから。
見よ、ベヘモットを。
お前を造ったわたしはこの獣をも造った。
これは牛のように草を食べる。
見よ、腰の力と腹筋の勢いを。
尾は杉の枝のようにたわみ
腿の筋は固く絡み合っている。
骨は青銅の管
骨組みは鋼鉄の棒を組み合わせたようだ。
これこそ神の傑作
造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。
山々は彼に食べ物を与える。
野のすべての獣は彼に戯れる。
彼がそてつの木の下や
浅瀬の葦の茂みに伏せると
そてつの影は彼を覆い
川辺の柳は彼を包む。
川が押し流そうとしても、彼は動じない。
ヨルダンが口に流れ込んでも、ひるまない。
まともに捕えたり
罠にかけてその鼻を貫きうるものがあろうか。
お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ
その舌を縄で捕えて
屈服させることができるか。
お前はその鼻に綱をつけ
顎を貫いてくつわをかけることができるか。
彼がお前に繰り返し憐れみを乞い
丁重に話したりするだろうか。
彼がお前と契約を結び
永久にお前の僕となったりするだろうか。
お前は彼を小鳥のようにもてあそび
娘たちのためにつないでおくことができるか。
お前の仲間は彼を取り引きにかけ
商人たちに切り売りすることができるか。
お前はもりで彼の皮を
やすで頭を傷だらけにすることができるか。
彼の上に手を置いてみよ。
戦うなどとは二度と言わぬがよい。
PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2026
The United Church of Christ in Japan