「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。 それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。
「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。 彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄え
この国に正義と恵みの業を行う。
彼の代にユダは救われ
イスラエルは安らかに住む。
彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。 では、どうなのか。イスラエル……
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。
「その声は全地に響き渡り、
その言葉は世界の果てにまで及ぶ」
のです。 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、
「わたしは、わたしの民でない者のことで……
モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。 では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、
あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。 ユダヤ人とギリシア……
では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
「見よ、わたしはシオンに、
つまずきの石、妨げの岩を置く。
これを信じる者は、失望することがない」
と書いてあるとおりです。
兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、
「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、
慈しもうと思う者を慈しむ」
と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 焼き物師は同じ粘土から、……
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と……
レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
「そうしておくれ」と、王女が頼んだので……
では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。 しかし、これらすべてのことにおいて、……
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは……