さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。 それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。
アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、 彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。 パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。 そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」 人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。 この人たちは、皆で十二人ほどであった。
パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。 しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。 このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。
その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。
シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。 しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」 パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。 会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。
ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、 「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。 パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、 問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」 そして、彼らを法廷から追い出した。 すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。
パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。 一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。 人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、 「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。 カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。 パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。
パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。 それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。 また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。 奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」 すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。 皆さんのうちのある詩人たちも、
『我らは神の中に生き、動き、存在する』
『我らもその子孫である』と、
言っているとおりです。 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。 それで、パウロはその場を立ち去った。 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。
主の御名を賛美いたします。
日本基督教団は災害発生時より能登の地域と教会の回復のために祈り、被災地域とそこに建つ教会の支援のためのボランティアを派遣してきました。
キリスト教学校のキリスト教教育、実践教育の一助として教団の派遣パッケージをぜひご活用ください。
以下の要項をご覧いただき、お問い合わせいただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
【10月】
10月7日(火)~10日(金) 受付終了
10月23日(木)~26日(日)
【11月】
11月4日(火)~7日(金)
11月27日(木)~30日(日)
【12月】
12月9日(火)~12日(金)
※以後、冬季休止。2026年3月より再開予定。
【場所】
活動:輪島市(町野町)・珠洲市・能登町
宿泊:日本基督教団羽咋教会、富来伝道所(出張伝道地)、古民家、民泊宿舎、テント泊(1人用)等
【スケジュール】※状況によって変更あり
1日目:移動、羽咋教会を経由して富来伝道所、または羽咋教会にて宿泊
2日目:奥能登へ移動(町野町 または珠洲市)、ワーク、宇出津(宿泊
3日目:町野町 または珠洲市ワーク、宇出津(宿泊
4日目:輪島教会・門前(隆起海岸線)等を視察し、帰路へ
※1日目は羽咋教会に16:00までに集合、4日目は14:00~16:00までに富来伝道所または羽咋教会にて現地解散
【作業内容】
被災地(地震/洪水被害)の支援活動
2日、3日の早朝にボランティアが割り振られます。
【交通手段】
現地での移動は乗用車を利用します。(羽咋→珠洲市、珠洲市→輪島等)
レンタカーや自家用車での参加推奨。
金沢まで電車で、金沢からレンタカー使用も可。
【費用】
往復の交通・食事・入浴・(レンタカー)
※宿泊費用はかかりません
【人数】
引率込み、8名まで
現地ではガイドが1名同行します。
【条件】
・教職員の引率があること
・自動車の移動手段があること(金沢でレンタカーも可)
・日本基督教団関係学校、もしくはキリスト教学校教育同盟加盟校であること
・参加学生は中学生以上であること
【詳細・質問・オリエンテーション日程】
お問い合わせ後、対応します
【所持品】
着替えや洗面用具等の日常生活での必要品、作業着、防寒着など
作業用の靴、ゴム手袋(軍手)、マスク、レインコート、寝袋、健康保険証など
※寝袋は貸出可。お申し出ください
【申し込み】
まずは企画段階で下記「問い合わせ先」へご一報ください
【その他】
・入浴は近隣の温泉 ・宿舎近隣に飲食店/スーパー/コンビニあり
・上記は予定であり、現地状況により大幅な変更もあります
【問合せ】
日本基督教団事務局総務部
somu-b☆uccj.org ※☆を@にかえてください
03-3202-0541
死に取り残された世界に寄り添う
――ヨブの苦難に寄せて――
24なぜなら、わたしのパンの前にわたしの呻きが迫り来て、
水のようにわたしの唸りが吐き出されるのだから。
25なぜなら、わたしが恐れていた恐れがわたしに臨み、
わたしが怖がっていたものがわたしに迫って来たのだから。
26わたしは安らぐことなく、穏やかにいることもなく、
憩うこともない。ただ混乱だけが迫り来る。
(ヨブ記3章24−26節[私訳])
ヨブ記の主題のひとつは神義論であり、神はなぜ悪や苦悩を放っておくのか、また悪人(罪人)が栄え、善人(義人)が苦難に遭うといった不条理を神はどうして見過ごしにするのかが問われています。義人ヨブは自らの命と妻以外の家族と財産を失い、自らも病に冒されます。彼は神に訴えかけ、また自らを詰る友人たちと議論を繰り広げます。
ヨブ記3章はサタンの試みによって全てを失ったヨブが独白をする場面です。冒頭に引用した3章24−26節には、絶え間なく襲う不安や恐怖に苛まれるヨブの心情が明かされています。24節が描くのは、朝目覚めて食事をするよりも前に――あるいは食事の代わりに――呻きに襲われ、水のように絶え間なく注ぎ出されるように呻吟するヨブの姿です。25節はヨブにとって最も恐怖していたことが現実のものとして迫って来たことに触れています。ヨブ記においてそれは幸福の絶頂から不幸のどん底に自らを沈めた禍いそのものに置かれているのではなく、自らを不幸に陥れることを許す神の不条理や自らの祈りに応えることのない神の不在に直面したヨブの実存の危機として立ち現れています。それゆえ、26節においてヨブは一瞬の平安すら感じることなく、ただひたすら不安と恐怖に苛まれ続けるのです。
今回の聖書テクストは担当者が身近な人たちの死を看取ってきたここ10年ほどの時間を振り返り、しかも牧師として葬儀の説教をしつつその人たちを見送ってきたことで、大切な人の「死」そのものに向き合うこともできず、まるで自らが蝕まれているような漠とした不安に襲われているといった心情から選んだとのことです。その文面には以下のように記されています。
わたしの中の「死」は、いつも置き去りになっているのです。そうやって、わたしは、わたしの中に「死」をため込んでいって、重たいと思うこともあります。いつかひとは死ぬのですが、それに想起される悲しみとか、そういうことではなく、単体の死、みたいな、漠然とした死という、なにか黒光りするようなものが、詰め込まれていく感じですね。
長年の友人でありながら、知らないことばかりであり、毎月の依頼の文面からその感性と繊細さを改めて垣間見ているような気がします。ヨブの問いと担当者の問いの間にある問題や課題を間テクスト的に読み解きつつ、双方が煩悶する不安や恐怖に共鳴するような言葉を紡ぎ出せるのかどうか甚だ心許ないのですが、今回はわたし自身の経験に引き寄せて考えてみようと思います。
新型コロナウイルスのパンデミックが始まった2020年の7月末に叔父を見送る経験をしました。暑い夏の日の夕方に札幌の警察から連絡があり、叔父が自宅で亡くなっていたとの知らせでした。知り合いの牧師に葬儀社を紹介してもらい、役所の手続きなどを済ませ、遺体を引き取りに行きました。警察からそのまま火葬場に赴き、まだ熱い遺骨を持ち帰りました。唯一の弟を失った母は茫然自失となり、一緒に行けなかったことを侘びながら咽び泣いていました。早くに父を亡くしたわたしたち兄弟にとって、叔父は父親代わりでもありました。2013年に北海道に戻ってから叔父が亡くなるまでの7年間、思いついたときに訪ねて一緒に食事をし、気分の良くなった叔父に日本酒を呑まされてふらふらになって小樽に戻ることもしばしばでした。2020年5月末に、癌の再発による入院と手術をするとのことで、保証人の署名をして欲しいと頼まれ、コロナのパンデミックになってから初めて叔父に会いました。退院して少し元気になったとの連絡があり、7月初めに叔父を訪ねました。呼吸も辛く、独り暮らしも不安だから、一緒にホームを探して欲しいとお願いされ、パンフレットを見たりしました。少し落ち着いたらホーム探しをしようと約束したにもかかわらず、その3週間後に叔父を「孤独死」させてしまったのです。亡くなった叔父の家の後片づけをしに行くと、布団から抜け出したあたりで力尽きたことが分かりました。苦しくなって救急車を呼ぶために電話をしようとしたのではと思い、どうして体調を気遣う連絡をしなかったのか、なぜもっと迅速に動いてホームを探して入所させなかったのかなどと悔やみながら誰もいなくなった叔父の家に通いました。
担当者でもある友人は身近な人たちを送るさいに告別説教をして送り出すことも多かったようです。しかし、火葬場でわたしは生前の叔父を想起しつつ、「孤独死」させてしまったという後悔の念を抱きながら叔父を見送ることしかできませんでした。家の片づけのときにも、申し訳なさを感じ、悲劇の主人公にでもなったかのように沈んでいただけです。弟を失った母が少し遺骨を置いておきたいと願ったということもあり、翌春の2021年4月に当時広島の呉平安教会にいた弟(現在は札幌教会)に墓への納骨をしてもらいました。キリスト教とは無縁の叔父だったということもあり、キリスト教の納骨式をしてもらったわけではありませんが、自分で納骨をしなかったのは――ちゃんとした牧師である――弟に頼むことで、叔父を「孤独死」させてしまった罪滅ぼしをして、自分を納得させたかったのかもしれません。友人が言う「ため込んでいって、重たいと思うこともあ」る「死」、「単体の死、みたいな、漠然とした死という、なにか黒光りするようなものが、詰め込まれていく感じ」に少し似た感覚が、わたしにとっては叔父の「死」だったようです。
友人とわたしは同じ年齢であり、それゆえ同じような経験をするお年頃なのかもしれません。ヨブのように神の不条理と神の不在による実存の危機を感じたわけではありませんが、ヨブも身近な人たちの死に身が引き裂かれ(ヨブ記1章20−21節)、死ぬことが許されない我が身を呪っています(ヨブ記3章1−23節)。死に取り残されて生きていかざるを得ないヨブは「単体の死、みたいな、漠然とした死という、なにか黒光りするようなものが、詰め込まれていく感じ」に襲われていたのです。それゆえ友人はヨブに共鳴したのではないかと勝手に想像をめぐらせています。そのように考えると、友人が戦禍の地に思いを寄せ続けてきたのもまた、戦禍の地で命を奪われた人たちのひとりひとりに「単体の死、みたいな、漠然とした死という、なにか黒光りするようなものが、詰め込まれていく感じ」に胸を締めつけられていたからではと感じるのです。そして、それは戦禍にある地だけの問題ではなく、友人が見送り続けてきた身近な人たちの「死」にも共通する問題であり、わたし自身が拭いきれない叔父の「孤独死」にも通底する問題でもあります。死を弔うこともまた宗教の重要な役割であることは重々承知してはいますが、それ以前に不条理や神の不在の死に満ちた世界を変えるために力を尽くし、ヨブのように死に取り残されて「安らぐことなく、穏やかにいることもなく、憩うこともない。ただ混乱だけが迫り来る」世界を生きざるを得ない人たちに寄り添うこともまた、キリスト教が果たす重要な役割だと言えるのではないでしょうか。
(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)
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