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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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コリントの信徒への手紙一12・14~26

2026年7月26日

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

2026年7月25日

近づくはじめて

 友人が病で声帯を取る手術を受けた。声よりも生きることを選んだと。大学時代互いに譲らないマシンガントークをしていたが今は怒涛の筆談。テンポは変わらず。「話せなくなって良かったことは悪口を言わずに済むこと。でも舌打ちは出来るのよ~(ニヤリ)」「ヤメレ(笑)」大きな変化の中、友人の変わらないユーモアや優しさに頭が下がる。
 信仰者は「先に○○を天に捧げる」という言い方で失われた体の機能などを表現することもある。皆肉体だけではなく大切な何か、あるいは存在などを思いがけないときに地上において失う。その行先が暗闇ではなく明るい光の内にあると分かっているのは幸いだ。老いるとは初めての体験が減っていくことと言われるが、行き慣れた散歩道に毎年紫陽花や山茶花が咲くのを見ると思うのは、その花と私は初めての出会いであり、身の回りには初めてが溢れているのも事実だということだ。「初めて」は私たちが探しに行くというよりも実は身近に在って訪ねてきてくれるような気もする。
 「とざせる門(かど)を 主はたたきて」(讃美歌1954年版240番)、「見よ、わたしは戸口に立って、叩いている」(ヨハネの黙示録3章20節)自ら近づいてこられるイエスさまが招く全員が、いつでも等しく神さまと新しく出会うことがゆるされている。
(教団総幹事 網中彰子)

教憲変更議案:「教憲9条を改正し、伴って関連教規条項を改正する件」掲載について

2026年7月25日

第43総会期 日本基督教団総会議長 雲然俊美

 第76回九州教区定期総会にて、第44回教団総会への提出議案として可決されました。本議案は、「教憲変更議案」となります。教憲12条に則り、教団新報にて「公表する」こととなりました。


教憲9条を改正し、伴って関連教規条項を改正する件

提案者 第76回九州教区総会

議案

 現行の教憲第9条の規定「教師はこれをわけて,正教師および補教師とする」は、先の大戦下に宗教団体法(1940年施行)及び同施行令の命じるところに従って合同前各教派が不可抗力的に採るに至った「二種教職制」を踏襲して定められた旧日本基督教団規則第207条「教師ハ之ヲ分チテ正教師及補教師ノ二種トス」を、戦後の混乱期に充分な検討なくそのままに引き継いだ(1946年6月制定)ものであって、教会の信仰に基く内的希求ないし信仰的決断に発した定めではない。

 従って、第44回日本基督教団総会は、先の戦時下に犯した“神の主権よりも国権を上位に置いた過ち”を深く悔改め、神が与え給うた信仰の自由なる決断において、教憲第9条を次の通り、改正し、伴って関連教規条項を改正する。


PDFはこちらから


提案理由

 日本基督教団は、敗戦前の国家統制の厳しい時代に採ることを余儀なくされた二種教職制度を、教会に相応しい制度であると捉えてきた訳ではありません。1954年の教団信仰告白制定後の1956年の教憲改正、それに続く再度の教憲改正作業(1958年)がなされた頃、“教師とは按手礼を領した者ではないか”との意見が盛んに主張され、その正当性を認める形で“准允を受けた者を「教師補」とする”内容の教憲第9条改正案がまとめられたのでしたが、第12回教団総会(1962年)では二種教職制の解消に至らないままの教憲改正となりました。

 しかし、議論は止むことなく更に続き、第15総会期信仰職制委員会(1968年−)は“教師を二種とせず、一種のみとすべき”と結論し、同時に教師に至るまでの「教師補」的制度を置くことが望ましいという方向性を打ち出しました。これをうけた第16総会期常議員会(1969年−)は教憲第9条改正の必要を認める決議をなしました。その後、常任常議員会の下に設置された作業委員会が提出した報告を基に常議員会は、1970年7月、第17回教団総会に二種教職制廃止を目的とする教憲第9条改正を正式に提案することを決定したのでした。その内容は、教憲第9条の条文を「本教団の教師は,神に召され正規の手続きを経て献身し,按手礼を領した者とする」というものであり、これに伴う教規、関連規則の変更を第18回教団総会に提案できるように常議員会に準備させるというものでした。

 この改正案は、いわゆる「教団紛争」の激化に伴う第17回教団総会延期などの事情の中で、以後の教団総会で毎回継続審議扱いとされざるを得ず、第25回教団総会(1988年)において、全教区の議員が揃う教団総会開催まで審議を凍結するとの決議がなされ、教団総会議案からは消えることとなりました。しかし私たちが忘れてならないのは、この間30余年の長きにわたって信仰の先達が日本基督教団にとっての、あるべき教職制度を形にしようと真剣な努力を続けて下さったという事実であり、教団全体にも、まことの教会となるために二種教職制度の問題を等閑視することはできないとの認識が保持し続けられていたということです。

 1982年からは「三委員会連絡会」(教師委員会・信仰職制委員会・教師検定委員会)が、教師制度や教師検定制度のあり方について検討を重ねるという努力があり、第27回教団総会(1992年)は全教区の議員が出揃う総会となりましたが、残念ながら、以後の教団総会で二種教職制廃止をめぐる本格的な議論がなされる機会は多くはありませんでした。本質議論は出尽くしているであろうとの認識と共に、膨大な議論の集積という事実が、その時点での議員たちをして積極的発言をためらわせたものでしょう。そしてまた、時の経過の中で事実上、継続されてきた二種教職制度ですから、これに無頓着な世代が現れてきたことも要因であったと思われます。

 直近、最後の教団的取り組みは、第30総会期第5回常議員会(1998年7月)が提案し、第32回総会(2000年)で可決された「教憲9条を検討する件」でした。これは実に3総会期をかけての検討でしたが、教憲第9条検討作業委員会は2006年2月の第34総会期第4回常議員会に、これ以上の検討作業継続は困難であるとの最終報告を提出、常議員会がこれを承認したことによって、二種教職制度は教団の議題とされることなく今日に至ることとなったのでした。この時点で課題克服を阻んだ要因のひとつは、温存された二種教職制度と共存するうちに、補教師という制度の中に訓練期間としての「有用性」を見出す層が現れてきたことであったと考えられます。

 以上のように、教憲第9条に定められた二種教職制度に対する問題意識が、時の経過と共に退行してきたことは否めません。しかし、そうであるからと云って、教会の根幹に関わるこの問題を捨て置くことはできません。先の敗戦後にいち早くこの問題を指摘した先輩方やその後に改正努力を積み上げて下さった方々は、“正教師・補教師の別によって御言の宣教と聖礼典執行が分離されることはプロテスタントの神学から承認されないこと”であり、“二種教職制度とは国の圧力の下に採ってしまった便法”であり、“神の主権よりも国権を上位に置いた過ち” の痕(しるし)であることを明確に見抜いておられたのです。この認識は正当です。便法の上に主の教会が建て上げられるはずはなく、“神の主権よりも国権を上位に置いた過ち”の痕を帯びたまま、まことの教会となり得る道理もないことです。補教師制度に訓練期間としての「有用性」を見出すことも本末顛倒というほかありません。

 長い年月にわたる議論の膨大な集積に怖れを抱いているとしても、これより生起するであろう法規相互の整合作業や制度整備にたじろぐ思いに囚われているとしても、私たちは「教憲9条を改正し、伴って関連教規条項を改正する」ことを決断すべきです。私たちは主にのみ従う教会であらねばならず、従ってそれを体現せねばならないからです。

 尚、本議案は、第41回日本基督教団総会に提出された議案、また、第42回日本基督教団総会に提出された議案と内容を同じくする議案です。第66回九州教区定期総会(2016年)において決議され、その後、同年開催の第40回日本基督教団総会に提出された議案は、提案者の責めに帰せられるべき理由なく、教憲12条所定の期間内議案公表手続きに瑕疵が生じたため、上程されることがありませんでした。また、この議案に修正を加え、第68回九州教区定期総会(2018年)において決議され、その後、同年開催の第41回日本基督教団総会に提出された議案は、総会に残された審議時間がわずかであったので、短時間でこの議案を判ずることを避けるため、提案者である九州教区総会を代表する総会議長自ら取り下げました。更に、第70回九州教区定期総会(2020年)において決議され、その後、2022年開催の第42回日本基督教団総会に提出された議案も、第41回日本基督教団総会と同様の理由で、提案者である九州教区総会を代表する総会議長自ら取り下げました。

 この過程で、九州教区総会が願ってきたことは、教団の歩み、ひいては「国家と教会」という、信仰の本質にも関わる重要な主題を内包する本議案がこのまま捨て置かれ、二種教職制度の課題が風化していかないこと、また、かつての教団が真剣に向き合おうとした二種教職制度への検討・協議の場が、いま一度回復されることでした。

 教団は、第40総会期教師養成制度検討委員会に二種教職制度の取り扱いを委託しました。同委員会は、①「教憲第9条検討作業委員会(2004年〜2006年)」の検討作業と報告を踏まえる、として同委員会委員長と書記を、②「教憲9条改正」議案の提案者である九州教区から提案の概要と趣旨について聴く、として九州教区総会議長を、③二種教職制の問題について神学的な課題について検討する、として東京神学大学学長を、それぞれ招き、聴取を行っています。しかし、第41回日本基督教団総会において九州教区が議案を取り下げたことを理由として、教師養成制度検討委員会は、同委員会として検討を終了させてしまいました。この判断への疑義は拭えません。けれども、より重要であるのは、同委員会自身が、今後、取り扱いを議長と常議員会に委ねる、としている点です。教憲9条の課題は未だ終了していません。一つの委員会に担わせて終わりとするのではなく、議長や常議員会が検討・協議の場を形作り、積極的に課題の解決に向かって取り組みを進めることが必要です。

 また、第42回日本基督教団総会の結果を踏まえ、九州教区総会議長は日本基督教団総会議長と常議員会に「第42回 日本基督教団総会での議事運営に対する抗議と質問」を出しました。その中の質問の三)「九州教区が行ってきた『教憲9条改正』の提案は、本来は教団の責任においてなすべきことであると理解します。教団が過去に行ってきたような『教憲9条改正』に向けた動きをなさるべきです。2年ごとの総会での議論に任せるのではなく、今期2年の任期中に常議員会の責任において議論を開始し、問題点を整理しつつ改正に向けた協議を始めるべきではないでしょうか。取り下げで終わりとするのではなく、九州教区議案を出発点として議論を進めていくことを提案しますが、いかがお考えでしょうか。」に対して、日本基督教団総会議長は「教憲9条にある、いわゆる『二種教職制』は教団の教師制度における重要課題であると認識しております。このことについてはこれまでも検討がなされてきましたが、改正には至りませんでした。教師制度は教団の教会としてのあり方の根本に関わり、教師養成、教師検定とも繋がる深くかつ広い問題です。三役としては、今後教団の教師論の明確化に努めつつ、教団の教師制度のあるべき姿を検討していきたいと考えております。そのために今期は、常議員会において協議会を開催するなどして、教団の教師制度の歴史と、これまでなされてきた諸検討内容について学ぶ機会をもちたいと考えております。」と文書で回答しました。その回答に従い、2024年7月開催の常議員会にて、「二種教職制度について」の協議会を行いましたが、雲然議長によれば、改正がいかに困難な道のりであったかを述べるにとどまり、克服すべき課題に向き合おうとする姿勢ではありませんでした。

 第43回教団総会では、重要議案として他の教区提出議案に先駆けて上程され、審議されましたが、不規則発言や議案の本筋ではない質問等が繰り返され、挙げ句の果てには、「二種教職制度は有用である」というような発言までなされる始末でした。日本基督教団の歴史の中で、戦後、様々な改正に向けた努力がなされ、また教師制度は一種であるべきということが明確に決議されているにもかかわらず、克服に至らなかったことは、怠慢とのそしりを免れないものです。改正後の様々な課題はあるとしても、まずは二種教職制度の根拠となっている教憲9条を改正するという決断の上で、諸課題を克服していかなければ、いつまで経っても相応しくない制度が続くことになります。キリストの体に相応しい日本基督教団を立て上げるために、大きな決断をするときです。

 以上、わたしたち九州教区総会は、教団における二種教職制度の克服を願い、本議案を提出いたします。

兵庫

27年度伝道資金の交付申請をしないことを決議

 第80回/「合同」後57回兵庫教区総会が5月31〜6月1日に神戸栄光教会で、対面を中心としながらオンライン出席も含めて行われた。上程された議案についてすべて可決され、法定議案以外では、正式な議案名は省略するが主に以下のようなものが上程されそれぞれ可決された。

 「教団伝道資金に関する件」について、兵庫教区ではかつての教区活動連帯金制度のように財政規模に応じた拠出と、互助の精神に基づいた活用がされることをこれまで望んできた。この意思表示として、これまで兵庫教区では以前の制度による拠出金額を計算し申請をしてきた。しかし、現制度の問題性を改めて訴えるために、制度が変更されない場合は2027年度の伝道資金は交付申請しないことを決めた。これまでの自分たちの姿勢を問い直すものでもある。

 教団総会に提出する議案として、「教師問題・教師制度問題に関する議案」では、二重教職制度について、実際の問題として補教師の聖礼典執行が認められないことを教団史における経緯だけではなく、補教師を招聘し主任担任教師とする教会/伝道所における経済的不利益も課題として見直しを求めている。次に「教団にセクシュアル・マイノリティ差別に向き合うことを求める議案」は、2025年度の常置委員会において、これまで教区で取り組まれてきた課題をいくつか取り上げ、継続して集中審議を行い、その中の一つに「セクシュアル・マイノリティ差別への取り組み」があり、その議論が議案として実を結んでいる。すべての差別がなくなることを願いながら、セクシュアル・マイノリティ差別への取り組みをキリスト教(教団)として行うことを求めている。「教団機構改定に関する議案」については全教区選出の議員が揃うまでの議論凍結を求めている。まずは沖縄教区に信頼してもらえる教団形成を考えることが急務であると考えている。

 また緊急議案・建議として「文部科学省が認定した教育基本法違反に違和感と疑問を公にする件」、「高市早苗内閣総理大臣に『国家情報会議設置法』ならびに『国家情報局法案』『スパイ防止法案』について反対する声明を出す建議」、「国旗損壊罪に反対する声明を出す建議」がそれぞれ上程され可決された。

 准允1名、按手1名がそれぞれ行われ、二重教職制度の課題を皆で受け止める責任を告白しつつ、そして自らを問いつつもお二人に豊かな祝福を祈った。兵庫教区ではほかにも様々な課題があり、互助制度の運用も非常に大きなものである。様々な違いがありながらも、集い、出会う中で共同体として集められたことを実感した2日間であった。

 教団総会議員選挙結果

【教職】森なお(加古川東)、松本あずさ(はりま平安)、小栗献(神戸聖愛)、山本一(伊丹)、若林一義(芦屋西)、桝田翔希(尼崎)、大仁田拓朗(甲子園)、山本桂子(但馬日高)、新谷和茂(高砂)、高橋爾(須磨月見山)、新堀真之(甲東)、乾元美(神戸神愛)、小林聖(豊岡)

【信徒】北村大昂(豊岡)、有森和可奈(北六甲)、糸原由美子(神戸栄光)、堀奈々絵(須磨月見山)、宮川正徳(高砂)、増岡広宣(西宮門戸)、柳谷舟子(甲南)、梅村新(西宮一麦)、笠水寿子(兵庫)、小笠原務(東灘)、橘利昭(高砂)、柳あつ子(須磨)、奈良昭彦(志筑)

(桝田翔希報)

2026年 在日大韓基督教会・日本基督教団 
平和メッセージ

我らの救いの神よ
あなたは義によって
恐るべき業によって答えます。
遠い海、地の果てに至るすべてが信頼する方。

強い力によって山々を固く据え
大いなる力を身に帯び
大海のどよめき、波のどよめき
そして諸国の民の騒ぎを鎮める方。

世界の果てに住む者はあなたのしるしを見て畏れ
朝と夕べの始まる所に
あなたは喜びの歌を響かせてくださいます。

詩編65編6節〜9節

(聖書協会共同訳)

〈隣人を自分のように愛しなさい〉

 ヘイトクライムのひとつである排外主義は、現政権(2025年現在)において、その様相を国家的レベルで増幅していると言えます。2025年度末で在留外国人数は400万人を超えています。その多くはアジア地域からの移住者です。また海外からの観光客も増えています。この国の暮らしは、様々な背景を持った人びとによって彩られています。しかし、その彩りを単色に塗りつぶす力は一層強くなり、「外国人」を排除しようとする現政権の心中が透けて見えるような出入国管理及び難民認定法改悪は、排外主義を人びとの心の中に植えつけようとする意図が垣間見られます。さらに国旗損壊罪は、誤謬の上にある国旗が排外主義を心の奥に刻印する役割を果たすでしょう。このような世にあって、主イエス・キリストが最も大切だと諭した掟である「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12:31)を強く我が身に刻むのみです。

〈コリアン・ジェノサイド〉

 明治維新以降、日本の近代化はアジア地域の植民地化の中で進められてきました。日清戦争で台湾・澎湖諸島を植民地とし、その後も日露戦争で植民地支配の範囲を広め、1910年に朝鮮を併合し、1931年の満州事件により大日本帝国軍は事実上、中国地域を軍事支配してゆきます。この過程において、日本は植民地支配を一層強め、アジア地域の人びとを国力増産のため、日本国内へ向けて強制動員を強化してゆきました。これらの歴史的流れの中で、関東大震災における朝鮮、中国の人びと等が国家機関の積極的なデマ流布とそれに呼応した自警団によって関東各地で虐殺されました。第二次世界大戦では多くの植民地の女性が日本軍慰安婦(性奴隷)として連れ出されました。あるいは、1942年の長生炭鉱水没事故により、183名の命が奪われました。その多くが朝鮮人労働者でした。犠牲者の遺骨は海底に置き去りにされたままです。戦後になっても、なおこの植民地支配の傷跡は深く、決して消えることはありません。

 わたしたちは、これらの歴史的事実の前に立って植民地主義を検証し、二度と悲劇を繰り返さず、主の平和を求めて未来への扉を共に開いてゆけることを祈り願います。

〈情報過多時代〉

 もはや人間の処理能力を超えた情報があふれかえる世界で、わたしたちは正しさを見つけようともがいています。真偽を確かめる間もなく次の情報に飲み込まれます。新しそうに見えるものが次々と提出され、それを獲得しなければならないと思わされます。

 このような性急な流れの中で「事実」に対するファクトチェックを怠り、「言論の自由」の名の下でSNSが与える情報を処理して、ただただ「意見」を述べるようなあり方が蔓延しています。そのような中にあって、他者を傷つけることの想像力を十分に持てる個人・教会・社会とならなければなりません。AIを利用したデマとフェイク情報により、外国人をはじめとする個人の尊厳とプライバシーが侵害され、さらには性暴力へと繋がっていくのです。

 AIは特定の分野では功を奏するかもしれませんが、これを安定的に運用するために膨大な電力が必要となり、そのために私たちの未来は別の犠牲を払うことになるかもしれません。このままでは、膨大な電力供給のためと称した原発稼働推進の動きが加速してしまいます。神がわたしたちに与えた知を謙虚に用いねばなりません。

〈戦争への道〉

 世界中で戦争が絶えることがありません。ある日突然、他国を攻撃することに徐々に慣れてしまっている世に、強い危惧と恐怖を覚えます。攻撃の先で多くの無辜の人びとの命が奪われ、暮らしを破壊されているのです。しかし、これは平和憲法を持つわたしたちにとって、対岸の火事のようなことではありません。この国は、戦争の出来る国へと、あからさまに動こうとしています。

 現政権は高支持率を背景に憲法改正を明言しています。国家の暴走を抑止する憲法から「国民」を拘束する憲法へと、憲法のあり方を根幹から変えようとする姿勢は、平和憲法の象徴である9条のなし崩し的な解釈変更と言える、殺傷能力のある武器輸出の決定からもうかがい知れます。あるいは、国家情報局を内閣に設置しようとする動きは、戦争に反対する声を封じ込めることを容易にします。

 今こそ、断固として戦争に反対する道を平和の主と共に歩まねばなりません。

〈祈り — それでも、わたしたちは生きる〉

 主よ、傲慢なわたしたちは、あたかもこの世界を支配できる者のように振る舞い、隣人を蹴落とし、友を谷底に突き落とし、仕方ないとうそぶいて、あなたを欺いて生きる者です。しかし、それでもわたしたちは、「あなたのしるし」(詩編65:9)の前であなたによって生かされた命を生きる者です。どうぞ愚かな私たちに、あなたの美しい喜びの歌を響かせてください。

 わたしたちは、あなたの美しい歌を共に歌い、踊り、食し、笑い、泣き、寄り添い、愛することを求めます。不安な夜を過ごす者たちに、あなたのぬくもりが届くように、わたしたちは祈り願います。あなたが必ず、わたしたちの祈りを聞き入れてくださることを信じる者とさせてください。

2026年 平和聖日           

在日大韓基督教会 総会長 張慶泰 
日本基督教団 総会議長 雲然俊美

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