静まって神を知る
静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる。
詩編 46編11節
(聖書協会共同訳)
聖学院大学教授・チャプレン
柳田 洋夫
「静まる」ということ
与えられている御言葉において、聖書協会共同訳で「静まれ」とされているヘブライ語「ラファー」は、新共同訳では「力を捨てよ」と訳されています。そのことが示すように、この言葉には、単なる「口にチャック」とか「慌てない」以上の意味が込められています。それは、おのれのはからいを放棄し、自らを全面的に神に委ねることを私たちに促すものです。そうするとき、神ご自身が私たちの中で語り、働かれていることに気づかされます。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい」(出エジプト14・14)という、イスラエルの民が「静か」どころではいられないはずの状況に対して発せられた言葉も思い起こされます。
逆に言えば、まず私たちが沈黙し、静寂において自らを神に委ね、明け渡すことをしない限り、神について知る「インフォメーション」のいくばくかを仕入れることができたとしても、神を知ることにおいて自らが変えられていく「トランスフォーメーション」については、その糸口すらつかめないということになるでしょう。
静まることの難しさ
それにしても、静まるというのはたいへん難しいことです。それどころか、現代社会は「静まったら負け」という雰囲気に支配されているようにも見受けられます。いっそう厳しさを増す現在の日本において、多くの人々が、「負け組」にならないために、または、ともかくも生きていくために、いつも何かに駆り立てられているような不安と焦燥の日々の中を過ごしています。
SNSがそこに拍車をかけます。それは私たちを瞬時に、容赦なく格付けして、「今のままではだめだ、もっとがんばれ」と、けしかけてきます。たとえ、「そのままのあなたでいいんだよ」「休んでもいいんだよ」などと言われたところで、それも結局のところ「生産性」や「効率」に絡めとられてしまう気休めでしかないことに私たちはうすうす感づいています。
これはまた、「デジタルデトックス」(ネット断ち)などで解決できる問題でもありません。脳科学が示すところによれば、私たちの脳は、何もしていないときにも休むことなく働いています。それは「デフォルト・モード・ネットワーク」(DMN)と呼ばれるもので、そもそもは危険や不測の事態に備えるための働きです。しかし、それが過剰になると、絶えざる未来への不安や過去についての後悔というネガティブ思考の原因となります。心理学的に言うならば、本来は心が危険に直面したときにのみ作動するはずのさまざまな防衛機制がいつの間にか恒常化して、打ち続く不安や「心ここにあらず」という状態を招くことになります。現代は特に、処理しきれない情報が積み重なって、いっそう事態を悪化させます。
そのようにして、私たちの脳内ではいつも大騒ぎが繰り広げられています。そして、そうである限り、神に出会うことは決してできません。なぜなら、神は他ならぬ「静寂」と「今」におられるのに、私たちはそこにいないからです。「お留守」にしているのはいつでも、神ではなく私たちのほうなのです。
「静まって神を知る」ために
それでは、「静まる」ということは、結局のところ無理な相談なのでしょうか。
そんなことはありません。キリスト教には、古代よりの「観想の祈り」の伝統があります。それは、宗教改革が無下に切り捨ててしまった深く豊かな経験と知恵に裏打ちされたものです。「観想」とは、沈黙/静寂(si-lence)において、今を生き、神に近づくための実践のことを言います。その中で、「イエスへの祈り」(Jesus Prayer)が広く伝えられてきました。「主イエス・キリスト、神の子よ、罪人の私を憐れんでください」という祈りです。この祈りをいつでもどこでも繰り返すのです。これは、「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5・17)という勧めにかなうものであり、祈りを「くどくどと述べる」(マタイ6・7)こととは全く異なります。
この祈りは、絶えず動いてやまない思考や感情をそこに集中させます。それは、「あらゆる思惑をとりこにしてキリストに服従」させる(Ⅱコリント10・5)ことでもあります。
その祈りの言葉は次第に沈黙に向かいます。沈黙は言葉の断絶ではなく源泉であり、神はまず私たちをそこに招いておられるからです。
祈りの言葉はイエス・キリストを通して神に受け入れられます。そして、そのようにして、「静まれ、私こそが神であると知れ」という神の言葉が私たちの中で少しずつ育ち、実現していきます。そのことはまた、祈りが礼拝に臨むこころを深め、礼拝が祈りを深めていく相乗効果をもたらします。
「祈る人」となる
それは、フランスの観想者ギュイヨン夫人の言葉を借りるならば、「過去は忘却に、未来は摂理にまかせ、現在は神にゆだね、神の永遠なる秩序を私たちにもたらしてくれる今このときに満足する」ようになることでもあります。
そこにおいて私たちはまた、「祈る人」(homo orans)へと変えられていきます。祈る人にならない限り、私たちは神と隣人から疎外され、いつまでも目先の困難に翻弄され、悩み苦しみと自らとを同一視してしまう者でしかありません。私たちは罪ゆえに、そのことに慣れっこになっていますが、それは人間の本来的あり方とはかけ離れています。そうではなく、静まって神を知り、神を神として崇める(または神が「高められる」)ことによって、私たちもまた本当の「私」へと日々新たにされていくのです。
以上述べたことの詳細については、拙訳で恐縮ですが、カリストス・ウェア『イエスへの祈り』(新教出版社)ならびに、マーティン・レアード『静寂の地へ』(教文館)をぜひご参照いただきたいと思います。「静まって神を知る」ための、古くて新しい道についての、深い、そして実践的な知恵を得ることができるはずです。






