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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

時代を飲み込む「空気」に背を向ける

2025年8月1日

時代を飲み込む「空気」に背を向ける
――「嵐を黙らせるイエス」に寄せて――

35そして、その日に、夕方になると、彼〔=イエス〕は彼ら〔=弟子たち〕に言う、「向こう岸に渡ろうじゃないか」。36すると、彼らは群衆を残して、彼が舟のなかにいるのをそのままに、彼を連れ出す。ほかの舟〔々〕もそれ〔=その舟〕と一緒にいた。37すると、風の大きな嵐〔=大暴風〕が生じ、そして波〔々〕が〔次から次へと〕舟のなかに打ち寄せ、そのためすでに舟を満たすほどであった。38さて、彼〔=イエス〕自身は〔舟の〕後ろ側にいて、枕の上で居眠りをしていた。そこで、彼ら〔=弟子たち〕は彼を起き上がらせ、そして彼に言う、「先生、わたしたちが滅んでしまいそうだっていうのに、あなたは気にならないのですか」。39すると、彼は目を開け、風を叱りつけ、そして海に言った、「黙れ、口を塞いでいろ」。すると、風が止み、そして大きな凪が生じた。40そこで、彼は彼らに言った、「どうしてあなたたちは怖がっているのか。まだ信〔=信頼/信仰〕を持たないのか」。41すると、彼らは大きな恐れを恐れ、そして互いに言った、「いったいこの人は何者なのか。風も海も彼に聞き従うのだから」。
(マルコによる福音書4章35−41節[私訳])

 マルコ福音書4章35−41節はイエスが嵐を黙らせる奇跡物語です。現代人からすれば、奇跡物語は荒唐無稽なお伽話にしか感じられないかもしれませんが、古代世界では聖者や奇跡行為者の伝説として人気を博していたジャンルです。もっとも、現代でも映画、ラノベ、マンガ、アニメなどでも、魔法や魔力を操るヒロインやヒーローが活躍するSFやファンタジーが流行っていますので、奇跡物語はいつの時代にも通じる人気のジャンルだと言えるのかもしれません。
 この物語はマルコ福音書1章21−28節の「会堂で汚れた霊を追放するイエス」の物語と共通する内容で編まれており、ここでは嵐(風や海)は擬人化され、悪霊のように描かれています。この背後には目に見えない力を畏怖する古代人の姿がうかがわれるのですが、神が自然の脅威を黙らせるという描写は旧約聖書(ヘブライ語聖書)にも共通する神の力の顕現でもあり、嵐や波を神が黙らせる描写(詩編89:10、107:29−30)や嵐や波を神が一喝する描写(詩編104:6−7、106:9)も確認できます。
 この物語を読むとき、通常は40節のイエスの決め科白に注目するのですが、今回は38節で弟子たちがイエスを「起こす」さいに使われているἐγείρω(エゲイロー)と39節でイエスが「起きる」さいに使われているδιεγείρω(ディエゲイロー)に着目します。前者のἐγείρω(エゲイロー)は横になっている状態から「起き上がる」ときや座っている状態から「立ち上がる」ときなどに使われ(マルコでは1:31、2:9、11、3:3、4:27、38、5:41、9:27、10:49、22、14:42)、転義的にイエスや死者が「起き上がる=甦る」さいに用いられる術語にもなっています(マルコでは6:14、16、12:26、13:6、14:28、16:6)。後者のδιεγείρω(ディエゲイロー)はマルコではこの1箇所にしか使われておらず、大抵の翻訳では「立ち上がる」や「起き上がる」と訳されているのですが、この語は新約聖書の全用例でも(マルコ4:39、ルカ8:24、ヨハネ6:18、Ⅱペトロ1:13、3:1)「目を覚ます」という意味で用いられており、「立ち上がる」や「起き上がる」という意味では使われてはいません。

 では、ἐγείρω(エゲイロー)とδιεγείρω(ディエゲイロー)の意味の違いに留意して、38−39節を再読してみましょう。湖上の嵐で舟が浸水して焦った弟子たちは38節でイエスを起こします。そこで使われているのはἐγείρω(エゲイロー)ですから、弟子たちはイエスを起き上がらせようとしたわけです(私訳では「起き上がらせ」と訳出)。舟上でよろめく弟子たちがイエスを立ち上がらせることはできませんので、上半身を抱え上げて起こしたといった感じでしょうか。そして、39節でイエスは目を覚ますのですが、そこで使われているのはδιεγείρω(ディエゲイロー)ですから、イエスは立ち上がったり、起き上がったりしたわけではなく、目を覚ましたにすぎません(私訳では「目を開け」と訳出)。ですから、イエスは上半身を起こしたままの状態で目を開け、座ったままの状態で嵐を黙らせたということです。

 したがって、ἐγείρω(エゲイロー)とδιεγείρω(ディエゲイロー)の差異を捉えながらこの物語を再読すると、生命の危機に瀕して必死になっている弟子たちとは対照的に、ほとんどやる気のない状態で――あるいは40節の様子からすると、ほとんど呆れ果てた状態で――「嵐を黙らせるイエス」の姿が浮かんでくるのです。ちなみに、田川建三訳ではイエスが「寝ころんだまま目を覚まして、口だけで風や海にもの申した」とも解説されていますので、もしそうだとすれば、弟子たちとイエスの間の温度差がよりいっそうきわだつことになります。
 今月の聖書の言葉は、確固たるものを見つけたいと右往左往しながら、確かなものなど見つけられずにうつろ(虚/空)なまま揺らぎ続けている日本社会の現実を見据えて担当者が選んだとのことです。確かに、現在の日本社会は湖上の嵐で沈みかけた舟で右往左往する弟子たちの姿に重なります。目に見えない「霊」に支配される古代人の姿と目に見えない「空気」に支配される現代人の姿は同じです。ヘブライ語やギリシャ語では「霊」も「風」も「息」も同じ単語で表します。その意味では見えない「空気」というものは現代の「悪霊」のようなものなのかもしれません。実際にわたしたちは「空気」に怯え、その「空気」に飲み込まれてしまいそうになってしまうのですから。
 現代の日本社会は、かの戦争の反省などどこ吹く「風」といった「日本人ファースト」の「空気」が拡がっています。この「空気」に怯えて暮らさざるを得ない人たちがいる現実は、80年前の日本の「空気」の再来であると同時に、同じ「空気」がガザの人たちの命を奪っていることにつながっていることにも思いを至らせます。イエスは弟子たちが嵐に怯えて一斉に飲み込まれてしまった「空気」など存在しないかのように居眠りを続け、その「空気」の支配を拒み、同じ「空気」に同調させようとする「空気」にさえも背を向けているかのようです。敗戦/戦後80年の猛暑の8月を迎えますが、イエスの姿に倣い、時代を飲み込む「空気」に――たとえ堂々と抵抗できなくとも、居眠りする程度には――背を向けることを一緒にしてはみませんか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)


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