絶望のメシア
――希望と絶望を抱えつつ生きる――
29すると、通りすがりの者たちが頭を振って彼〔=イエス〕を蔑み、そして言った、「おい、神殿をぶっ壊して、三日で建てる〔とほざいた〕野郎、30十字架から降りて、自分で自分を救ってみろ」。31同じように祭司長たちも律法学者たちと一緒になり、嘲って〔仲間内で〕言い合った、「こいつはほかの者らを救ったというのに、自分を救うことはできないのだな。32キリスト〔=メシア〕、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りてみるがよい。〔それを〕見せてくれるなら信じようではないか」。また、彼〔=イエス〕と共に一緒に十字架につけられた者たちも彼を罵った。
(マルコ福音書15章29−32節[私訳])
冒頭の引用はイエスが十字架上で侮蔑される場面です。31節でイエスは「こいつはほかの者らを救ったというのに、自分を救うことはできないのだな」と皮肉たっぷりに言われています。つまり、イエスが誰かを救ったなどというのは単なる夢物語でしかなく、こんなふうに十字架につけられて自分を救うことすらできないのだから、イエスは誰ひとりとして救うことのできない夢想家でしかないと言われているということです。そして、この直後にイエスは「神よ、神よ、どうして俺を棄てるんだ」(34節)と叫び、最後にもう一度「大声を発して息絶えた」(37節)とマルコ福音書は伝えています。ここにいるのは誰ひとり救えない現実を突きつけられ、その生涯の全てを否定し尽くされて息絶えた「絶望のメシア」とでも言えるイエスです。
このように「絶望のメシア」として描かれるイエスの姿は、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルによるパレスティナ・ガザ侵攻が突きつける「ひとつの命」の尊厳にいつの間にか鈍感になってしまっているわたしたちを告発するかのようです。確かに、わたしたちは遠く離れた日本の地から、平和を求めて行動や発言を繰り返したり、「キリスト教の小部屋」の記事を更新したりすることで、「命」に思いを馳せてはいます。しかし、わたしたちは遠くにいるガザの人たちのひとりを「救う」ことができないばかりか、身近なひとりの人を「救う」ことすらできてなどいません。確かに、わたしたちも現実世界の不条理を突きつけられ、失望し、後悔の念に押し潰されてはいるでしょう。しかし、十字架上のイエスのように絶望しているなどとはとても言えません。身近な人が目の前で殺され、自らも命を奪われているガザの人たちのように絶望などしていないのです。
2024年のイースターを迎え、イエスの復活が語られています。イエスの十字架刑とイエスが殺されたという現実があたかも復活の通過点でもあるかのように流されてしまってはいないでしょうか。イエスが絶望の淵で息絶える直前に、誰かを救えるというイエスの希望は絶望となって十字架上のイエスに襲いかかってきたのです。この世界には希望を持つことすら許されない現実があります。希望がない代わりに絶望もない世界です。希望しない代わりに絶望しないのか、希望する代わりに絶望するのか。それでも、この世界の不条理をどうにかしたいと希望してしまうのだとすれば、誰ひとり救えない現実を突きつけられ、絶望してしまわざるをえないとしても、「絶望のメシア」を仰ぐ者として、希望と絶望を抱えつつ、この世界を生きるしかないと今は言いたいのです。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一)