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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4900号】▼伝道委員会▲ 開拓伝道援助金、申請額65%を支出

2019年4月13日

 第41総会期第1回伝道委員会が、3月11〜12日に教団会議室にて行われた。

 招集者の古屋治雄による開会礼拝の後、委員、総幹事および担当幹事が挨拶を交わした。

 委員会組織として、委員長に古屋治雄、書記に村上恵理也が選出された。その他の担当者は以下の通り。宣教委員会・小池正造、古屋。「こころの友」「信徒の友」編集委員・橋本いずみ、村上。農村伝道担当者・柴田もゆる、向井希夫。刑務所伝道担当・小池、古屋。伝道推進室派遣委員・鈴木義嗣。

 石田真一郎幹事より、業務報告及び会計報告、常議員会報告、諸災害救援対策委員会報告を受けた。また2019年度予算案を審議した。

 2018年度後期分貸出金申請については、いずれも申請通りに承認した(江戸川教会、松江教会)。

 2019年度開拓伝道援助金申請については、今回は申請額の65%の援助とした(勿来教会、荒川教会、草加教会、立川からしだね伝道所、鳴海教会、松江教会)。また担当者を定め、各教会・伝道所に問安を行うこととした。開拓伝道援助金の原資は、開拓伝道援助献金と創立記念日献金となる。この度、両献金額と繰り越し残額を鑑み、制度継続可能な範囲で最大限考慮したが、申請額の65%にとどまった。献金額の推移を見ながら、制度そのものの見直しを始める時期にあるとの認識を共有した。

 前期委員会報告及び申し送り事項を確認し、今期委員会の方針及び計画が話し合われた。

 今総会期に行う第12回農村伝道に関する協議会(2019年度開催)、教区伝道委員長会議(2020年度開催)についても候補地をあげて準備を始める。(村上恵理也報)

 3月10日、阿佐ヶ谷教会において江原有輝子宣教師の派遣式が行われた。司式は加藤誠世界宣教委員会幹事、説教は小海光世界宣教委員が担当した。江原宣教師はパラグアイにあるピラポ自由メソジスト酒井兄姉記念教会へ5月初旬に派遣される予定である。

 パラグアイは南米のほぼ中央に位置し、首都はアスンシオン。ピラポは7箇所あると言われている日本人移住地の一つで首都からは車で約8時間の距離にある。日本人の移住は1937年から始まった。

 ピラポ自由メソジスト酒井兄姉記念教会は、40年間の無牧期間を経て2016年から2019年1月まで知花スガ子宣教師が赴任した。土地購入を経て礼拝堂建築が2018年10月から始まり、2019年3月末には完成予定である。江原宣教師には赴任後、新会堂での結婚式、献堂式の奉仕が待っている。

 派遣式には100名以上の阿佐ヶ谷教会員と近隣教会の教師の出席があった。

 支援会長は、古屋治雄牧師(阿佐ヶ谷教会)である。
(加藤 誠報)

 1931年にメソジストの学生センターとして東京・信濃町に建てられた「学生キリスト教友愛会(SCF)」。戦後は教団に編入し、日本基督教団の学生センターとして活動を行い青年伝道の一翼を担ってきた。学生紛争などもあり、その歩みは決して平たんではなかったと聞いている。そして30年前に現在の中野に会館を移転し、同時にアジア学院隣接地に「那須セミナーハウス」を建設し、中野と那須塩原の地で活動を行っている。

 2月23日、その双方30年の歩みを記念して、歴代の主事・学生主事、理事、那須セミナーハウス主事などを招き夕食会を行った。何よりうれしかったのは、この記念会の実施を望んだのが青年たちであって、「30年の節目に、愛するSCFの先輩方にお会いしたい。自分たちの気持ちを伝えたい。先輩方の想いも聞きたい」と企画立案し実施へとつなげてくれた。

 彼らが望んだ「想いの共有と確認」は豊かなもので、参加した30年また50年以上前の同窓生からかつての想いや活動、変わった部分や変わらない想いなどを大いに分かち合うことができた。

 大きな変化としては、現在は学生だけでなく社会人も多いことが驚きをもって聞かれ、変わらないこととして、仲間同士で本気で向き合ったこと、笑顔がたくさん生まれたこと、時にはぶつかったこと、奉仕を大切にしてきたこと、教会を知らないメンバーも多く彼らも大切にされていること、その中から多くの受洗者や教職が輩出されてきたこと、一生の親友・信仰の友・伴侶に巡り合ったこと。東京を離れた方からは「日本全国にSCFのような場が欲しい」といった声も聞かれた。

 記念礼拝では後藤正敏元主事の説教と共に、歴代の主事・学生主事全員から青年伝道の想いや、SCFでの活動や体験が現在の牧会や学校でのチャプレンとしての働きにも活かされていることなども分かち合われた。目の前にいた青年たちのために魂を燃やした出来事を思い出す中で、何人かの教職が言葉を詰まらせる場面もあった。また、秋山徹総幹事より教団の青年伝道の幻も青年たちに共有され、勇気づけられた者も多くあった。

 今回の記念会を通して青年たちは多くを知った。現在までの青年伝道の営みとその実りと困難。バトンをつないできた方々。背後で多くの支えと祈りがあること。日本基督教団唯一の青年センターとして主から託されていること。

 これからもキリスト教主義学校と教会との中間的存在として、またその双方との強い信頼関係の中で「すべての若者のためのセンター」として主の委託に応えてゆきたいと願っている。(野田 沢報)

小田垣雅也氏(無任所教師)
 19年2月21日逝去、89歳。東京都生まれ。61年青山学院大学大学院卒業。同年より青山学院に務め、昭島教会を牧会し、80年まで青山学院に務めた。
 遺族は妻・小田垣央子さん。

藤掛豊盛氏(隠退教師)
 19年2月25日逝去、90歳。東京都生まれ。53年東京神学大学卒業。55年より鎌倉雪ノ下、長崎、霊焔(65年藤沢北)教会を牧会し、95年隠退。
 遺族は妻・藤掛静子さん。

 女子学院は1870年にジュリア・カロゾルスが設立したA六番女学校から始まる学校です。ジュリアは米国長老教会牧師リチャード・ドッジの娘で1845年に生まれました。父ドッジはリンカーンと弁護士時代の友人で、リンカーンが大統領になってからは従軍牧師をしていました。

 ジュリアは1869年4月、米国長老教会伝道局の宣教師として日本に行く予定のクリストファー・カロゾルスとウエスト・ヴァージニア州にて結婚。同年6月には、開通間もない大陸横断鉄道に乗って西海岸に行き、7月初めにサンフランシスコから船で3週間かけ、7月27日に横浜に到着しました。

 実はジュリア自身も日本への伝道の意欲は強かったようで、帰国後に書いた著書『THE SUNRISE KINGDOM』(1879年刊)に次のように書いています。「船上の人々は日本での伝道事業に賛成ではありませんでした。その人たちは、伝道は禁止されていて、宣教師たちは日本へ行く権利も持っていないのだと話していました。でも私たちは別な風に考え、禁教令より、弟子たちに世界中のどこであろうと、行って伝道するよう命じた主に従ったのです。」

 横浜から10月中旬に東京に移動。翌1870年6月に外国人に開放された築地居留地の6番地をクリストファー・カロゾルスとデヴィッド・タムソンの2人の名義で借り、10月に宣教師館は完成しました。この宣教師館でジュリアが英語を女生徒たちに教え始めたのが、女子学院の始まりです。ジュリアはギリシア語・ドイツ語もでき、相当な教養をもった方で、通訳をつけながら自然科学・歴史・生理学・道徳科学・文法・算数・地理・英会話・英作文をほとんど一人で教えていたといいます。

 しかしA六番女学校は、伝道局から正式な任命を受けた学校ではなかったため、1873年には女子教育を目的とした婦人宣教師のケイト・ヤングマンとマリー・パークの2人が来日し、同じ敷地内の別の建物に、B六番女学校が創られました。その後、夫のカロゾルスは在日の宣教師たちと折り合いが悪くなり、ついに1876年に宣教師を辞任。英語の教師として広島へ向かうことになり、ジュリアの学校は閉校せざるを得なくなりました。これを残念に思った夫カロゾルスの弟子の原胤昭がマリア・ツルーを招き、銀座に開校した原女学校に生徒たちは移りました。

 ジュリアは4カ月ほど原女学校で教えた後、広島に行きますが、1877年にはアメリカに帰って実家に戻り、その後アメリカで2冊、日本で1冊本を出版しています。1914年没。

 B六番女学校の教師ヤングマンは「キリストの精神をいかに社会的に実践するか」を自らの課題とし、女学校内にボランティア・グループの好善社を設立しました。この団体は現在も活動を続けています。

 B六番女学校は移転して校名を新栄女学校(グラハム・セミナリー)としました。ここへは1878年に閉校した原女学校から教師と生徒も移りました。その後、千代田区にあった桜井女学校(1876年創立)と合併し、1890年、女子学院となりました。“女子学院”の名前は在京の宣教師の会議で決められたといい、合併することで資金を集中的に投入し、現在の大学レベルの課程を設けることとしました。

 何本かの細い川がまとまって、“女子学院”という1本の太い川となったのです。そして、その中心となったのはマリア・ツルーです。

 ツルーは1874年に来日。「日本の女子教育は日本人の手で」という信念のもと、日本人教師の陰になりながら、原女学校、新栄女学校、桜井女学校、そして女子学院の教師を歴任し、女子学院の土台を築いた人物です。ツルーはまた、日本の女性のために必要な教育は何かを模索し、女学校内に看護婦養成所や幼稚保育科を設立し、働きながら学べる学校も建てました。また地方に分校のような女学校の創立を助け、卒業生を教師として派遣しました。

 2013年、青山霊園にあるツルーの墓地に、案内のプレートを設置しました。そこには、薄くなってきた墓碑に刻まれている英語の碑文と共にツルーの生没年(1840〜1896)、略歴の他、ツルーが1887年に行った次のような講演の言葉の一部を刻みました。「自分のつとめを怠ったり、自分に力があるのに他を助けなかった時、苦痛を感じるような女性になりなさい」。

 この言葉は、現在も女子学院の生徒たちに受け継がれ、伝えられています。

(Kyodan Newsletterより)

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