インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
calendar

マルコによる福音書1・14〜20

2019年4月30日

1:14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

1:15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

1:16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

1:17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

1:18二人はすぐに網を捨てて従った。

1:19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、

1:20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

2019年4月29日

1:1神の子イエス・キリストの福音の初め。

1:2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。

1:3荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、

1:4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

1:5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

1:6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

1:7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

1:8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

1:9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

1:10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

1:11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

1:12それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。

1:13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

2019年4月28日

24:13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

24:14この一切の出来事について話し合っていた。

24:15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

24:16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

24:17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

24:18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

24:19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

24:20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

24:21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

24:22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

24:23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24:24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

24:25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

24:26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

24:27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

24:28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

24:29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

24:30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

24:31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

24:33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

24:34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

24:35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

2019年4月27日

しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」 《ルカによる福音書 15章29~32節》

生と死を考える春

 イースターの喜びを申し上げます。寒かった冬が終わり、陽の光に力強さが感じられる春、草花が緑を増し、鳥のさえずりや花の香りにも生命の躍動を感じます。

 生命が繋がっていくことと、イエス様の復活の命を結び合せ、私たちはイースターを明るく喜ばしい時として過ごします。しかし実のところ、死や復活について私たちは何を知っているでしょうか。

 聖書の中で生き返った人はイエス様だけではありません。私が特に印象深く覚えているのはルカによる福音書15章にある「放蕩息子のたとえ」に登場する放蕩息子です。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」(15・32)。この息子は生命を失ったわけではないにも関わらず「生き返った」と言われることに、復活を考える要点があるように思います。

 ここで考えられている「生」は、すなわち繋がりということです。父親にとって、この息子はどこへ行ったのかもわからず、便りもなく、財産も分けてしまっているため、完全に繋がりが断たれていました。この関係の断絶を、父親は「死」と表現するのです。

 

ある信徒さんのこと

 私の奉仕する教会に、90歳を越えても毎週教会に来られ、自分の役目として受付に座ってくださる方がおられました。一人暮らしで身寄りもなく、生活保護で生活をしておられましたが、徐々に認知症の症状が現れ、ケアマネージャーさんと相談して老人ホームに入ることになりました。超高齢社会の今、ケアマネージャーさんが手を尽くして入れる施設を探してくださり、入居できる施設が見つかったときは、ほっとしました。しかし、すべてのことが済んだ後になって、家族以外は面会できない規則があることがわかりました。施設の管理の都合によって電話も取り次ぐことができないというのです。更には、その人が元気かどうか、いえ、生きているのか、亡くなったのかさえ個人情報保護のために教えることはできないと言われました。

 確かに、思いもよらない犯罪が起こる今の日本において、入居者本人に限らず、施設を利用しておられる方々の安全や、個人情報の保護を考えるとそのような規則が必要なことは理解できます。しかし、一人の人間の社会的な繋がりをこうも一方的に断ち切ってしまうやり方に、何とも言えない非人道的な印象を禁じえませんでした。施設の職員やケースワーカーと何度も交渉しましたが、信徒さんとの繋がりを回復することはかないませんでした。「手紙は受け取る」とのことでしたので、藁にもすがる思いで、お手紙と教会の住所を印刷した返信用の葉書を施設の職員に託しました。

 

復活は出来事

 その人との関係が突然絶たれた喪失感は、愛する家族の死に直面したかの様でした。私はその時、息子との関係の断絶を死と表現した父親の気持ちがわかったような気がしました。肉体の滅びは死の始まりであり、関係の断絶によって死は完成するのです。

 その信徒さんとの関係が断たれたとき、何とかこの繋がりを取り戻すことはできないかと考えました。それは、イエス様が十字架に死に、墓に葬られた後、ひたすらイエス様のお墓に行くことを待っていたマグダラのマリアの心境にも通じるように思います。一方的に関係が断たれ、自分の力ではどうすることもできない無力感と孤独。マリアは生きた心地がしなかったことでしょう。

 復活とは、そのような関係の断絶が回復されることです。だとすると、復活は出来事として両者の間に同時に起こることであり、どちらか一方にのみ起こることではありません。そのことはヨハネ福音書が伝える、復活したイエス様とマリアとの出会いの場面によく表れています。復活のイエス様と出会っていながらそれがイエス様とはわからず、イエス様の「マリア」という呼びかけに対し「先生」と答えることで初めて復活を悟ったマリア。名前を呼ぶことによって繋がりが回復し、マリアの中にイエス様の復活が完成したのです。

 このことは死が肉体の滅びに始まり、関係の断絶によって完成することに対応しています。事実として肉体が生き返るだけでは、復活は完成しないのです。

 

汝殺すなかれ

 死は断絶であり、生は繋がりである。パウロはこのことを部分と体という比喩で表現しています(一コリ12・12~26)。私たちは皆一つの体を構成する部分であって、互いに補い合うからこそ体という全体が生きたものになっています。一つの部分が他の部分を切り捨て、部分でありながら全体になろうとする時、その体は死んでしまいます。内輪で争っていてはその国は成り立たないと言われたイエス様の言葉も思い出されます。

 ある日、私が教会の郵便受けを開けると、一枚の葉書が届いていました。老人ホームの職員に託した、あの葉書です。脳梗塞の後遺症で斜めに偏った震える文字を見た瞬間に、私の中にその人が生き返ったかのような喜びが溢れました。姿を見ることはできないが、確かにある喜びの知らせ。福音とはこういったものなのだと思いました。私はこの生きた繋がりを断たないために、急いでお返事を書きました。

 生きることは繋がることであり、復活は結び直すことです。さらに言うと、分断は殺人です。私には、排他主義と断絶のはびこる今の社会は、危篤状態のように思えます。

 イエス様は、そんな私たちにもまだ望みはあるということを、完全な死からの復活によって示してくださいました。イエス様の復活の喜びに与るために、私たちもまた、断絶を繋がりに変える命の業に参加しなければならないと思います。 (南住吉教会牧師)

 4月2日、教団小会議室において41総会期第1回教師検定委員会が開催された。委員として招集されたのは次の通り。井ノ川勝(招集者)、木村太郎、清藤淳、辻順子、西岡昌一郎、藤盛勇紀、町田さとみ。これに道家紀一担当幹事と中川信明担当職員が加わる。

 はじめに井ノ川委員より、教師検定委員の任務について説明された。本委員会は日本基督教団の教師を立てていくために畏れと祈りとをもって仕えていく委員会である。教規45条に基づき教師検定に関する事項をつかさどり、また教師検定規則2条に示されるように、教師試験は学科試験のみならず、信仰経歴および召命についても問うものであることが説明された。さらに32総会期第5回常議員会の「合同教会のゆたかさの中で、信仰告白を規準として教師検定試験を行う」との議決を踏まえ、教師検定委員会の任務を担っていくことが確認された。

 次に委員会組織として、委員長に井ノ川委員を、書記に清藤委員を選任した。

 第1回委員会では、今総会期はじめて委嘱を受けた委員も多いため、委員会の活動の説明を丁寧に行った。教師検定委員会の方針については、32総会期第5回常議員会議決を含め第40総会期教師検定委員会方針を踏襲することとした。総会期中の委員会日程および教師検定試験の日程の確認をした。それに伴い学科試験問題の担当者の確認を行う。なお試験問題は個人による出題ではなく、委員会全体としての協議を経て試験問題とされることも確認された。

 そのほか、今総会期で担っていく課題として、教師検定規則第4条、第5条の変更の件がある。補教師試験の受験科目の再検討であるが、これについては神学校と面談を重ねる教師委員会、また教師養成制度検討委員会と共にこの課題を担っていくことを確認した。
(清藤 淳報)

PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2026
The United Church of Christ in Japan