キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。 また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。 あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。 わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。 主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。 わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。 真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。 わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。 主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。 あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
ローマの信徒への手紙16章 3-16節
笠岡教会
加藤 隆 牧師
聖書の中に、ローマの信徒への手紙という文章があるんです。
これはパウロという人が、ローマという都市にある教会の人々に書いた手紙なんですね。
このローマの信徒への手紙の最後で、パウロが何度も繰り返している言葉があります。
それは「誰々によろしく」という言葉です。
「よろしく」、そう聞くと、普通の挨拶に聞こえるとおもうんです。
わたしたちも日常、よろしく、という挨拶を良くするとおもいます。
しかし、パウロが今日の聖書で語っている「よろしく」という言葉は、
私たちが日常で使っている、安否の確認とか、挨拶という意味だけの言葉ではないんです。
パウロの使う「よろしく」。それは「シャローム」。
神さまの平和と祝福が、あなたがたの上に豊かにありますように、
という祈りを込めた言葉なんです。
――
パウロは、ローマの教会をまだ訪れたことがありませんでした。
それでも彼は、一人ひとりの名前を知っていたんです。
その未だであったことのない一人ひとりに向かって、
心を込めて「よろしく」。そう語りかけているのです。
その名を挙げられている人たちは、パウロがよろしくと言っている人は
どんな人たちだったでしょうか。
それは教会のために苦労した人、
信仰ゆえに迫害を受け、投獄された人、
奴隷として、あるいは元奴隷として生きながら、
なお神さまを信じ続けてきた人たちでした。
彼らの人生は、決して楽なものではなかった。
信仰を持ったからといって、苦しみが、悩みが、過去の痛みが消えたわけではない。
むしろ、信仰ゆえに、さらに重い苦しみを負うことになった人もいたかもしれない。
それでもパウロは、そうした人たちに向かって「よろしく」と言うんですね。
それは、「大変だったね」とか「よく頑張ったね」という、ねぎらいの意味だけではない。
「神さまがあなたと共におられる。神さまの祝福と恵みの中で、生き続けてほしい」
そのような信仰の告白であり、祈りであるわけです。
――
キリスト教とは、神さまを信じる信仰とは、苦しみのない人生を約束するものではありません。
悩みが消えるわけでも、痛みがなくなるわけでもないわけです。
しかし、決定的に信じることによって変わることがあります。
それは、私たちが負う苦しみは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと結びつけられている、
ということです。
今日の聖書、パウロがよろしくとあいさつした人の中に
ルフォスという人が出てきます。
この人は、キレネ人であるシモンという人の息子であると言われています。
シモンとは何者か。
彼はマルコによる福音書15章に登場します。
イエスさまが十字架につくため、ゴルゴタの丘に向かわれている時
偶然その場に通りがかったことによって、
イエスさまが架けられる十字架を背負い、ゴルゴタの丘まで運んだ人物です。
そのシモンの息子ルフォスによろしく。ということは、
シモンはこの後キリスト者となったということです。
信仰者となった。そしてそれにルフォスも続いた。
シモンは、イエスさまの十字架を偶然にも、担がされることとなりました。
それは突然与えられた苦しみであったわけです。
しかし、その苦しみの道をイエスさまと共に歩んだことが、
彼とその家族を、救いへと導くこととなった。
私たちも同じなんですね。
人生の中で出会う苦しみ、悩み、痛みは、
ただの苦しみ、悩み、痛みでは、ない。
それは、すでにイエスさまが共に担ってくださっている、苦しみです。
そしてその苦しみが、むしろ信仰へと変えられていく。むしろ神の恵みとなっていく。
神さまはですね、
私たちが一人で悩み、苦しみを背負うことを、決して望んではいない。
――
だからこそ教会がある。
教会は、「よろしく」。そう言い合える場所です。
「主の祝福がありますように」
「あなたの歩みに、神の恵みが満ちますように」
そう語り合いながら、苦しみも喜びも分かち合う共同体です。
パウロが語る「キリストのすべての教会が、あなたがたによろしくと言っている」という言葉は、
私たちが一人ではないという、力強い証しなんですね。
これから始まる一か月の歩みの中で、
さまざまな出来事に出会うでしょう。
喜びもあれば、苦しみもあるでしょう。
けれども、そのすべての歩みの中で、
主なる神さまは共にいてくださいます。
そして私たちは、互いに「よろしく」と祝福のあいさつを送りながら、
十字架と復活の希望に生きる者とされているのです。
今までわたしと出会ったすべての人に、
そしてこれから出会うすべての人に
今Youtubeを見ているあなたに
どうぞ、主の平和がありますように。
神の豊かな恵みがありますように。
よろしく。
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
33灯し火を点して隠れた場所[や枡の下]に置く人はいない。そうではなく、燭台の上に〔置く〕。入って来る人たちがその光を見るためである。34身体の灯し火はあなたの目である。あなたの目が澄んでいれば、あなたの全身も明るい。だが、それが悪ければ、あなたの身体も暗い。35だから、あなたの内にある光が闇ではないように注意しなさい。36だから、もしあなたの全身が明るく、暗い部分が少しもないのであれば、灯し火がその輝きであなたを照らすように、全てが明るいであろう。
(ルカによる福音書11章33−36節[私訳])
ルカ福音書11章33−36節はイエスの語録を集めたQ資料に遡源する「光の譬」が重ねて綴られています。元来は33節と34−35節は別々の譬(語録)であり(マタイ福音書5章15節、6章22−23節参照)、そこに36節が結びとして付け加えられています。ですから、ルカは物理的な光の問題から説き起こし(33節)、内面の光こそが重要であると敷衍しつつ(34−35節)、最終的にはその人自身が光となり、全てを照らして明るくするようにというメッセージを伝えているのです(36節)。
33節はせっかくランプに火を点したのに、その明かり(光)を隠してしまうような意味のない行動を取る人など誰もおらず、燭台の上に置いてその明かり(光)を効率的に用いるものであるという当たり前のことが敢えて語られます。このような――譬というよりも――常識的な言葉が最初に置かれているのは、後続の譬を引き立たせるための導入の役割を担っているからだと考えられます。あるいは、後続の34−36節の光の譬の文脈に位置づけて推し量れば、せっかく神が点してくれた明かり(光)を隠してしまうことはせずに、他者のためにその明かり(光)を用いるようにという意味合いが込められているのかもしれません。
34節の「身体の灯し火はあなたの目である」や「あなたの目が澄んでいれば、あなたの全身も明るい」という譬は、快活さや健康を喩えているということもあって、清々しい気持ちになる一方で、身体の譬に引っかかってしまう部分もあります。視覚に障がいのある人が否定されているかのような印象を抱いてしまうからです。そう感じてしまうのは、昨年の健康診断の眼底検査で要精検になり、いよいよ恩師たちと同じように眼疾がやって来たと実感したことも関係しているのかもしれません(精密検査でも最初は引っかかったのですが、結果的には大丈夫でした)。私訳の「目が澄んでいれば」は新共同訳の訳文をそのまま用いたのですが、「それが悪ければ」と私訳した部分は新共同訳では「濁っていれば」と翻訳されています。「目が澄んでいれば」の対義的な表現として「〔目が〕濁っていれば」と翻訳しているのだと思いますが、白内障を指しているわけではありませんから、さすがに訳語としてズレすぎているように思えます。字義的には「澄んでいれば」は健康を表し、「悪ければ」は不健康を意味するのですが、ここではそれが比喩的にも用いられており、倫理的な「善悪」の意味をも併せ持っているようです(嶺重淑)。
35節では倫理的な「善と悪」が「光と闇」と言い換えられ、譬が内面の問題に置き換えられています。要するに、キリスト教徒(クリスチャン)は神から内面に光を与えられているのだから、その「光が闇ではないように注意しなさい」と喚起されているということです。私訳の「光が闇ではないように」は岩波訳=佐藤研訳を用いた直訳であり、通常は「光が闇とならないよう」(田川建三訳)や「光が闇にならないように」(嶺重淑)と翻訳されます。ヘブライ語やアラム語では、繋辞の「〜である」と状態の変化を表す「〜になる」は同じ動詞で表しますので、田川訳や嶺重訳の方が分かりやすいのですが、ここではギリシャ語を直訳しました。因みに、新共同訳は「光が消えていないか」と訳しており、翻訳としては不正確ではあるのですが、譬が言わんとする意味を分かりやすく説明しているようにも感じられます。
36節は一連の光の譬の結びです。36節の全体がルカの編集に帰されるかどうかについては意見が分かれるのですが、「灯し火がその輝きであなたを照らすように」という文面は33−35節ないし33−36節前半の一連の光の譬を有機的に結びつけようとするルカの編集だと考えられます。私訳では、この部分は日本語の語順の関係もあり、途中に組み入れたのですが、ギリシャ語原文では末尾に置かれています。光の譬の冒頭を飾る33節の「灯し火」に36節で再び言及することによって、段落全体がインクルーシオ(囲い込み構造)を形成しており、光を主題とする一連の有機的な譬として提示されているということです。
担当者が今月の聖書テクストとしてルカ福音書11章33−36節を選んだのは、希望を持って生きている人たちが社会において搾取され、疲弊する現実を憂いてのことだそうです。確かに、日本社会では「ひとりひとりが輝く」といったスローガンが掲げられていますが、それは「ひとりひとりが輝いていない」からこそスローガン化する必要があるという皮肉な現実が存在するわけです。しかも、このようなスローガンが掲げられるのは、「ひとりひとりが輝く」ためではなく、その輝きによって他者を照らすためでもなく、企業や国が強くなったり成長したりするためでしかありません。そして、現代の日本が強さや成長を声高に求めざるを得ないのは、日本が衰退の一途を辿り続けているからにほかなりません。
このような日本社会でルカ福音書11章33−36節を読むとき、ルカが求める目が澄んで、全身から輝きを放ち、暗い部分が少しもなく、全てを明るく照らすような人物像と現代の日本社会が課す強さや成長をひたすら求める人物像とを重ね合わせてしまっても仕方がないのかもしれません。しかし、このような理想を体現できる人がどれほどいるでしょうか。結局は生きがいややりがいを搾取され、疲弊し切って、ボロボロになってしまうのです。「ひとりひとりが輝く社会」に潜む闇がわたしたちの内面を蝕んでいくのです。
2月18日の灰の水曜日からレント(受難節)に入りました。イエスの受難は、目が澄んで、全身から輝きを放ち、暗い部分が少しもなく、全てを明るく照らすようなイエスが、目がうつろで、全身が闇に覆われ、全地が闇に包まれるような十字架の上で終焉を迎えます。イエスの受難もまた「ひとりひとりが輝く社会の闇」を映し出しているのかもしれません。
この原稿を書いている最中にアメリカとイスラエルによるイラン侵略が開始しました。為政者によって人の生きがいとやりがいが搾取され、命さえも奪われていることに抗議します。
(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)
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