青年大会開催方法を協議
今総会期宣教委員会は、第1回(4月14日)および第2回(6月25日)委員会を開いた。
青年大会実行委員会についてのみ報告すると、委員長を須賀工委員とすること、また教育・伝道・社会の各常設専門委員会からそれぞれ1名を委員として出すことを決めた。
開催方法については、昨年9月に開催した青年大会が全国6会場に分かれてオンラインでつなぐ形でなされ、参加した青年がそれぞれの地域でつながりを持つなどの成果があったことを評価し、次回となる来年も同様の形で行うことを確認し、日程の調整に入ることとした。また、情報が必ずしも諸教会に届いているとは言えないことから、どのように広がりを作っていったらよいかについて検討している。(小宮山剛報)
機構改定、教団総会の規模縮小について協議
第43総会期第4回常議員会が7月7〜8日、教団会議室にて、開会時常議員30名中29名の出席で開催された。
書記報告では黒田若雄書記が出版局経営改善会議の立ち上げ、各教区総会への問安使派遣等について報告した後、第43回教団総会での3件の発言について触れた。この発言については第1回常議員会にて指摘され、三役に取り扱いが託されていた。今回は発言録を議場に配布して議論し、再び三役持ち帰りとして第5回常議員会で取り扱うとした。これについて議場からは「教会会議において聖霊を否定する発言にその場で対応できなかったことは悔い改めなければならない」、「総会での発言を後日の常議員会で取り上げるのはフェアではない」等の発言が出た。また「教団として信仰告白理解の公式の基準が存在していない。これを好機に建設的な歩みを始めて欲しい」との意見も出た。兵庫教区議長として陪席していた、発言者の1人である森なお教師が説明を申し出たが、雲然俊美議長は「発言者3人全員の意見を聞くべき」として、公平性の面から許可しなかった。
総幹事報告では網中彰子総幹事が教会合併・閉鎖の相談件数が増えていること、能登半島地震の被災教会の現状や募金の状況等について報告した。また部落解放センターで起きたアウティング・人権侵害問題について謝罪した。
教団機構改定検討委員会報告では、目的については43回総会で決議された「全体教会としての一体性」を土台として「将来的に予想される諸教会の教勢および財力低下を見通した教団機構の改定を行うこと」と説明された。その上で教団総会についての検討事項、すなわち全体的に削減に向かうことや議員数の適正規模、推薦議員削減、教規第2条の「各教区は教師、信徒各3名をとり」の条文に対する考え、事務経費について議場に意見を求めた。議場からは「地方の声を届ける仕組みが必要」、「教団総会議員は教区代表ではない」、「沖縄教区不在で決めるべきことではない」等の発言があった。
信仰職制委員会報告では洗礼式、按手礼、准允式執行の「指針」が提示され田邊由起夫委員長は「『口語式文』、『新しい式文』、『試用版』という出版局から出されている三つの式文の使い方にアドバイスするために提示する」と述べた。特に試用版における洗礼式文の「感謝聖別祈祷」の中には、プロテスタント神学では認めていない「水の聖別」(物素エピクレーシス)の祈りが含まれていることを指摘し、できるだけ早く委員会名で「指針」を出すべきであることを告げた。その上で、今常議員会で諸教会に配布することを承認してほしいと述べた。
議場からは「教派的伝統によって式文の扱いは異なるので慎重な話し合いが必要」等の意見が出た。雲然議長は「教団がオーソライズしている式文は口語式文のみ。それ以外のものに常議員会がコメントするのはカテゴリーエラー」と述べた。そして洗礼式執行指針については三役が預かり、按手礼・准允式執行指針については常任常議員会に附託することとなった。(米山恭平報)
出版局
事業縮小、業務体勢改編等の取り組みを進める
一日目の議事終了後、出版局に関する協議会が開催された。飯塚拓也理事が資料を基に現状を報告。冒頭、2024年度決算の貸借対照表において、資産合計2億4014万3217円に対して負債合計が2億5417万2455円となり、1402万9238円の債務超過となったことを告げ、「一刻の猶予もない状況であり、対応が急がれる」と述べた。また、出版局がキリスト教出版業界に与える影響は少なくなく、出版局職員の生活を守る責任も担っていることに触れつつ、「現状のままでは継続は不可能。このような状況になったことを申し訳なく思うが、今年度中の業務縮小を提案し、多くの知恵を集めてよい道を求めたい」と述べた。
また、網中彰子局長代行からは、事業縮小は約4分の1であること、職員が過重労働の状態で励んでいること、職員にも簡単な状況でないことは伝えていること等の報告があった。
二日目、24年度出版局事業報告ならびに決算承認に関する件の中で、髙橋潤理事長は、現状に至った一因として、1966年に出来た出版局規定を見直すことなく続けて来たこと、課長会に経営を含めて全てを委ね、理事会は報告を聞いて承認するだけであったこと等を指摘、理事会が管理責任を充分に果たせなかったことを詫びつつ、「今後、諸教会に迷惑をかけずに、縮小しつつ経営改善案を作成して行けるかどうかが問われている」と述べた。
これらを受けて、「出版局経営改善に関する件」を審議し、危機的状況にある出版局について、「常議員会の責任において、事業縮小、業務態勢改編等の取り組みを進める」ことを決議した。協議の冒頭、雲然俊美議長は、「常議員会の責任」を明確にしたことが重要であることを告げ、「これまで2014年からの赤字を踏まえ2019年から経営改善の取り組みを続けて来たことの背後には職員の努力があったことは忘れてはならない。教団の文書伝道を担う出版業務をどのようにしたら守れるかを検討することが、事業縮小、業務態勢改編の内容」と述べた。また、今後の進め方について、決断を早く行うために、経営改善会議で決定し常議員会に報告をするという形で進めること等を告げた。
(小林信人報)
財務関連
財務関連議案すべて承認
常議員会二日目、財務関連議案を扱い、24年度決算、24年度第2次補正予算、25年度第2次補正予算、各センター決算、出版局・年金局決算等を承認した。
予算決算委員会報告の中で宇田真委員長は、24年度、25年度いずれにおいても、部落解放センターの人件費等に充てるための「繰出金」を200万円増額する補正を行ったことを報告した。このことを受けて、人件費は教団会計本体からではなく、センター会計から支出し、教団は必要に応じて補助金を出す形にすべきとの意見があった。
2024年度決算で、宇田委員長は、「常設委員会費」、「宣教関係費」が、多くの会議がオンラインで行われたことにより予算より大きく下回ったことで、事業活動収支差額は2030万円の差益、経常会計全体では、2241万円の差益となったことを報告した。
24年度部落解放センター決算で、鈴木祈運営委員長は、活動献金は690万円の予算に対して396万円程だったものの、カナダ合同教会からの600万円等指定献金があったこと、支出において、アウティング問題に対応する第三者委員会調査費等により、「委員会費」が予算を大きく上回ったものの赤字決算とはならず、次年度繰越金546万円となったこと等を報告した。
年金局決算報告で、中川義幸局長は、24年度も年4回定例給付を行い、退職年金を1回につき704名程に年間合計4億3699万円を給付したこと、給付が掛金を1億3672万円上回ったものの諸献金9600万円と資産運用益7081万円があり、結果、3385万円の差益で終えたことを報告した。
「伝道資金運用に関する件」では、藤盛勇紀委員長は、例年通りの運用資金規則を提示した上で各教区の負担金(案)を提案、承認した。
「戦後80年にあたって平和を求める祈り」に関する件では、小堀康彦作成委員長が70年の祈りを参考にしながら話し合いを持ったこと、方針として、全てのキリスト者が祈れる祈りを考え、具体的な戦争・内戦については言及しなかったこと等を報告した。文言を加筆、修正した上で承認した。
(新報編集部報)
戦後80年・日韓協約60年を迎えて
6月9日、教団会議室で、第56回在日大韓基督教会と日本基督教団との宣教協力委員会が、「両教会の宣教課題と宣教協力〜戦後80年・日韓協約60年を迎えて」を主題として開催された。
在日大韓基督教会からは、梁栄友総会長、張慶泰副総会長、申大永副総会長、李明忠副書記、趙永哲宣教委員長、金迅野関東地方会長、鄭守煥総幹事、金柄鎬幹事が出席した。
教団からは、三役、宣教委員長、在日韓国朝鮮人連帯特設委員長、総幹事、宣教幹事、職員3名が出席した。
雲然俊美議長の説教による開会礼拝、それぞれの報告がなされた。
昼食後、金迅野関東地方会長より、「悔い改めと『いのち』の『ことば』を軸に」との主題で、講演がなされた。自らを安全な場に置かず自分の問題として考えること(「自分を射抜くこと」)の大切さなどについて、語った。
講演を受けて、久世そらち在日韓国朝鮮人連帯特設委員長から、応答がなされた。近代日本の歩みを辿りながら、教会におけるマイノリティとマジョリティの歪みについて触れ、教会はマイノリティに立つ存在であるのではないかと語った。
毎年、両教団の総会長・議長名で発表している「平和メッセージ」の原案が示され、更に検討していくことになった。
最後に、梁栄友総会長の説教による閉会礼拝を行い、宣教協力委員会を終了した。
(黒田若雄報)
2025年 在日大韓基督教会 日本基督教団 平和メッセージ
2025年 平和聖日
日本基督教団 総会議長 雲然俊美
在日大韓基督教会総会長 梁栄友
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
(ヨハネによる福音書20章19〜20節)
自らが属する国民国家を代表する(represent)のではなく、「平和」が損なわれている世界にあって、イエス・キリストが吹きかけてくださる聖霊を受けた者として、小さくされ深い傷を負い、あるいは命を奪われた人々の声を再−現前する(re-present)者となることを望みます。
この地の表現者が「危機は単層でない」と発言したように、キリスト教界も「混沌とした」状況の中を生きているとの認識のもと、復活のイエス・キリストのからだには十字架の傷がありありと残っていたこと、つまり、復活は、十字架の死を「なかったこと」にしたのではないことをしっかりと胸に抱きつつ、イシューをカタログのように整理することからできるだけ離れて、危機の諸相/諸層に埋め込まれた問いをともに噛み締めたいと思います。
<戦後80年をめぐって>
1945年8月15日から80年の時を迎え、この日の名称が「敗戦/終戦/光復」と異なった言葉で表現されることの意味を、そして、その差異はいったい何によってもたらされたのかを噛み締めることができる私たちでありたいと思います。その際、私たちは、誰の痛みを受け止めたのか。自分の属する共同体や国家を越えて、帝国主義/植民地支配と戦争という暴力を導いた人間の愚かさによって苦悩と痛みを被ったすべての存在の痛みの声を聴く耳は備わっていたのかどうか、この時、深く顧みる者でありたいと思います。
<日韓条約60年をめぐって>
60年前に二つの国民国家の間に締結された条約の意味をともに噛み締めたいと思います。日本は植民地支配の「補償」という言葉を忌避し、「経済支援」という名分にこだわり、韓国は「経済優先」の必要に迫られ、ついには曖昧な妥協に至りました。このことによって、日本は歴史修正の勢いがつき、韓国は独裁政権の正当化に繋がったこと、そして、その後の分断をさらに深刻にしたことの意味を、また、「補償」ではなく「経済支援」という表現に固執したことにより、深い傷を追った個人の痛みが不問に付される道を築いてしまったことの意味を、ともに噛み締めたいと思います。その淵源には、朝鮮半島の北側を無視し、「朝鮮籍」として取り残された存在に対して、「煮て食おうが焼いて食おうが自由」との国家の意志が横たわっていたこと、そして「日韓」の双方にそのことに対する深い悔い改めが不在であったことを、ともに記憶したいと思います。
<この地と彼の地に積み重なった戦争をめぐって>
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた広島の原爆慰霊碑。「ベトナム戦争中に韓国軍が引き起こした虐殺事件に謝罪するため」に済州島の聖フランシスコセンターに建てられたピエタ像。自らを射抜く、この二つの碑が指し示す心の深さを、いま、この時、ともに胸に覚えることができる私たちでありたいと思います。併せて、朝鮮戦争を、この地の経済発展の契機として「特需」と認識してきたことへの深い悔い改めを共有するとともに、パレスティナなどで起きているジェノサイドを結果として見て見ぬふりをしてしまっている私たちが想像力を取り戻し、「世界には自分とは違う痛みがある」ことを痛切に感じることができる者でありたいと思います。
<ヘイトをめぐって>
在日コリアンをめがけたヘイト・スピーチやヘイトクライム、そしてクルド人に向けて最も過激な矛先を向ける敵意が存在します。その敵意を後押しするような国会議員の言説が湧出する危機を、ともに危機と明らかに認識したいと思います。しかるべき法的措置がなされることの働きかけをおこなうとともに、「ともに生きる」ことと、「誰かを排斥する」ことの分岐点はなぜ現れたのか、「ともに生きる」道を歩むキリスト者の道はどのように整えられるべきか、祈りのなかで、ともに模索する私たちでありたいと思います。この道は、いまも暴力にさらされている沖縄の民の苦悩や、原発事故の傷などなかったことにされつつあるように思われる福島の人々の痛みを、「はらわたがちぎれる思い」をもって共感された/「深く憐れまれた」(マタイ9・36)イエス・キリストのからだに連なる道であると信じます。
<貧困と格差、蔓延する不遇感のなかで>
物価の高騰、給与の目減り、就職氷河期を生きた人々の抑圧された生に見られるように、多くの人が、いままでになく明るい明日を予測できない不安を感じながら、「わたしだって可愛そうなんです」とつぶやくような社会に、私たちは生きています。そのなかで、蔓延する「自己責任」という言葉を、人々はいつのまにか内面化し、「ともに生きる」道を自ら遮断しているのではないでしょうか。SNS上に繰り広げられる薄っぺらな記号のような「コトバ」の氾濫のなかで、人々が敵意によって不安を満たすことが起きているとしたら、キリスト者の道は、そのような「コトバ」がもたらす不安の似非の「解消」ではなく、真の「平和」をもたらす、「いのち」の「ことば」を届けることであると信じます。
私たちは、いま、この時、イエス・キリストの洗足の身振り(ヨハネ13)をともに想起したいと思います。生活の中で最も汚れた部位である足を洗うということ。それは、汚れた部位を指摘して非難し分断を深めるのではなく、その部位を洗い合うことによって、自らの汚れに気づき、悔い改めを忘却する身振りを離れて、新たな道に進むからだを整えることと信じます。「日韓」という国民国家のアイデンティティを背負い/背負わされつつも、私たちが背負うべき悔い改めの忘却という責任を引き受け、イエス・キリストの十字架の贖いに値する生を、「いま、ここ」から、再び、新たに、ともに紡いでゆきたいと思います。
ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
26名の新任教師を迎えて新任教師オリエンテーションが開催された。共に学ぶ機会が与えられていることを嬉しく思う。
参加者がリラックスできるよう教師委員の皆様がプログラムの進行など工夫してくださっている。力を抜くのも大切だ。
三日間を通して多くの恵みが与えられた。講演・礼拝・分団等に共通するのは「自分の力で成し遂げるのではなく、神さまの力にお委ねする」ことであったと思う。召命に応えて献身したひとり一人をどうお用いになるか神さまの御手の内にある。
求道中、現役の会社員で教会の役員もしている方の証しを聞いた。「人事を尽くして天命を待つと言うが、クリスチャンは逆だ。天命が決まっているから安心して人事を尽くすことが出来る」。恣意的に何かを進めようとしても主のみこころでなければその計画は滅びる。この信仰を与えられているから大胆に力を尽くすことが出来る。主の十字架の贖いにより罪赦されて、行く道も主が伴い、行先もひとつ。
信徒も教職もふっと自分の力が抜けたところに神さまの力が大いに現れることを経験しているのではないか。歯を食いしばるようなときもある。それでも、親に抱かれて安心して眠る幼子のように限りない平安の中にあることを礼拝で共に確認しながら、遣わされた場所で与えられた働きをしていきたいと願う。
(教団総幹事 網中彰子)
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