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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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2022年 日本基督教団・在日大韓基督教会 平和メッセージ

2022年8月1日

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し…十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙2章14、16節)

 日本基督教団と在日大韓基督教会は、1984年に宣教協約を締結してから38年の歴史を神に導かれて歩んできました。わたしたちを結びあわせる主イエス・キリストは、十字架を通して敵意という隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにしてくださいました。わたしたちは、主イエス・キリストこそ和解と平和の主であることを信じ、2022年の平和メッセージを表明いたします。

<ロシアのウクライナ軍事進攻について>
 去る2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻をしました。このことは、どのような理由をもってしても決して容認できるものではありません。
 特に、この度、ロシアの大統領が核抑止部隊に特別態勢を取るように命じたことについて、世界で唯一の戦争被爆国である日本にあるキリスト教会として、何としても最悪の事態となることを防がなければなりません。
 また、日本では、戦争にかこつけて軍事費を倍増させようとする短絡を問わねばなりません。
 そこでわたしたちは、「悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」(ペトロの手紙一3章11節)との御言葉に聴き従い、ロシアの軍事侵攻を押しとどめることができなかったわたしたち自身の罪を深く悔い改めつつ、ウクライナからのロシア軍の即時撤退を求めつつ、ウクライナとロシアの人々を覚えて共に祈りたいと思います。

<憲法改正の動きについて>
 わたしたちは、「日本国憲法」の基本原則である主権在民、基本的人権、平和主義を護り、国家優先の憲法とする改憲の試み、また戦力保持を是とする改憲の動きに強く反対いたします。
 政府は緊急事態条項について、東日本大震災や新型コロナウイルス感染症への対応が遅れたのは憲法に緊急事態条項がないためだと、その必要性を主張しています。しかし、災害等への対応は、法律の制定や適切な実施で十分な対応が可能であり、憲法を改正する必要性はありません。
 また、この度のロシアのウクライナへの軍事侵攻を受けて、憲法9条を改悪しようとする動きもあります。
 わたしたちは、このような憲法改悪を憂慮し、現憲法を擁護しようとする多くの住民とともに、引き続き、こうした動きに抗うことを表明いたします。

<新型コロナウイルス感染拡大について>
 新型コロナウイルス感染症が世界の脅威となり、日本においても事態が深刻化しています。今この時も、ウイルス感染による痛みや悲しみを覚えておられる方々、悩みと不安の中にある方々の上に、主なる神の慰めと平安をお祈りいたします。
 すでに、各教会では様々な工夫や取り組みが進められています。日本基督教団と在日大韓基督教会の全国の教会が、祈り合い、この大きな試練の中で、神の恵みを受け、喜びに満たされて礼拝をささげ、神の御栄光を現わすことができればと祈ります。

<ヘイトクライムについて>
 日本では外国人に対するヘイトスピーチ、アメリカではアジア系住民へのヘイトクライムが横行しています。
 わたしたちは、すべての人の命を贖うキリストへの信仰に基づき、「すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマの信徒への手紙1218節)との御言葉に従って、差別のない社会が実現することを願い祈り、そのための愛による働きにあずかることを志しています。緊張と不安に満ちた今日の状況の中でこそ、社会の中で弱い立場に置かれた人々の命と平安が守られ、支えられなければなりません。社会の動揺に乗じたあらゆるヘイトに反対し、この社会に生きるすべての人々の人権が守られるべきことを改めて表明します。

<難民・在日外国人の人権について>
 新型コロナウイルス感染拡大により、各教会、学校、施設においても、この状況下での活動に苦闘しておられること、その労力の多大なことは想像に難くありません。日本に在住する外国人、とりわけ移住者や難民申請者たちへの差別が顕在化していることが報じられています。「自粛」を「要請」しながら生存に必要な「保障」を出し渋り、弱くされているところにさらなる圧迫と危機を与え続けるという差別的事態が広がっています。
 また、日本では、ウクライナからの難民を「避難民」と区別しています。「難民」との差別的な処遇との差別がなぜ起きるのでしょうか。
 この状況下で特に根深い差別意識と排外的政策によって引き起こされている出来事のほんの一断片であっても、連続して起こることに対して、それぞれの宣教における祈りと支援の連帯を喚起していきたいと思います。

<貧困の拡大について>
 日本では、貧困が拡大しています。そのために、就職難、不安定雇用の常態化、学校でのいじめ、不登校、職場でのいじめ、嫌がらせが増えています。
 このように、経済格差を理由に、教育格差、学力の格差、意欲の格差が広まっています。無縁社会の拡大が、つながりの格差を生み、人が本来持っている特性や可能性が活かされず、弱者に落とし込まれ、社会から排除されて漂流せざるをえない人々が増えているのです。
 わたしたちの教会は今、地球を席巻する過酷なグローバル経済の下で、激変していく社会にあって、この世に遣わされたキリストの体なる教会として、寄留者を歓待の精神で迎えながら、単にナショナルな教会ではなく、移民排斥・マイノリティ排除に抗して、寄留者が招き入れられる「神の家族」(エフェソの信徒への手紙219節)として改革されて行くことが求められています。それは同時に、教会自体が今から次の時代へと、頭なる主イエス・キリストによって生かされ、遣わされ、用いられる道であるとわたしたちは確信します。

 

2022年8
日本基督教団総会議長  石橋 秀雄
在日大韓基督教会総会長 中江 洋一

 いつの頃からか8月の平和を訴える情景が風物詩にしか感じらない自分がいます。その理由を考えながら、「戦責告白」を読み返しました。やはりこの告白に色濃く残るナショナリズムやジェンダーの視点の欠如が気になったのですが、戦責告白からは風物詩のような雰囲気を感じることはありませんでした。この告白には日本の侵略戦争を正視し、二度と同じ過ちを繰り返してはならないという本気さが溢れ出ているからです。かの戦争から「侵略」の二文字が消え、平和の名の下に戦争が肯定される矛盾、そしてこの矛盾を見過ごしにしてきた自分の在り方が平和を訴える情景を風物詩に感じさせていたようです。ロシアのウクライナ侵略という現実の直中にあって、戦責告白が見据える平和を渇仰する「明日にむかっての決意」を胸に刻みつつ、8月15日の敗戦記念日を迎えたい。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一
※「戦責告白」とは、1967年3月26日のイースターに日本基督教団議長の鈴木正久名で出された「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(https://uccj.org/confession)を表す。

 兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。

「主はわたしの助け手。
わたしは恐れない。
人はわたしに何ができるだろう。」

「「共に生きるために」とは」

聖書個所:「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
ヨハネによる福音書17章20-26節

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アジア学院
校長 荒川 朋子

 みなさん、こんにちは。
 私は今栃木県那須塩原市のアジア学院からお伝えしています。
 私はこの学校の校長の荒川朋子です。

 アジア学院は1973年(昭和48年、今から49年前)にできた小さな学校です。
 敷地は6ヘクタールと広いのですが、学生数は毎年約30名、そこに教職員とボランティアが加わって、約60名ほどから成るコミュニティを作って、4月~12月までの9か月間の農村指導者育成研修を行っています。
 学生は若干名の日本人を除いてすべて、アジア・アフリカなどのいわゆる発展途上国と言われる国々の農村から来ています。この学生たちはその地に根を張り、人々のよりよい暮らしのために献身する農村開発団体、NGO、教会、学校などから送られてきた草の根のリーダーたちです。
 アジア学院の最大の特徴は、皆がこのキャンパスに住んで共同体生活をしながら、自分たちで食べる食べものを有機農法で共に汗して作り、共に分かち合う生活を基盤に研修が営まれていることです。その「共に生きる」毎日の営みが、私たちの学びをより豊かなものにしています。
 ここにある礎石の「共に生きるために」はアジア学院のモットーです。
 「共に生きるために」とはどういうことなのか、今日はそのことについて2つ皆さんにお伝えしたいと思います。

「共に生きるために」が意味するひとつめのことは、

  • 「戦争責任の告白として日々の生活を生き続ける」ということです。

 アジア学院の始まりは、東京町田市にある農村伝道神学校に併設された「東南アジア農村指導者養成所」にあります。そのプログラムは、戦後徐々に復興し経済成長を始めた日本に対し、農村復興のための牧師や信徒の養成が緊急課題となっていた当時の東南アジアのキリスト教諸教会が日本基督教団に対して行った要請がきっかけでした。その要請に応え、1960年に「東南アジア農村指導者養成所」は開設されたのですが、そのプログラムは当初期待されていた牧師や信徒の農業技術の習得以上の使命をすでに負っていたと、当時プログラム開設に関わった人たちは証言しています。つまり「この養成所が「神学校」内に設置されることとなったことの意味は、第二次大戦において日本の諸教会が戦争協力に加担したことに対し、戦争責任を告白し、具体的な贖罪の歩みを始めることにあった」と言って、アジア学院がアジアの人々に対する罪の償いと和解への願いを込めて創られたことを明らかにしています。
 現に、開設してしばらくは、プログラムには、第二次大戦で日本軍によって家族が殺されたり、村が焼き払われたり、心に大きな傷を負った人たちが多く参加しました。まさに戦争の被害者を加害国である日本にお呼びして、毎日を共に生き、神様の創造の業と恵に共にあずかる日々を送ることは、「戦争責任の告白として日々の生活を生き続ける」ことであったのです。

 では戦後生まれの世代にはこのことは関係のないことでしょうか。
 私はそうは思いません。
 私たちは皆その大戦を含む歴史の一部であり、世界のあちこちで起きている暴力の数々も、その延長線上にあったり、何らかの関係を含んでいます。アジア学院にはアフリカや南米からも多くの人たちが参加しますが、彼ら、彼女らの多くは、ヨーロッパの国々がアフリカを植民地として利用し搾取した歴史の犠牲者たちで、それは遠い過去の話ではなく、今もリアルタイムで続く現実であります。そしてその社会経済構造の中に、日本を含むアジアも深く関与しており、私たちの毎日の生活も網の目のように彼らの現実と結びついています。今、ロシアとウクライナの戦争によって、世界中が影響を受けていることからもそのことがよくわかります。私たちは皆、戦争や、人間の悲劇を生む欲や孤独や恐怖の被害者であり、同時に加害者でもあるのです。

 その現実を受け止め、私たちはどう生きていくのか?
 その一つの答えとして、私たちは「共に生きるために」というモットーを与えられたと思っています。

  • 「共に生きるために」のもうひとつの意味は「常に新しく生きる」ということです。アジア学院の創設の中心にいた高見敏弘牧師の著書「土とともに生きる」から一箇所引用します。

     アジア学院はキリスト教の信仰に基づいてたっている学校です。神の愛は限りなく、大いなるものであり、その慈しみは全てを覆うものです。その神の愛によっている学院には世界各地から様々な宗教に属する人々、或いは宗教に属さない人々が来られます。宗教的な経験は何も特別なものではありません。ともに生きていく中で、自分が変わり、また周囲もともに変わっていく。この経験が宗教的な、霊的なものなのです。つまり人間がいのちを分かち合って生きること自体、宗教的なのです。

     学院に集う人々が「共に生きるために」というビジョンのもとに努力を続ける中におのずから宗教的体験があるのです。これには特定の組織化された宗教教団の伝統的経験を超えるもの、根源的、実在的なものがあるのです。三三五五と集まってくる異なる文化の人々が、それぞれの個性を無視したり押さえたりせず、おおらかに分かち合う宗教的体験。この根源的なものがあって初めて、自分が生きてきたそれぞれの宗教の理解がより深く、新しくなることもあるのです。「共に生きる」ことは「常に新しく生きる」ことなのです。学院の毎朝の自由な開かれた礼拝を経験した若者たちが、その経験に感動して、熱心に聖書をひも解いたり、ヒンズーの言葉の深みを求めたりすることは、しばしば起こります。

 このようにアジア学院では、多民族、多文化の人々との生活と、いのちを支える食べもの作る協同活動から多くの刺激やカルチャーショックを受け、ひとりひとりが日々新しくされていきます。でもそれはひとりひとりが勝手な方向に、ばらばらに表面的に変わるのではなく、同じ人間として、より自分らしく、より人間らしく生きられるように、もともとある、すべての人間が秘めている、人間性の最も善いもの、最も美しいものを成長させる変化ではないかと思っています。これを高見は「人が人となるための、真の人間開発だ」と呼びましたが、私はアジア学院で起こる、「常に新しく生きる」ということは、そのことではないかと思っています。そしてそれが「共に生きるために」必要なことであり、また「共に生きる」こと、そのものであると思っています。
 宗教や民族の壁を越えた人と人との「生きた」対話や、いのちを支える食べものを自然と共に、仲間と力を合わせて作り、分かち合う体験は、私たちの鈍っている様々な感覚を呼び覚まし、研ぎ澄ませます。そして私たちが、それぞれの隣人と、自然と、神との新しい関係を作ることを迫ってくるのです。 

 

 

動画挿入歌 アジア学院テーマソング 『Take My Hand』 作詞・作曲 Christpher Grundy

I’m calling to the country folks who work upon the land
To come and share the vision we have shaped into a plan
Side by side we’ll find a life of strength and dignity
Until the day we all can feed ourselves we never will be free

Take my hand which has labored in the soil
Together we will stand for together we must toil
To build a world where hunger will not keep the people chained
To build a world that will still bear fruit tomorrow

I’m calling to the rich folks in their mansions down the road
To come and see the backs that break while carrying your load
Please come let us show you how the chemicals you send
Kill the earth which someday must support your children

Take my hand which has labored in the soil
Together we will stand for together we must toil
To build a world where hunger will not keep the people chained
To build a world that will still bear fruit tomorrow

I’m calling to the heavens to the power there above
To thank you for the harvest given freely through your love
Grant us, courage, strength and hope throughout the coming year
For the sake of all the planet, Lord, I hope that you can hear me singing

Take my hand which has labored in the soil
Together we will stand for together we must toil
To build a world where hunger will not keep the people chained
To build a world that will still bear fruit tomorrow

Take my hand which has labored in the soil
Together we will stand for together we must toil
To build a world where hunger will not keep the people chained
To build a world that will still bear fruit tomorrow

To build a world that will still bear fruit tomorrow

〈日本語訳〉
農村の地で働く人々に私は呼びかける
私たちとビジョンを分かち合いにおいでなさい、と
強く、尊厳あるいのちを一緒に探そう
皆が自分の食べるものをつくることができる
その日まで 私たちは決して自由になれはしない

土とともに働くこの手をほら、握って
共に立ち、共に力を注ごう
人が飢えに縛り付けられることのない世界を
明日も実を結ぶ世界を築くために

道の向こうの裕福な人々に私は呼びかける
あなたの荷を負って押しつぶされた背中を
見においでなさい、と
どうか来てください、あなたに教えたいから
あなたの送ってきた農薬がどんなふうに
地球を汚しているのか
いつかあなたの子供たちをも支えるこの地球を

土とともに働くこの手をほら、握って
共に立ち、共に力を注ごう
人が飢えに縛り付けられることのない世界を
明日も実を結ぶ世界を築くために

天にある力に私は呼びかける
あなたの愛によって惜しみなく与えられた収穫に
感謝をささげるために
これからの1年も勇気、力、希望を与えてください
この地球全体のために、主よ
私の歌声があなたに届きますように

土とともに働くこの手をほら、握って
共に立ち、共に力を注ごう
人が飢えに縛り付けられることのない世界を
明日も実を結ぶ世界を築くために

土とともに働くこの手をほら、握って
共に立ち、共に力を注ごう
人が飢えに縛り付けられることのない世界を
明日も実を結ぶ世界を築くために

明日も実を結ぶ世界を築くために

2022年7月31日
わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。
救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
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