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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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列王記下22 ・3~20

2023年6月5日

ヨシヤ王の治世第十八年に、王はメシュラムの孫でアツァルヤの子である書記官シャファンを主の神殿に遣わして言った。 「大祭司ヒルキヤのもとに上り、主の神殿に納められた献金、すなわち入り口を守る者たちが民から集めたものを集計させなさい。 それを主の神殿の責任を負っている工事担当者の手に渡し、更に神殿の破損を修理するために主の神殿にいる工事担当者に渡しなさい。 すなわち職人、建築作業員、石工に渡し、神殿修理のための木材や切り石を買わせなさい。 ただし、彼らは忠実に仕事をしているから、彼らに渡した金の監査は必要ではない。」
 そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と言った。ヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。 書記官シャファンは王のもとに来て、王に報告した。「僕どもは神殿にあった献金を取り出して、主の神殿の責任を負っている工事担当者の手に渡しました。」 更に書記官シャファンは王に、「祭司ヒルキヤがわたしに一つの書を渡しました」と告げ、王の前でその書を読み上げた。 王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた。 王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記官シャファン、王の家臣アサヤにこう命じた。 「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」
 祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは女預言者フルダのもとに行った。彼女はハルハスの孫でティクワの子である衣装係シャルムの妻で、エルサレムのミシュネ地区に住んでいた。彼らが彼女に話し聞かせると、 彼女は答えた。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたたちをわたしのもとに遣わした者に言いなさい。 主はこう言われる。見よ、わたしはユダの王が読んだこの書のすべての言葉のとおりに、この所とその住民に災いをくだす。 彼らがわたしを捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったすべてのものによってわたしを怒らせたために、わたしの怒りはこの所に向かって燃え上がり、消えることはない。 主の心を尋ねるためにあなたたちを遣わしたユダの王にこう言いなさい。あなたが聞いた言葉について、イスラエルの神、主はこう言われる。 わたしがこの所とその住民につき、それが荒れ果て呪われたものとなると言ったのを聞いて、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。 それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない。』」彼らはこれを王に報告した。

2023年6月4日

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
終わりの時に、
わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、
そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。
上では、天に不思議な業を、
下では、地に徴を示そう。
血と火と立ちこめる煙が、それだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、
太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 ダビデは、イエスについてこう言っています。
『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。
主がわたしの右におられるので、
わたしは決して動揺しない。
だから、わたしの心は楽しみ、
舌は喜びたたえる。
体も希望のうちに生きるであろう。
あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
あなたの聖なる者を
朽ち果てるままにしておかれない。
あなたは、命に至る道をわたしに示し、
御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 そして、キリストの復活について前もって知り、
『彼は陰府に捨てておかれず、
その体は朽ち果てることがない』
と語りました。 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着け。
わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするときまで。」』
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

2023年6月3日

 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

2023年6月2日

 そして今、わたしの僕ヤコブよ
わたしの選んだイスラエルよ、聞け。
 あなたを造り、母の胎内に形づくり
あなたを助ける主は、こう言われる。
恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。
わたしの選んだエシュルンよ。
 わたしは乾いている地に水を注ぎ
乾いた土地に流れを与える。
あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
あなたの末にわたしの祝福を与える。
 彼らは草の生い茂る中に芽生え
水のほとりの柳のように育つ。
 ある者は「わたしは主のもの」と言い
ある者はヤコブの名を名乗り
またある者は手に「主のもの」と記し
「イスラエル」をその名とする。
 イスラエルの王である主
イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。
わたしは初めであり、終わりである。
わたしをおいて神はない。
 だれか、わたしに並ぶ者がいるなら
声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。
わたしがとこしえの民としるしを定めた日から
来るべきことにいたるまでを告げてみよ。
 恐れるな、おびえるな。
既にわたしはあなたに聞かせ
告げてきたではないか。
あなたたちはわたしの証人ではないか。
わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。
わたしはそれを知らない。

2023年6月1日

「出会い、招かれる」

聖書個所:イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
ルカによる福音書 5章1~11
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日本基督教団 下ノ橋教会
牧師 松浦裕介

 岩手県盛岡市にあります、下ノ橋教会牧師の松浦と申します。

 聖書の主な舞台となった古代イスラエルは、私が現在住む岩手県とそれほど変わらない広さであると言われていますが、イエスが最初の弟子たちと出会われたのは都エルサレムから百数十キロ北へ行ったガリラヤの地、ゲネサレト湖畔でした。後に弟子となる漁師たちは網の手入れをしています。夜通し苦労して漁をしたにもかかわらず、何も捕れなかった。期待した成果はなく、岸に戻って網を洗い手入れを始める。愚痴の一つや二つも出たことでしょうか、あるいは少しばかり重苦しい空気が漂っていたでしょうか。いずれにしても夜通し漁をしても何も取ることが出来なかったというのは、当時の漁師達のある種の日常なのかもしれません。イエスは私たちの日常の有り様の様々な現実の中に姿を現されるのです。
 さて、主イエスはどのような御方か、私たちはその姿、イメージについて様々に思い浮かべますし、思い浮かべることが出来るのですが、聖書の御言葉に日々聞く中で強く思わされるのは、私たちが生きる、それぞれの、多様な姿、その只中に立たれる方であるということです。主イエスは、何も私たちが特別な状況に直面している時だけではありません。ありふれた日常、私たちが事がうまくいっていると感じている時も、行き詰まりを感じている時も、様々な時、様々な場に共におられ、出会ってくださる方であり、そして主イエスは、私たちの日々の歩みの中に招きをお与えくださいます。
 今日の聖書の箇所で、イエスはペトロたちと出会った最初、二つの依頼をしました。舟で岸からこぎ出すように、そして網を降ろして漁をするように、この二つです。最初に依頼で「こっちは疲れているんだから無理を言わないでくれ」とは言わなかったペトロでありますが、2度目は少しばかりの抵抗をします。ルカによる福音書で最初に弟子が招かれる出来事に際して、若干の抵抗の言葉が語られているということは興味深く、そしてこの物語の中に、イエスの招きに関する、私たち人間の価値観を超えた豊かさがあるように思うのです。
 弟子として招かれるにあたって、能力やあるべき姿などは問われていません。主イエスが御自身の活動を始めるにあたり、その活動に直接役立つと思われる力をイエスは求めておられません。さらに、軽微ではあるものの、イエスの命に対して抵抗が試みられる。そのペトロたちをイエスは招き入れた。私たちの常識を越える形での招きが一つここにあります。
 イエスはペトロに言われました「人間をとる漁師に」と。『聖書協会共同訳』の注によると、この「人間をとる漁師に」という言葉は『生け捕りにする者』と直訳することができるそうです。物騒な表現かもしれません。しかし、この言葉は漁師であるペトロたちの日常にかなった表現でしょう。ペトロが弟子にして欲しいと願い出たのをイエスが了承したのではなく、イエスの方から出会ってくださり、ペトロを招く。そしてペトロがこれまで生きてきたその現場に適う表現でペトロを招き入れるのです。それぞれの日常の傍らに立たれるイエスは、その一人の人と同じ目線で語りかけられます。そしてこのイエスの招きを受け、ペトロは最初イエスのことを「先生」と呼んでいたのが、「主よ」と変わっていきます。主イエスがこの私と出会って下さり、招かれる。私たちの思いを超えて招きを示してくださる主イエスとの出会いが一人一人に与えられていきます。
 教会では、それぞれの地にあって、多様な現実の中に生きている一人一人が、1週間の歩みをなし、神様からの招きを受けて賛美をし、祈りをあわせ、御言葉を分かち合いますが、一つの教会を見ても、集う一人一人の姿は様々であります。一人一人に与えられた賜物、それぞれが持つ課題、喜びや悲しみ、日々の生活の有り様等々・・・、異なる多様な一人一人が招かれているところに教会の豊かさがあります。その多様な一人一人の日常の只中に、この私が生きる現実の傍らに主イエスは共に立ち、共に座し、喜び、涙し、すべてを共に負ってくださりながら招きを与えてくださることを、今日の箇所を通して心に刻みたいと願います。様々な地に多様な姿で生きる一人一人が生きるそのところに主イエスが共にいてくださることを分かち合い、一人一人が主の招きを受けている恵みを喜び合いたいと思います。

 主イエスは、私たちの今、その所での生活の場に主イエスがおられる。そしてこの私に主は語りかけて下さいます。「あなたが必要なのだ」と。この招きを受け、それぞれの形で招きに応える、その歩みを共に始めてまいりましょう。

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