▼常任常議員会▲
出版局経営責任者としての自覚必要
常任常議員会が12月4日、教団会議室で行われた。第8回常議員会で、出版局の将来検討の協議を進める議案を可決したことを受けてのもの。
出版局将来検討に関する件では、雲然俊美議長が、本件は、出版局の運営のあり方につき、成り立ち、歴史を振り返りつつ、将来像を明確にすることが目的と述べ、課題を3点(①位置づけと役割の確認、②経営責任者の明確化、③働き方に即した就業規則、給与体系の検討)にまとめた。
協議の中で、位置づけ、役割については、出版局が、教団の文書伝道を担うものであり、教団としてどのような書籍を出したいかを提案して行くことの必然性が指摘された他、事業規模が現在の教団からすると大きくなりつつあるとの意見があった。経営責任については、出版局が、讃美歌頒布の必要性から教団が法人規則30条によって始めたもので、経営責任は教団(常議員会・責任役員会)にあるとの自覚を持たなければならないことが共有された。
出版局の収益により教団が支えられていた時代があることについて、収入に見合わない支出を続けていたことは認めざるを得ないとの意見があった。前総会期に出された「出版局将来検討委員会答申」については、踏まえるべき資料とすることを確認。答申が出版局の株式会社化に言及していることについては、実現性は乏しいとの意見があった。
機構改定の検討に関する件では、雲然議長が課題を述べる中で、総会議員・常議員数の削減等、「教規変更を伴う改定は難しい」との見解を示した。また、委員会の適正化から手をつけ、一体性をもって教団の形成を目指すことを提案した。
協議の中では、「財政問題と機構改定を別にすべき」、「何らかの区切りをつけて、再スタートすべき」等の意見もあった。雲然議長は、「委員会の見直しという点だけでも、常議員会で一致できれば」と述べた。
常議員会への出席に関する件では、雲然議長は、常議員は会場に集まるものとし、事前通知により陪席者としてのオンライン参加も可とすること等を提案した。更に練らなければならない点があることを確認した上で、2月の常議員会で、三役から「申し合わせ」として提案することとした。
(新報編集部報)
▼宣教師人事・支援委員会▲
受入宣教師の査証申請について協議
9月12日、第2回宣教師人事・支援委員会が教団会議室で開かれた。今回は主に、受入宣教師の査証申請について協議した。現在、アジア学院の一部の受入宣教師について、日本基督教団が査証申請を行っているが、アジア学院と小海光宣教師人事委員長、網中彰子総幹事と打ち合わせをし、教団が査証申請する場合は、より詳細に受入宣教師の状況を双方が把握しながら進めていくことが確認された。
また、教団と宣教協約を結んでいるインドネシアのミナハサ福音キリスト教会に所属する教会が、関東教区と中部教区に立てられている。直接ここに派遣される宣教師についても、教団が査証申請しているが、日本にあるミナハサ福音キリスト教会の教会は教団に属していないために、査証申請するにあたり、これまで宣教師人事委員会の承認を得てこなかった。しかし教団が査証申請するにあたり責任を明確にするために、直接、ミナハサ福音キリスト教会に派遣される宣教師については、教区付きの教団受入宣教師として教団が査証申請をすることとした。既に、関東教区、中部教区からも了解を得て、今回、ライアン・コランタン氏が受入宣教師として承認された。そのほか、1名の受入宣教師の承認、1名の退任を承認した。
続いて12月22日に第3回委員会がオンラインで開かれた。アジア学院からの受入宣教師の承認、及び、現在、北海教区に派遣されている台湾基督長老教会のディヴァン・スクルマン宣教師の任期延長を承認し、同時に、スクルマン宣教師の後任についても台湾基督長老教会、北海教区、台湾協約委員会と協力しながら進めていくことが確認された。また、2024年度から遺愛中学高等学校に派遣予定の宣教師とオンラインで面接をすることとした。
なお、新型コロナ明けで査証申請が大変混雑しており、現在、2名の宣教師の査証が5ヶ月近く滞っている状況である。委員会では状況に鑑みて承認前に査証申請することを了解しているが、今後は場合によっては来日キャンセルとなるケースも出てくるであろうと認識している。
(星山京子報)
お知らせ
「教団新報」今号を5011・12合併号とし、次号は2024年1月27日に発行します。また、教団事務局・出版局、年金局は12月29日から1月5日まで、休業します。
総幹事 網中彰子
教団新報よりお知らせ
これまで「教団新報」は第三種郵便に、隔週土曜日発行と登録していましたが、2024年1月より毎月第4土曜日発行とし、月2回発行する場合は増刊号とします。尚、教団公式ホームページの新着情報もご活用ください。
賢者の贈りもの
マタイによる福音書2章1〜12節
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
東京神学大学学長
神代真砂実
愚かで幼稚な賢者
今日どれだけ読まれているのかわかりませんが、O・ヘンリというアメリカの作家が1905年に書いた有名な短編小説に「賢者の贈りもの」というのがあります。
ニューヨークの片隅のアパートに、ジムとデラという若い夫婦が住んでいました。クリスマス・イヴの日、デラはジムのためにプレゼントを買おうとするのですが、何しろ貧しくて、どうにもなりません。何とか愛する夫にふさわしいプレゼントをと考えたデラは、自分の髪の毛(それは、膝まで届くほどに長い、量も色も素晴らしい髪で、この夫婦の自慢の種の一つでした)をかつら屋に売って、お金を作り、ジムのためにプレゼントを買います。買ったプレゼントというのは、ジムとデラのもう一つの自慢の種であるジムの金の懐中時計(ジムの家に代々伝わってきたもの)につけるプラチナの鎖でした。
夕方、仕事から帰ってきたジムはデラを見て、奇妙な表情を浮かべます。プレゼントを買うために髪の毛を売ったと説明するデラに、ジムは自分の買ってきたプレゼントを渡します。それは宝石をちりばめた見事な櫛のセットでした。今は失われてしまったデラの髪にぴったりのものでした。そして、その櫛を買うために、あの懐中時計を売ってしまったとジムは言います。−これが「賢者の贈りもの」という話です。
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既に「賢者の贈りもの」という題そのものが、与えられている聖書の箇所との結びつきを示しています。ここで言う「賢者」というのは、元の題名から、すぐにわかりますが、あの「東の方から」来た「占星術の学者たち」のことです。ですから、「賢者の贈りもの」というのは、占星術の学者たちが献げた「黄金・乳香・没薬」のことです。
O・ヘンリは、この話をこう締め括っています。「彼ら[ジムとデラ、あるいは、この二人のような人たち]こそ東方の賢者なのだ」(引用は全て新潮文庫版から)。つまり、あの、ジムとデラの夫婦こそが、また、そのような人たちこそが「賢者(学者)」と呼ばれるにふさわしい人々なのだと言うのです。
ジムとデラのことを作者は「わが家の一番大事な宝物を、最も賢くない方法で、たがいに犠牲にした、アパートに住む二人の愚かな幼稚な人たち」と呼んでいます。けれども、その「愚かな幼稚な人たち」こそが、あの学者たちにも勝って「最も賢い」と言うのです。一体、どうしてなのでしょうか。
作者は学者たちの贈り物について、賢い人々が選んだものであるから、賢く考えられたものであったろうということを言っています。「おそらく、重複した場合には、他のものと交換できるという特典を持っていたであろう」と言います。しかし、ジムとデラの贈り物は交換できません。贈られた物は、お互いにとって明らかに最もふさわしいものであり、また、それぞれに自分のいちばん大切なものを犠牲にして、手に入れたものであるからです。ジムとデラが学者たちに勝るところがあるとすれば、それは、二人の贈り物がかけがえのないものであって、取り替えられないものであったということです。
愛から出る正しい愚かさ
ここから、二つ目のこととして、さらに、こう言えるでしょう。ジムとデラのしたことは、クリスマスの出来事を最もよく映し出すものであった、と。
ジムとデラは、「わが家の一番大事な宝物を、最も賢くない方法で、たがいに犠牲にした、アパートに住む二人の愚かな幼稚な人たち」でした。しかし、クリスマスは、神が「一番大事な御子を、最も賢くない方法で、犠牲に」された出来事であったのではないでしょうか。
父なる神は、いちばん大事なもの、愛する独り子を犠牲にされます。クリスマスは、主イエスの地上での生涯の出発点であって、十字架は、まだ先のことであると思われます。しかし、既に第1章の21節で、夫ヨセフに向けて天使が、生まれてくる子供を「イエス」と名づけるようにと言ったとき、天使は「この子は自分の民を罪から救う」とも言いました。生まれる前から、十字架の死を通して、私たち人間を罪から救うことが定められていたのが、主イエスなのです。ですから、クリスマスが既に神様が「一番大事な御子を、最も賢くない方法で、犠牲に」された出来事であったのです。
それは私たち人間の目には、愚かにしか見えないものでしょう。自分を犠牲にしなくても、神なら、もっと別な仕方で人間を救うこともできるのではないかと考えるかもしれません。それにもかかわらず、この愚かさは正しいと言わなければなりません。愛から出ているからです。ちょうど、ジムとデラが、互いに深く愛し合っていたので、それぞれが、自分の持つ一番よいものを犠牲にして、いちばん相手にふさわしいものを与えようとしたように、神様は、私たち人間を深く愛しておられるので、いちばん大切な御子をさえ惜しまれずに、犠牲として、私たちが最も必要としている、罪からの救い、神様とのかかわりを与えて下さったのです。そのようにして、神様の愛は、私たち一人一人に向けられています。
献げられる者となる
それでは、私たちは、御子を頂いた者として、何を献げたらよいのでしょうか。自分の一番たいせつなものを献げるというのは、何度もできることではありません。さらに言えば、神様と私たちとのかかわりは、ジムとデラのように、釣り合ったものではありません。神様がして下さった、御子という贈り物に釣り合うような、私たちの、神様への献げ物などはないのです。
しかし、神様の愛に応えるには、まず、神様を愛するのが第一であるに違いありません。そして、それがさらに具体的な形に表されるのであれば、それが、どのような形であるにしても、私たちが恵みに応えていこうとする限りは、その献げものは正しいと言えるでしょう。
クリスマスは、神様が私たち人間への愛のゆえに、自らの最も大切なものを犠牲にされた出来事です。そして、それを受け入れ、信じる私たちにとってふさわしいのは、自分自身もまた、何かを献げられる者となることではないでしょうか。そのときには、たとえジムとデラにはかなわなくても、私たちも「賢者」となるでしょう。
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて解放し、
我らのために救いの角を、
僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して
語られたとおりに。
それは、我らの敵、
すべて我らを憎む者の手からの救い。
主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
こうして我らは、
敵の手から救われ、
恐れなく主に仕える、
生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。」
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。
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