★日本基督教団年鑑二〇〇六年版の追録を発行いたしました。
教団年鑑二〇〇六年版において、ミスが多少あったことについてお詫び申し上げます。そこで当年鑑の正誤表を内容とする追録を、年鑑をご購入された方々に差し上げます。年鑑を購入された書店、もしくは教団事務局総務部年鑑係(☎03-3202-0541)に直接お申し込みください。
なお、統計一覧の一部訂正が追録から漏れてしまいましたので、ここに記します。
▼神奈川教区経常収入計=一、〇七五、九九九。同平均=一〇、一五一。
▼全国経常収入計=一二、九〇二、〇〇八。同平均=七、八三四。
以前より申請が出ていた全国教会幼稚園連絡会(全教幼)の自主活動団体認定が、一一月七-八日開催の宣教委員会で承認された。前総会期からの継続審議であったが、慎重な審議の末、今日に至った。
また、全教幼は一一月一四-一五日に教区連絡会と総会とを行ったが、その席上に岩﨑隆宣教委員長が訪れ、直接、認定を報告し、認定証を授与した。
自主活動団体とは、教規四十一条④に規定されている教団の機関であり、宣教委員会の目的を側面から支える団体とされている。全国教会婦人会連合が既に自主活動団体として活動している。
全教幼は教団年鑑に出ている約四百の教会関係幼稚園の連絡体であり、教会関係幼稚園が各個教会の宣教のわざとして存立しているという意味においても、教団の自主活動団体として位置づけられるべきものであった。今後、教団のなかで明確な位置を持つことにより、より宣教の課題としての幼稚園のわざに仕えるものと期待される。
そもそも全教幼は、機構改正以前の幼稚園委員会に遡ることが出来、むしろ、今日まで自主活動団体でなかった方が不思議であるが、教区連絡会の出席者たちからも、さまざまな視点で新たな使命が確認され、また期待が寄せられた。
一方で、教会幼稚園に関する取り組みは教区によってもさまざまで、今後、教区との密接な連絡の必要性も望まれるところである。
なお、全教幼の一番、近い活動は、六月五-七日の園長・設置者研修会、三崎教会牧師で三浦市教育委員長の生野隆彦氏を講師に、軽井沢で開催される予定。皆さんのご出席を! 夏の教諭研修会もご期待を!
(岸憲秀報)
今、地方教会の時代
長門教会牧師 稲垣 裕一
今春、山陰地方と東京を走り続けていた、特急寝台列車が廃止された。私の街でも、昨年、唯一の特急列車が廃止になっている。
今、地方の過疎化が進んでいる。半世紀後に、教団の教会は地方にどれだけの数が残っているだろうか。地方教会の牧師たちは、緊張感をもちながら伝道している。
「長門教会に行かないか」というお誘いを受けたのは八年前だった。いくつかの候補があり、都会の教会も含まれていた。その中で、山陰の小さな街の教会に赴任することにはためらいがあった。
条件は、伝道することと当時の半分の謝儀。退職金はない。教会員は一八人。平均年齢は六〇代で給与所得者は二名である。伝道者は遣わされた地へ行くが、家族に苦労をかけることは目に見える。
「大丈夫。飢え死にはしないから」私の授洗者である大澤務牧師が開拓伝道に赴く時に、そう励まされたと聞く。
神様は意地悪だ。私が迷っていると、いつも何か意味ありげな言葉を思い出させる。初任地の高原教会に赴く時もそうだった。
お見合い説教に出掛けたのは、家族と一緒だった。教会は待っていた。教会員の宿の提供のお申し出を丁重にお断りし、ひなびた温泉宿に泊まった。夜中、ふと目が覚め窓辺に立つと、山のような島影を背景に、湾に明るい月影が浮かんでいた。妻と、任地のことで語り合ったことを覚えている。
封建的な風土の山陰地方で伝道することは難しいと言われるが、教会を守り信仰に生きることも難しい。教会には苦労を重ねて来た人たちが残っていた。新築の小さな牧師館が用意され、三人家族が住むには充分。驚いたが、私も牧師館建築の際に献金をしていた。
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ六章二一節)。
田舎に都会の豪華さはないが、都会にないものがあるし、富に変えられないものがあるだろう。私はみ旨と信じ、妻と祈りながら長門教会に赴任した。
地方教会の課題の一つは、牧師がどれだけ長く留まれるかだろう。牧師は、教会を愛し街を愛する。田舎の近しい人間関係の中であの牧師があの教会にいるということは、信徒が教会に行き続けることと同様に大きな意味がある。
そして、主日礼拝を守り、定期集会に出席し、教会のつながりも強くされていく。ご高齢の方の所には訪問する。教会の足腰が鍛えられることを願って止まない。
私は、ここに来て、気負いが取れたような気がする。陰口愛好会もないことはないが、全体的に話し合いながら進んでいる。主にお任せすることが大事だからだ。
長門教会は、山陰西分区の四教会の交流の中で励まされ、西中国教区の教職謝儀互助に支えられている。長い無牧の期間を経験しても立ち続けているのだ。
妻の誕生日だった。保育園料の足しにと妻が早朝のアルバイトをして病院に運ばれ、緊急手術を受けた。過労だった。奉仕を捧げるままにさせておいた私の責任だった。しかしその後、役員の方が呼びかけ会堂掃除の奉仕が始まった。
うちの教会はよく笑う。先日も、能和弘幸さん(小樽聖十字教会/小栗昭夫牧師)が客員になったと喜び祝った。教会は単身赴任の受け皿となる経験をした。主の恵は不思議で、年に一人ずつ受洗者か転入者が与えられている。現在は二四人。祝福されている。
隣で息子が、うさぎ形に剥かれた林檎を見て、「ホタル、ホタル」とはしゃいでいる。毎年六月、長門地方は蛍の絨毯で覆われる。キリストの光が覆っているかのように。家族も四人になった。
清原平ハリス氏(隠退教師)
二月六日、逝去。八五歳。米国、ロサンゼルスに生まれる。一九五一年日本基督教神学専門学校卒業後、五日市伝道所に赴任。七一年から八六年まで昭島教会担任教師を務め、隠退した。遺族は妻の和子さん。
美伝道五〇年から問われること
西畑 望
今年九州教区は奄美伝道五〇年を憶えていくつかのプログラムを計画している。一九五三年クリスマスの日に奄美諸島の施政権が、アメリカから返還されたのを受けて、教団「奄美特別開拓伝道」が開始された。一九五六年四月のことである。もちろんこれ以前にも奄美には教会があった。アメリカ軍占領時期においても他教派などは沖縄の教会と連携を取りながら奄美の伝道を継続していた。しかし教団は政治のシステムに追随する形で伝道を開始したのである。
多くの苦悩を抱えながら教会形成を始めた奄美の教会の声を断ち切るかのように、教団の伝道計画は一〇年をもって終了した。教団の人材と資金を主流とした一方的参与と資金のパイプ役に徹する九州教区の姿が浮かび上がる。
《私共は、大変熱心に、気負うて「ひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩いて来たのである」(マタイ二三・一五)が、私はこの伝統的な正統的な伝道姿勢について、あらためて考えさせられているものである。私共が依然として、島々に対して、教勢拡張、教化を旨として、与え、教え、導きという与える側の立場ばかりを強調するならば、「島々は一層貧血な余計者の顔付きをあらわす」(島尾敏雄)に相違ないのである。》との奄美伝道二〇周年によせた雨宮恵教師の言葉は、三〇年の時の隔たりを超えて、私たちに色あせない問いかけを持っている。奄美伝道五〇年を憶える中から、伝道の質を考えていきたい。
(九州教区総会議長)
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