『教団新報』今号を四六〇一・〇二合併号とし、四六〇三号は五月二七日発行とします。
総幹事 竹前 昇
コリントの信徒への手紙一 15章1~21節
復活が信仰の中心 青戸宏史
パウロは「…あなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」(コリント一15・1~2)と語っています。福音とは何か。喜びの音づれ、人を救う出来事を言います。出来事とは何か。主イエス・キリストの出来事です。パウロは「最も大切なものとしてわたしがあなたがたに伝えたのは」と言い「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(コリント一15・3~4)と主キリストの十字架の死と復活の事実(出来事)を、聖書の言葉の成就、神のなされたこととして語るのです。特に、ケファをはじめ、多くの人たちに、「…最後に月足らずに生まれたようなわたしにも現われました」(コリント一15・8)と、復活の主が現れて下さったことを証言することによって、信仰の中心が復活にあることを示しているのです。聖書全体は、復活とその現実について語っています。また、使徒たちも復活の証人として歩み、世々の教会もその復活の恵みによって誕生し、立てられ、今も、主の復活を覚えて、主の日に集まり、礼拝をささげているのです。復活は、信仰の中心の問題なのです。パウロが主キリストの復活のことを重んじているのは、決して十字架よりも復活の方が重要だからというのではなく、復活が十字架をまことに救いの事実にしてくれるからです。また、彼がアテネ伝道をした時、人々は「死者の復活と言うことを聞くと、あざ笑い、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒17・31~33)と、記されているように、十字架より復活の方が信じにくいのです。
・死から始まる生
コリントの人たちは、主キリストが復活しなかった、キリストの復活を信じないと、言っているのではありません。「死者の復活はない」と、言うのです。改めて、主イエス・キリストによって与えられる「救い」とは何か、と問いたい。使徒が語り、聖書が語り、世々の教会が語ってきた福音による救いとは何か。それは「罪」と「死」からの救いです。「罪」と「死」からの解放(自由)を言うのです。主キリストの復活を信じることはできる。しかし、「死者の復活などない」と言ったら、「あなたがたはこの福音によって救われます」と言う、パウロの言葉は嘘になります。
パウロは「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです」と。罪からの救い、死からの救いもないことになると言うのです。もし、「死者の復活がない」としたら、わたしたちは死んだらどうなるのか。また、真の人に相応しく、日々生きるために、どのような望みを持って活き、世を去ることが正しいのか。ただ、与えられた人生を死に向かって生きるだけなのか。否です。わたしたちは、主キリストの復活の恵みによって、死から始まる生を活きるのです。このことは死者の復活があるか、ないかの問題ではなく、信仰そのものの根本問題です。
・教会の信仰・信仰告白
パウロは、ここで、死者が復活するかしないかなどについて議論しようとは致しません。議論したからといってそこに解決はありません。
パウロは、信仰そのものを問うのです。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」そして「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教も無駄です」使徒たちは、復活の証言者として活き、人々は、語られたその福音を受け入れ、それによって教会が誕生し、形成されてきたのです。教会は、使徒たちが語った福音を教会の信仰として受け入れ、また告げ知らせたのです。今日わたしたちは、信仰告白(信条)として継承し、それが教会形成の柱となっているのです。真実、主キリストが復活しなかったとしたら、宣教も無駄であるし、信仰も無駄であり、キリストの教会もなく、「わたしたちは神の偽証人とさえ見なされるのです」との言葉はわたしたちの信仰を、宣教を根本から正す言葉でもあります。
・神が復活させた
「初めに言葉があった」初めに復活があった。信仰を問うことによって、初めに帰り、主の復活を正しく信じることを語るのです。パウロは、「最も大切なこととしてわたしたちがあなたに伝えたこと」に帰ることを勧めています。「死者の復活」という事柄を信仰のこととして、イエス・キリストの復活の事実から考えようとするのです。主キリストの復活は、信仰の根本の問題です。神のなさることに目を向けさせるのです。信仰とは、「神をどう信じるか」と言うことです。主イエス・キリストの復活は、確かに主キリスト御自身が復活されたのでありますが、それは神のなされたことなのです。主キリストの復活は、罪人のために十字架について死なれたお方を神が復活させられたのです。ただ、死人の復活があったというような、奇跡物語ではありません。「…本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたといって、神に反して証ししたことになるからです」。真実、「…三日目に復活させられた」と言うことです。大切なことは、神が復活させたかどうか、と言うことです。神を信じるかどうか、の問題です。主キリストの復活が、神の力を現し、神が、人の罪を赦すために、十字架の死を死に終らせることをなされずに、生命にいたらせたことを信じるか、どうかの問題です。主キリストを神が復活させられた、その故にわたしどもも、罪から救われ、死からも救われ、自由にされた者としてあるのです。コリントの人々は、信仰の問題を、一般の人の復活があるか、ないかということに話を変えてしまったのです。そこでパウロは、「死者が復活しないなら、キリストも復活しなかったはずです」と言うのです。復活があるかないかと言うことよりも、主イエス・キリストが復活したかどうかが問題なのです。パウロは、初めに復活があった、このことが大切であることを明らかにし、教会が、常に、そこに立ち確信を持って受けたことを伝えるのです。わたしたちは常に、死に勝たれた、復活者の恵みの下に留まり、死から始まる命を活きるのです。無から有を創造される神を崇めて活きるのです。 (和歌山教会牧師)
墓石によって信仰を証しして
木口さんは画家である。画家は時間と空間をキャンバスに描きとめることを生業とする。二〇代のときに画家を目指し、恩師から自分の絵を描くようにと教えられて、以来、ライフワークとして描き続けてきた。特にキリスト者の画家として追い求めきたテーマはキリストの十字架と復活だった。
先頃、木口さんは自分の描いた絵が立体となってゆくのを経験した。自ら描いた絵をもとに自家の墓石を新しく彫り上げた。このために石を伊豆に求め、友人の彫刻家の協力を得た。
墓石には、十字架とそこにのぼりゆく階段が中心に彫り出されている。それは木の十字架が堅固な石の十字架となってゆくこととも重なっていると言う。台座には讃美歌「主よ、みもとに近づかん」の歌詞が刻まれている。ここ数年、描き続けてきた「石上の仮寝」、「小羊の道しるべ」といった復活のテーマを重ねての構想でもあった。
のぼりゆく階段についての発想は、木口さんの幼いときの記憶に遡る。父を亡くし虚しさに陥り、階段の一番下に立ち尽くしているような思いになったことが原点にある。ここが人生の出発点であり、ここからひとつずつ階段を登ってゆくという思いが、そこに生まれていたのではないかと言う。
絵から石彫へと広がっていったのは、信仰を同じくする母の逝去がきっかけだった。母が最後に「安心だった」と言ったことが大きかった。普段、何気なく使われるこの言葉が、このときには大きな重みをもって聞こえた。この言葉を受け止めたことが、石を彫り上げてゆく原動力となった。
キリストのよみがえりによって栄光の場所とされた墓に置かれる石を刻むことは、復活の喜びにつながるものであろうし、復活の希望に生きてゆくことの証ともなるであろう。
木口さんが彫り上げ、墓地に据えた墓石の前で足を止めてゆく人もあるとのことだ。
★ 宣教師公募
任地=米国・ハワイ・オアフ島/オアフ日本語ミニストリー/任務=牧師/条件=教団正教師/応募締切=2006年6月5日/他詳細はお問い合わせ下さい。世界宣教協力委員会(☎03-3202-0544)
教団では長い間、青年大会は開催されていない。この八月、青年カンファレンスの開催を計画した。
ことの発端は昨秋行われた台湾協約の協議会の席上である。台湾基督長老教会は、毎夏、青年大会を開催しているが、昨年、一昨年と日本からの青年を迎えてくださった。そして、二〇〇六年夏は、ぜひ、台湾の教会青年を日本に送りたいので受け入れて欲しいとのことであった。そのことは、協議会の共同声明にも盛り込まれたことである。
教団三役より委託された教育委員会はただちに教務会レベルで相談をし、学生キリスト教友愛会(SCF)や全国教会婦人会連合を交えた実行委員会を組織し、日本の青年を含めた教団としてのカンファレンスを行うように準備を進めた。
第15回総会における機構改正以前は青年伝道専門委員会があったが、現在は、そのような組織はない。従って、こういう実行委員会によって準備、運営をせざるを得ない。教育委員会として当初から計画されていた活動ではないが、台湾との協約関係の豊かさのなかで開催され、教団内の青年たちの交流の場としても大いに生かされることを期待している。
私たちは第32回教団総会で「青年伝道に力を注ぐ」決議をした。それを口先だけのものとしないために祈りを熱くしたいものだ。
台湾基督長老教会より青年一〇名を迎え、アジアからの留学生を五名、そして各教区から推薦された青年二〇名、そこに実行委員会および青年スタッフをも加えて五〇名位の規模でのカンファレンスを予定している。
日程等については前号に掲載したが、開催は八月三日より一二日までの十日間で、七日から九日まで二泊三日、水道橋近くにある韓国YMCA及び三崎町教会を主要会場にしてのカンファレンスが行われ、その前後二回にホームステイをし共に学び、交わりがなされるよう計画している。
何よりも青年の参加を望むと共に、ホームステイ等での協力を期待している。
詳細は各教区教育担当者か、教団事務局「ユースミッション2006」担当まで。
(実行委員長 岸憲秀)
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