新島教会に赴任して、早一ヶ月半になろうとしています。まず、新島教会について紹介します。新島教会は伊豆諸島の新島にある教会です。新島には教会が一つしかありません。現在の会堂は一九六七年に献堂されまして約四〇年の歴史を経ています。新島特産であるコーガ石を使った立派な会堂です。屋根の上には十字架がそびえ立っていて、礼拝堂に入りますと礼拝堂の正面に十字架が見えます。以前の会堂の床柱で作られたそうで、四〇年前の伝道の熱気が伝わってきます。その当時活躍された教会員の方々は、九〇歳以上になられまして、元気な時に礼拝にみえます。教会員は八名、客員は二名で礼拝を捧げています。年齢構成をみますと九〇代が三名、六〇代が二名、五〇代が二名、八〇代が一名です。ここ新島でも、教会員の高齢化がみられます。
教会学校は時々四名程度の子ども達がきます。教会員であり元音楽の先生が子ども達に歌の指導をし、その子ども達が教会学校につながってくれます。子ども聖歌隊が出来ていて、イースターの時には歌を披露してくれました。八名の教会員が賜物を生かして、奉仕してくれます。又客員の人たちも教会員と変わらず賜物を生かして奉仕をしてくれます。
今まで専任の牧師がいなく、兼牧であったので教会員の人達は互いの意志が伝わらず、何かと不自由であったようです。専任の牧会者は特に島などの地域では必要であると思いました。何かと教会を訪ねてくれたり、電話をかけてくれます。私も何もわからないので、相談したり報告したりの毎日です。
これからの伝道の課題ですが、若い人達への伝道であると思います。新島には高校まであり、子ども達も多く遊んでいる姿を見かけます。教会学校に少しでも多くの子どもが来てくれたらと願っています。
「伝道の書」に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」という御言葉があります。子どもの頃は実らなくても、将来きざまれた御言葉はその人の内に肥やしとなり芽を出す事もあるでしょう。島特有の良い面と悪い面とがあると思います。教会員の方が新島に馴染むには一〇年かかると言っていました。経験による実感であると思います。島で伝道する牧師先生が経験に基づいてアドバイスをくださいました。人々に何かと言われるような事をしないという事でした。新島で伝道する以上心がけなければならない事であると、思っています。
(外山志都子報)
第39回伊豆諸島連合修養会
伝道の幻を熱く語り合う時
伊豆諸島には、大島・新島・三宅島・八丈島の四島に教団の教会・伝道所が五つある。宣教が開始されてから百年を超える島もある。大島元村教会と新島教会は今年創立九五周年を迎えた。
伊豆諸島連合修養会は始め、他の教会と交わることの少ない島の教会が、互いに励まし合うために会場を持ち回りにして行われてきた。しかし、二三年前の三宅島の噴火以来、東京教区・東支区で島の教会を支える気運が高まって、会堂を失った三宅島の伝道再開のために三宅島伝道委員会が設置された。一九八六年には伊豆諸島伝道委員会と改称されて、教区と委員会主催のもとに伝道協議会や連合修養会が、都市部の教職や信徒たちも加わって開催されるようになった。近年はことに教区や支区の婦人部の参加・協力が大きく、今回も島外参加者の65%を占めた。
今回の修養会は、大島元村教会(大森清一牧師)を会場に、都市部から四〇名・島部から四三名の合計八三名が集い、五月二三~二四日の両日行われた。
開会礼拝で木下宣世牧師(西千葉・東京教区副議長)は、長く大島で伝道された白川藤太郎師の『伊豆大島伝道五十年史』を引用し、一八九〇年代から伊豆諸島や飛騨地方の伝道に尽力された「スカンジナビア・アライアンス・ミッション」(旧同盟教会)の働きを紹介された。その中で、その創立者であり世界宣教者であったフレデリック・フランソンが、日本で最も伝道が困難な所・未伝の地に伝道しようと志したエピソードに触れ、この困難をものともせず一人を捜し求めていく伝道の熱情によって、そしてそれを受け継いだ信仰の先人たちによって島の教会は生み出された。その熱情の原点は主イエス・キリストの「大宣教命令」にある。それゆえ、何によって生かされてきたかを思い起こして伝道の幻を語ろう、と勧められた。
午後には、大島元村教会の信徒のお宅に分散、十人程の八つのグループに分かれて、テーマ「大島(で)伝道の幻を語る」にもとづいて分団協議の時をもった。自己紹介しながら島の信徒たちは島の現状と課題を、都市部の信徒たちも都市教会の現実と課題をそれぞれに語り、子供や高齢者がたくさん集まる教会・ひとりが大切にされる教会など、こんな教会でありたいとの願いや幻が共有され、豊かな交わりの時となった。
夜には、教会紹介の楽しい時が与えられ、翌日は、早天祈祷会、分団発表会が行われ、横野朝彦牧師(番町)の閉会礼拝で締め括られた。
(竹井真人報)
▼トルストイの『人生論』冒頭。粉ひきの男が、効率を良くしようと水車の手入れをする。そのために、水車の構造を調べ上げた。やがて、根本は水車を回す水にこそあると考えつき、彼は川の研究に没頭する。そして、いつの間にか、彼の水車は、回らなくなり、用をなさなくなってしまう。▼私たちは、聖書を読み、神学を論ずる。しかし、何のためにそれをしているのかを忘れると、水車が回らなくなるように、私たちの信仰も枯渇してしまうだろう。ゲーテはファウストにこう言わせている「無駄とは知りつつ神学までも」。▼各教区総会宛ての挨拶文で、山北議長が『正しい聖礼典の執行』を強調したことが波紋を呼んでいる。▼表面的なことに留まるのではなく、そも聖餐式とは何かという一番重要なことで議論し、ここから、当然ながら、十字架の贖罪のことに展開し、更に、キリスト論へと議論が深められるならば、無駄ではないだろう。大いに聖書に聞きながら、徹底的に議論し、その結果の対立ならば、それはまた、意味があるだろう。
ルカによる福音書 12章22~34節
小さな群れよ、恐れるな 芦名弘道
・最も良くご存じなのは主ご自身
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(12・32)。
この言葉を最初に聞いたのは、全世界でたった十二人、ルカの報告によって広く捉えても七二人の主の弟子たちです。一握りとも言えない無きに等しいこの群れに、「恐れるな」と主は言われました。
私たちも微少な群れです。将来への言い知れない不安は心を去りません。その不安を育てている根は、私たちの中にある恐れであることに、この主のお言葉の前に立って改めて気づかせられました。
教会の今後を憂い悩む心の奥底には、このままでは教会が消えてなくなるのではないかという恐れが常にあります。現実を打開しようと提示される知恵に富む方策も、力を込めた叱咤も、ついには虚空に吸い込まれるように消え失せてしまうのは、すべてがこの恐れから出ているからです。
その私たちに主は「小さな群れよ」と率直に呼びかけられます。小ささゆえの恐れ、焦りと無力のすべてを知り尽くしておられるのです。
ともすると今の教会の現実を一人で背負い込み、何もかも分かっているような顔をしがちな私たちですが、最も良くご存じなのは主ご自身です。
ですから「恐れるな」というのは、恐れてはならないということではありません。「恐れなくていい。何も心配はいらない」と、恐れおののく私たちの傍らで親しく語りかけてくださっているのです。それは、私たちが未だ見ぬ教会の将来を、主がすでに見ておられるからです。
・神の手の中にある教会の将来
主は、教会に明日を備えられるのは神であることを二二節以下の野の花空の鳥の譬えで示しておられます。大切なのは「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」(12・24)。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」(12・28)。草や鳥と私たちの価値の比較ではありません。神にとって私たちがどんなにかけがえのない存在であるかということです。
この世の常識で測ればあってなきがごとき私たちが、神の前ではどんなにかけがえのない価値を持って立てられているか、どんなに深い配慮の中におかれていることか。主は一羽の鳥、一輪の花の姿を通して明らかにしておられます。
モーセは神の民が聖であるゆえんをこう語っています。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛ゆえに…救い出されたのである」(申命記7・6~8)。
すごい言葉です。まことに貧弱な私たちに神は心引かれ、御自身の宝としてくださったと言うのです。
人はかけがえのない宝を守るためなら、ありとあらゆることをします。失ってしまうようなことがあったら、必死になって取り戻すでしょう。私たちは、神にとって、まさにそういう宝なのです。
常識の物差しで測っているうちは、教会の真の価値も、宿している力も知ることはできません。この宝のためならばどんなことでもするという確固とした意志を持って、無から有を呼び出される神(ローマ4・17、口語訳)が、小さな群れのただ中に立っておられます。
主は、その神の手の中に
ある教会の将来をはっきり
見て、「恐れるな」と言われました。そして、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と言われます。
神の国(神の支配)はすでに始まっています。主は「時は満ちた、神の国は近づいた」と言われました。
しかし、そう言われて万人が頷くような仕方で始まっているのではありません。
隠されています。
その神の国をくださるというのは、明らかにしてくださるということです。覆いを取り去って、見させてくださるというのです。
・教会の明日は神が備えてくださる
私がおります近永教会でこんなことがありました。当時教会員は数人の老いた女性と飛び抜けて若い男性一人。彼は内心思っていました。姉妹方を天に送ったら教会を畳む後始末をするのが自分の使命。その後は毎週山を降って町の教会に一人通うのだ、と。
それから四〇余年、予想は裏切られました。教会は立ち続けています。しかもその頃より幾分か大きくなって。
彼は今の近永教会の姿をあの頃は想像することもできなかったと言って、こう語ります。「もし今教会に必要なことがあるとすれば、維持拡大の妙案ではなく、真実に礼拝を守り御言葉に聞き従って生きるなら、神は必ず教会に明日を備えてくださるという確信ではないか」と。
「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(12・25)。どんな方法を用いても自分の寿命をわずかでも延ばすことは全く不可能であるように、もし教会に寿命があるとすれば、それをわずかでも先に延ばすことは私たちにはできません。できるのはただ神のみです。この事実を率直に認めるとき、教会がこの地上に、歴史のただ中に時を刻んで立ち続けている現実は神のみ業であって、人為ではないことを私たちは知ることができます。
教会の明日を、教会自身が保証することはできません。教会の一日、一日は、神の国の力の現れです。神の支配がそこから明け初めている曙の中に、私たちは確かに立っているのです。教会の明日、それは神の国です。
私たちがすべきことは、その神の国を待ち望んで、今日の使命に力を尽くすことです。教会の明日は神が備えてくださる、そのことに思い悩みを全部預けて、教会の今日を真剣に生きていかなければなりません。それだけが、いつも私たちの課題です。
どんなに説得力のある方策も、確かに思える見通しも、それが教会に明日が無くなるかもしれないという恐れから生まれている限り、すべて無力です。かつて、全世界を前にしては全く無力な弟子たちの群れに、主がおっしゃったこの言葉に、無条件でアーメンと告白するときにこそ、教会は本当に確かな明日の幻を得ることができるのです。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。
(近永教会牧師)
前述した日本宗教連盟理事長として各方面の会に参加させていただいている。五月十一日外国人記者クラブにて、庭野平和賞の授与式に出席した。
今回はイスラエルのラビたちがパレスチナの弱者側に立って平和と人権と正義のため貢献している働きが選ばれて二千万円が贈られた。立正佼成会が授与するのだが選考したのはノルウェーのルター派の司教がその責にあった。
私はイザヤ書32章17節を引用しつつ挨拶した。「神の姿に似せて創造された人間(Imago Dei)をパレスチナ人、イスラエル人の隔てを越えて尊重していくための実践こそ、まさにシャロームそのものです。
平和について論ずる者は少なくありません。平和を願う人も多くいます。しかし、平和を作り出す人は必ずしも多くはないのです。
そうした中にあってラバイズ・フォー・ヒューマン・ライツのなしつづけておられる平和を作り出す働きは、全世界の人々に人間の尊厳を取り戻させるものです」(以下省略)。
受賞したラビたちの「平和とは命を救うこと、神の与える恵みはユダヤ人のみの権利ではなく、共に広く豊かに共有すべきもの」というスピーチも感動的であった。
ともかく立正佼成会の庭野平和賞を契機としてノルウェーのルター派司教、ユダヤ教のラビたちと出会い、日本宗教連盟を代表して牧師が挨拶をする不思議を思わせられた次第である。
(教団総会議長 山北 宣久)
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