第35総会期第一回信仰職制委員会は、三月八日に教団会議室で行われ、委員長に藤掛順一委員(横浜指路教会)、書記に大村栄委員(阿佐ヶ谷教会)を選出した。
委員に選任されていた者の一人が就任を辞退したため、次回委員会までに一名の委員補充がなされることとなった。
最初に、教規第四四条の定める「信仰職制委員会がつかさどる事項」を確認し、教団創設以来の取扱い事項の変化の報告を受け、ことに宣教研究所の設置によって大きく変化していることなどを確認した。
教団・教区等の教団機関からの諮問に対しては、広い立場からの論議は行うものの、答申に関しては教憲・教規の文理・条理解釈に徹して答申することを当委員会の任務とし、委員会が諮問の内容に関して自主的に課題を取り上げて検討することはないという原則を確認した。
今回の委員会までに諮問は出されなかった。
前期委員会よりの申し送り事項として、①出版局の要望による教団教会暦行事のリストおよび解説の作成、②総務担当幹事の要請による教規等における条文の整備、の二項目があることを確認した。
①については、現在「牧会手帳」やカレンダー等に載っている教会暦、教会行事のリストが、出版局の判断によって作成されていることを確認し、本委員会でこれを検討することによって、教団としての教会暦、教会行事の基準を設ける方向で今後の作業を進めることを申し合わせた。
②については、今後指摘されている点について検討を進めていくことを確認した。
式文改訂小委員会委員選任の件では、前期の岡本知之、越川弘英、勝田英嗣、田中かおる各委員に藤掛順一委員を加えた五名に、今期委員を委嘱することを決定した。
次回委員会は六月二八日~二九日に開催することを確認し閉会した。
(大村栄報)
二〇〇七年秋季教師検定試験を左記の要領で行います。
一、受験要綱と受験願書の提出期限
受験要綱と教団指定の願書用紙は一六〇円切手を同封し、正教師受験志願者か補教師(A、B、Cコースの別も)受験志願者かを明記した上、封書でお申し込みください。願書と必要書類を整えて、受験料とともに所属教区に提出してください。
①教区締切 二〇〇七年六月七日(木)(教区により締切が異なりますので、教区事務所に確認してください。)
②教団締切 二〇〇七年七月五日(木)(各教区から教師検定委員会に提出する際の締切です。)
*受験料は正教師一万三千円、補教師一万円。
二、正教師「説教」「釈義」の課題テキスト
①旧約 申命記 三十章十一節~十四節
②新約 マルコによる福音書 八章三一節~九章一節
三、正教師の「神学論文」の課題
『今日における宣教の課題』。「特に~をめぐって」という副題をつけ、ご自分の伝道・牧会をふまえて神学的に論述してください。
四、正教師の「組織神学」の課題
「イエス・キリストの神性と人性について、教理形成の歴史をふまえ、救済論を視野にいれて、組織神学的に論述してください」
五、補教師「説教」「釈義」の課題テキスト
①旧約 創世記 一章二六節~三一節
②新約 ルカによる福音書 十五 章一節~七節
*コースによって「説教」「釈義」の提出内容が異なりますので、必ず受験要綱でご確認ください。
六、補教師(CⅢコース)の牧会学の課題
『牧会とは何か』について論述してください。
七、提出物締切について
当委員会への提出締切日は、「説教」「釈義」は二〇〇七年七月二日(月)、「神学論文」「組織神学」「牧会学」は二〇〇七年七月六日(金) 当日消印有効です。
八、学科試験面接について
学科試験は九月二五日(火)、面接は九月二六日(水)、二七日(木)に「大阪クリスチャンセンター」において実施します。詳細は受験志願者に通知いたします。
不明な点は直接、当委員会へお問い合せください。
二〇〇七年四月十日
日本基督教団教師検定委員会
〒一六九-〇〇五一
東京都新宿区西早稲田二-三-一八-三一
電話(〇三)三二〇二-〇五四六
ちょっと肩か肘を貸して下さい
いっしょに歩いて行きましょう
▲盲伝のご紹介
日本盲人キリスト教伝道協議会、略して「盲伝」は教会の宣教に奉仕する団体です。一九五一年に盲人信徒と晴眼者信徒が手をたずさえ、キリスト教各派が協力して生まれた超教派の総合的な伝道団体で、会費と献金のみで活動している独立した団体です。盲人と福音、教会と盲人をつなぐためあらゆるサービスを行なっています。
小さい団体ですが、全国的に、時にアジアにも出かけていって幅広い活動をしています。維持会員は全国に四五〇人(そのうち盲人三〇〇名)、また、各地に盲人キリスト信徒会が結成されていて、二五団体が加盟しています。
では、具体的な活動を紹介しましょう。
▲点字とテープに よる伝道と交流
*点字月刊雑誌『信仰』を発行 福音を伝える月刊点字雑誌『信仰』が、盲人信徒の手で創刊されたのが一九一五年、今から九二年前でした。盲伝はその雑誌を受け継いで機関誌として、毎月発行を続けています。二〇〇七年六月号は一〇四〇号となります。現在は点字、テープ、すみ字(一般の活字)、点字データ、テキストデータで発行されています。内容は説教、会員の証や随筆、各地の情報、聖書研究等と抱負です。雑誌の購読をおすすめいたします。
*若い人向けに点字雑誌「アメージング・グレース」を発行 若い盲人クリスチャンの情報交換誌としても用いられています。
*テープ雑誌『おとずれ』の発行 音声と音楽によるオリジナル番組を届けるカセットテープ雑誌で偶数月に発行しています。インタビュー番組が好評です。インターネットでも聴けるようになっています。
(http://www2.nc-tech.com/aruhupapa/)
▲全国修養会の開催
毎年夏に、開催地域の教会と協力して大きな集会を行っています。楽しい集会で、寝食を共にすることによって、盲人信徒同士の交流と盲晴理解の場となっています。
今年は第五七回修養会が七月二五~二六日に神戸市の「チサンホテル」にて、韓国盲人教会から聖歌隊(シャローム重唱団)を招いて開催されます。
▲点字図書の発行と 販売、取り次ぎ業務
特に、点字聖書や点字讃美歌の普及を目指しています。
点字聖書は日本聖書協会さん、日本聖書刊行会さんの努力で、価格を二〇分の一ほどに押さえて、普通の聖書と同じ値段で購入出来るようにしてあります。その為に点字聖書献金を呼びかけています。
▲アジアの盲人と の交流と支援
盲伝国際交流部にてバングラデシュで盲人女性の自活施設を建設して運営しています。また、韓国、ミャンマーの盲人との交流も進めています。広報誌「虹の橋通信」も発行されています。
▲「視覚障害者理解 の手引き」を発行
私たちが考える教会の在り方と、盲人と共に活動するための基本的に必要な配慮が記されています。一部五〇円。
▲様々な相談に応じています
教会になかなか行けない盲人や、教会生活の中での悩みを共に考え、また、教会からの質問にも応じています。
▲各部、各委員会の 活動
婦人、壮年、青年、国際交流等の各部の活動や、宣教研究、学生青年伝道、高齢者生活情報等の委員会でそれぞれの問題を協議し、事業に反映させています。
▲文書伝道
「もうでん録音ライブラリー」と協力してキリスト教書の朗読サービスを行っています。
その為に、教団出版局さん等の出版社から本の寄贈を受けています。
▲まだまだあれこれ行なっていますが、あなたも維持会員になって、一緒に働いて下さいませんか。維持会費は年間四〇〇〇円で、雑誌『信仰』が無料で送られます。皆さんのご参加を心からお待ちしています。また、教会からのご献金で支えていただきたく、お願い申し上げます。気軽に03-3203-4219へお電話下さい。
▲最後に言葉についてひとこと
しばしば「『盲人』という言葉を使っていいのですか?」との質問をいただきます。「盲人」を使わなければ、「視覚障害者」でしょうか。「障害者」を「障碍者」あるいは「障がい者」と記す方もおられます。これらはいろいろと考えてのことだと思います。言葉は記号であります。それ自体には良いも悪いもないけれど、それを使う人の心がその言葉のイメージを作ってしまうのでしょう。
盲伝は団体の名称に「盲人」という言葉が入っています。ですからこの名称で活動する限りは、私たちは「盲人」という言葉を使っていくことになります。盲人と接する人々が、盲人を心から大切な仲間と思うなら、盲人という言葉はあたたかい響きになるでしょう。
(日本盲人キリスト教伝道協議会 主事 阿佐光也報)
▼偶然降りた駅から少し離れた花屋の店頭で、小さな黄色いつぼみをたくさん付けた花に目が止まった。細く長く伸びた茎も可憐だ。どこか高山植物を連想させる葉もまた良い。これまで目にしたことのない珍しい花なのだが、五鉢なら安いと言うのでまとめ買いした。ところで、花の名を知らない。勿論栽培法も。尋ねると「昨日まで憶えていたんだけどね。うーん、思い出せない。今度また来て」と、頼りない。▼適当な日当たりも水はけも分からない。仕方がないので、居間から見て一番栄える場所に下ろしてみた。一週間後、茎も伸び、花も増え、実に元気。特に、風にゆらゆらと揺れる様子がいとおしい。買い足そうと再び花屋を訪ねたが、今度は、その花を置いていたことさえ思い出せないらしい。お手上げ。▼一年草か球根かさえ不明。レントの間咲いたから、レント草と仮名を付けた。来年もまた咲いてくれるかしら。▼図鑑で調べる。写真に撮ってインターネットで流す。調べる方法はあるだろうが、レント草の方が、自分だけのもののような気がして、却って良いか。
マタイによる福音書28章1~10節
走ろう、復活に向かって
嶋田順好
・不安の源泉
『死ぬ瞬間』の著者であり、死に逝く末期癌の人々と対話をし続けたエリザベス・キューブラー・ロスは「科学が進めば進むほど、死の現実を恐れ、否認する傾向が強くなるように見える」と指摘しています。
なぜでしょうか。確かに、自然科学の力によって、現代では格段に寿命は伸びました。しかし、どんなに進んだ科学技術をもってしても、死そのものの克服は不可能です。
だから、現代人は、解決不能の問題を、あえて無視し、片隅に追いやろうとするのです。そこにこそ、現代人の大いなる不安と恐れの源泉があるのではないでしょうか。
しかも、その不安と恐れは、単に生物としての死がもたらすものではなく、より根源的には、命の創り主なる神から切り離されている罪がもたらす不安と恐れと言えるのです。
・神の御業への畏れ
天使から主イエスが復活なさったことを告げ知らされたマグダラのマリアともう一人のマリアの様子を、マタイは「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と証言しています。
ここで心に留めておきたいことは、「恐れながらも大いに喜び」と記されていることです。復活の知らせは、ただ単に喜びの出来事ではありませんでした。女たちは、「畏怖の念」をも抱かされたのです。なぜなら女たちは、最も深い意味において人間の力でもなく、自然の力でもない、ただ神の力ある御業に直面したからです。
主の復活について、「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」、「あの方は死者の中から復活された」と記されています。しかし原文では「あの方は死者の中から復活させられた」と受動態が用いられています。
それなら誰によって復活させられたのでしょうか。言うまでもなく、父なる神です。復活は神の御旨によってなされた力ある御業です。だからこそ、何よりも恐ろしい。死者の中から、主を復活させることができるのは、神のほかにはおられません。つまり、復活の出来事に直面する全ての人間は、神の御業に触れ、そのことを恐れるのです。
あらゆる意味において復活は人間には思いもよらぬ出来事でした。そのことを私たちは謙虚に受けとめる者でなければなりません。
・喜びなさい
恐れと喜びに捉えられながら、この出来事を弟子たちに知らせるため一目散に走り出した女たちを、もっと恐れさせ、喜ばせる出来事が起こります。
あたかも二人のマリアを待ち伏せするかのように復活の主イエスが、ご自身を女たちに現してくださったからです。
九節に「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」とありますが、原文では、「すると」のあとに、はっきりと「見よ」という言葉が記されているのです。したがって、ここを直訳すれば、「走って行った。すると、見よ」となります。
明らかにこの「見よ」には、思いもかけない驚くべき出来事が生起したとの強調の思いが込められているのでしょう。しかも「イエスは行く手に立って」と訳されているところも、本来この動詞が持っているニュアンスを生かせば「イエスは出迎えて」と訳すことができるのです。
きっとこの時の復活の主は、満面に笑みをたたえ、両手を広げて、女たちを出迎えて下さったのではないでしょうか。
そこで主は、女たちに「おはよう」と声をかけました。この言葉は、当時、日常の挨拶の言葉として用いられていたものでした。ですから「おはよう」と訳されているのです。しかし、この言葉を直訳すれば「あなたたちは喜びなさい」ということになるのです。いつもの通りのいつもの挨拶の言葉が、復活の主から発せられたこの時ほど、本来、この言葉が持っていたであろう喜びの響きを奏でたことはありません。
・究極のどんでん返し
「あの方は死者の中から復活された」との喜びの知らせを伝えるために脱兎のごとく、弟子たちのもとへと駆け出した二人のマリアを見つめていると、私は、究極のどんでん返しということを思わずにはいられなくなるのです。
二日前の夕方、主イエスの葬りに立ち会った二人のマリアは「そこに残り、墓の方を向いて座って」いました(マタイ27・61)。安息日の始まる夕闇が迫っても、女たちは主の墓の前に座ったまま、動こうともせず、深く深く悲しみの中にうずくまるのです。遺体でもよいから、ただひたすらに主イエスの傍にいたかったのです。
愛する者の死、それは誰にとっても人生の歩みのなかで、最も耐え難い悲しみと絶望の源泉です。人間存在の根源的なはかなさを痛切に思い知らされる出来事です。ましてその死が冤罪による見せしめの処刑死であれば、なおさらのことです。
この二人のマリアの悲しみは、私たちが人生の旅路で、愛する者、親しき者を死によって奪い去られた時の悲しみと絶望を代表している嘆きと言えるのではないでしょうか。
しかし、その悲しみと絶望は打ち砕かれ、うずくまっていた二人のマリアが、今は走っています。駈け出しています。
抑えようにも抑えがたい喜びに突き動かされ、「あの方は死者の中から復活された」との勝利のメッセージを携え、揺るぎない命の希望のメッセージを携えて。
この二人のマリアと共に、罪と死の力に逆らい、死から命へ、滅びから勝利へと突破すること。その一筋の道を走っていくことこそ、イエス・キリストの教会のたどる道です。
走り出した女たちの姿を見つめていると、訳もなく星野富弘さんの次のような詩が思い起こされてくるのです。
「思い出の向う側から
一人の少年が走ってくる
あれは白い運動ぐつを
初めて買ってもらった日の
私かも知れない
白い布に草の汁を飛び散らせながら
あんなにも
あんなにも嬉しそうに
今に向かって走ってくる」
時代も、場所も、生起した出来事も全く違うのですが、この詩がいつしかこんな風に私には聞こえてくるのです。
死の悲しみと絶望の向こう側から
女たちが走ってくる
あれは墓の前で天使から
主の復活を知らされた朝の
二人のマリアかもしれない命の望みにはじけるようにあんなにも
あんなにも嬉しそうに
〝復活〟に向かって走ってくる
(青山学院宗教部長)
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2025
The United Church of Christ in Japan






