今頃多くの教会で三月定期総会が開催されていることだろう。各個の教会の業がさらに祝福の実を結ぶよう祈ってやまない。
どの総会でも新年度の伝道計画、伝道体制、役員選挙、そして会計予算の審議がなされることだと思う。これは全体教会としての教団総会でも、教区総会でも同じことだ。
ただ全体教会の総会の場合「伝道計画」について共に考え、祈り、ビジョンを語り合う時が少ないのではないかと感ずる。
教団並びに教区にとっての大きな課題である、教勢不振、次世代たる青年、青少年さらには教会学校生徒の減少、さらには若年献身者不足、これらは教団の現状と将来にとって愁眉の緊急課題であると思うのだが、これらについて語り合う時が見られないというのはどういうことか。
今列挙した問題は教団に属する者であるなら等閑できぬものであるはずだ。この課題を前にしてはそれこそ右も左もない。立場をこえて伝道協力していくべきものであって、それこそが実質化に通じていくのではないか。
やがて教区総会が近づいてくる。そこで何とか「伝道計画」について共に取り組みたい。
それは伝道協議会などで取り扱えばよいという勿れ。教会会議としての総会でこそ取り扱うべきことだろう。なぜなら教会は伝道のために召されているのだから「伝道計画」を最重要事項として取り組まざるをえないのだ。
(教団議長 山北 宣久)
ありのままに生きる
名前の「愃」は、五四年度版讃美歌八二番の歌詞「ひろしともひろし」から名付けられた。幼稚園の時に養女となるが、養父母の下で何不自由なく成長し、高校三年生の時に疑い迷うことなく城之橋教会で堅信礼に与った。高校卒業後、武蔵野音楽大学に入学する際に学生寮に入り損ねたが、旧知の飯能教会初代牧師藤原政太郎氏の計らいで飯能教会に下宿することになった。そこで現在の夫宇市(ういち)氏との出会いがあり、主の御心がそこにあった。大学卒業後は、河合楽器音楽教室にピアノ教師として入社、二四歳で結婚し、以後飯能教会員として仕える。
教会では、奏楽者として礼拝委員会、奏楽者の会を牧師と共に組織し、心に響く讃美を、と他の奏楽者や聖歌隊を指導して教会音楽の向上に努めている。更に婦人会長を務め、講壇の生け花を一手に引き受けている。また、毎週金曜日夜、外部に向けた「うたいましょうさんびか」の会を主催し、多くの人を教会に招いて宣教の一端を担っている。
九三年五月、埼玉地区「礼拝と音楽を学ぶ会(後に教会音楽委員会)」の発足当初から委員(現在も現役)として尽力し、地区婦人部書記、地区伝道委員等の働きをも担ってきた。養父母と叔父叔母、姑の五人を介護する中で、末期癌でホスピスに入った母の「私は天国へ行けるの?」との問いに少なからず不安を覚えた。しかし、島崎光正氏のザアカイ物語をとおした講演を聞く機会に恵まれて、ありのままの姿で主に迎えて頂ける、という信仰の確信を得ることが出来た。全てを主に委ねることで母を天に送り、その看取りの中で主が共におられる喜びと、自分の努力ではなく主に委ねる生き方を強く経験することが出来た。「いつも喜んでいなさい」( テサⅠ5章16節)との御言葉に押し出され、主が与える時に自分に出来ることをさせて頂く、ありのままに生きる信仰に、大きな喜びを得たと語られる。
第四三回東海教区農伝協議会が二月二六日から二七日にかけて、伊豆長岡で開かれた。主題は「海の恵みは森の恵み~自然の恵みを求めて~」。講師は畠山重篤氏。彼は気仙沼(宮城)で父の代からカキの養殖を手がける漁民。バプテスト気仙沼教会員である。
◎講演要旨
高度経済成長期に気仙沼湾に異変が起きた。のり、帆立、カキの減産が著しくなったのだ。畠山さんは、南仏視察旅行とある大学教授との出会いから不漁の原因を知った。自然の荒廃がその原因であった。森が荒れ、田畑は農薬漬けとなって小さな生物たちは死滅した。そして海には赤潮などが発生して養殖漁業は大打撃を蒙った。またカキの餌になるプランクトンは川上の広葉樹の落葉が育てていることを知ったのである。
彼は「カキの森を慕う会」を組織し、「森は海の恋人」を合言葉に、気仙沼湾に注ぐ大川上流の山に大漁旗を翻して植樹運動を始めた。運動は小学生や中学生にまで広がった。
難関もあった。縦割り行政のため、責任が不明であったり、問題をたらい回しにされたのである。縦割りの弊害は学問の世界にもあった。林・農・水産の各研究者は、タコ壷的世界に閉じこもりお互いのことを知らなかったのである。
息の長い運動であったが山に緑がよみがえり、海にカキが帰ってきた。東北からの発信は、小学や中学の教科書に採用され、山・川・海を俯瞰的に見、その連関を大切にする考えは、21世紀の文明モデルになると言われるまでになった。
最後に、運動の基本は「人間の問題である」とキリスト者らしい感想で講演を締めくくった。
◎感想
講師は漁民の視点に立ちつつ、自然の連関性を大局的に把握し地球規模の考察を行っていた。また、運動はきわめて柔軟で協調的であった。なにより次世代にまで運動の輪を広げているのがすばらしい。出席者は、深い感動を覚えつつ講演に耳を傾けた。出席者六六名。
(岩本二郎報)
み言に立てられ、み言を語る
京都西田町教会伝道師 信岡 茂浩
京都西田町教会は東山の大文字麓近くに位置している。此処を初めて訪れたのは十年ほど前のこと。徒歩三五分の距離だった。遙か大韓民国からこの教会の礼拝説教が放送されていた。
私は特別養護老人ホームのパート宿直員をしていた。夜勤のケア・ワーカーとは比較にならないが、十五時間と四五分の週三回は短くはない。無事に明けた夜も五時を過ぎると朝刊を待つ人が玄関に来る。
昼間は、ぼんやり、してしまう。そんなわけで、学校のパート職がない日は隣接の日本バプテスト病院で「お昼の礼拝」に出た。或る日、FEBCの番組表を手渡して熱心に勧める人がいた。闘病生活を送るその青年は篠田清さんといった。
主日がラストスパートになる終始転倒で無休の日々を重ねてきた。平日は商品積載作業の常勤バイトに往復三五キロを自転車で通い、土曜に特養の宿直に入り、翌朝になって教会学校へ走る。目下は無給の伝道師である。担任教師として役員の皆様と共に、自宅療養中の牧師に仕えている。
以前からの担当である神学研究会は、『ハイデルベルク信仰問答』を学び始めた。また、去年のクリスマスより説教を月一度させてもらえることになった。リュックで本を担いで行き宿直中の待機時間に準備する。話も文も不評である。
今一番嬉しく思うのは研修会に参加できるようになったこと。費用も教会から援けていただいている。長いあいだ深く閉じ込められていたのが、遂に明るい広場に飛び出したような喜びである。
神学校が思いも及ばない者に応召の道はCコース以外ない。しかし具体化のめどがなかった。転会先の杉田太一牧師がCコース出身と聞き決意を新たにしたが、学校の仕事は消え、学生時代のアルバイト先に身を寄せた。「バイト」とは日雇いの「蔑称」であると思い知った。
転機は外から来た。後輩の父上である大橋弘牧師がCコース指導の達人(後日Cコースの会にて聞き及んだ)で千葉から京都に越して来られた。杉田先生の下、大橋父子の助力を得て第一年次の受験を申込んだ。大橋仁夫氏は献身的なコーチ兼トレーナーになって下さった。
教区の面接を夕刻に控えた朝、自転車通勤の路で横から跳ばされた。救急車の天蓋を睨み「また、駄目か」とうめいた。
そのときだ。病臥の後ここに到り着くまで励まし支えて下さった方々が、まばゆく脳裡を巡った。『起て!』。駆けつけた弟の送迎により面接を終えた。病院の検査と医師の記憶がない。
三月一日朝、伏見工業高校の校門に「卒業式」の看板が立っていた。その午後のこと、十トン車あおり上で作業中に落下、左かかとを粉砕した。
六日、転院した五階の病室から青空が見える。夜十時頃、もう何年も聴かなかった放送を受信した。大きな雑音の波間から「創世記1章3節」と聞こえて来る。「神は言われた。『光あれ』。」
翌朝、切り忘れた携帯が震えている。「篠田です…今から西田町教会へ行っていいですか…」。誰もいないし自分は入院して手術を待っていると告げた。「没薬と乳香が手に入ったんで…持って行きたいんですが…」。これは葬りの用意か。「是非、持ってきて下さい。で、黄金はないんですね」。
京都西田町教会は四季の彩りに恵まれ「京都で一番美しい処にある教会」(杉田牧師談)かもしれない。『草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ』。遣わされた集会に育まれつつ正教師を目指し学び続けたいと希っている。
教団新報4621号2面、「新潟県中越地震」被災教会会堂等再建支援委員会の報告中、(4)の記事を、次のように訂正致します。
誤 (4)十日町教会=山本愛泉保育園の工事は完了。牧師館の再建工事については、契約額の減額交渉の関係で今夏着工を断念し、計画の再検討を行っている。
正 (4)十日町教会=山本愛泉保育園の工事は完了。牧師館の再建工事については、今夏の着工に向けて進んでいる。(訂正箇所下線)
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