『教団新報』今号を四六二五・二六合併号とし、四六二七号は五月二六日発行とします。
総幹事職務代行 愛澤豊重
秋山 徹
・はじめに
出版局は、書籍・定期刊行物・讃美歌等の出版を通して教団の宣教の働きを担っています。今年で四〇周年を迎えます。
・過去
出版局の歴史は、一九四一年の教団合同にともない、それぞれの教派の出版活動を整理統合し「教団出版局」として発足した時にさかのぼります。戦後、「出版事業部」となり、一九六七年総務局(現在の事務局)から切り離して「出版局」として組織され、現在に至っています。出版局の会計は教団本会計とは区分して行われています。
出版局の他の出版社との違いは、出版物の企画を教団内外の多くの教職・信徒によって構成された専門委員会が担っていることです。多くの方々によって支えられる体制が発足以来続けられてきました。売上等の推移と部門別構成比は、別表をご覧ください。
書籍では、一九八七年に刊行された『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)を契機として、『新共同訳 旧約・新約聖書注解』(全五巻)、『現代聖書注解』(全四〇巻)などの注解書、『総説現代神学』などの総説シリーズ、『キリスト教人名辞典』、『新共同訳 聖書事典』などの辞典類、そして『朝の祈り 夜の祈り』、『教会生活の処方箋』など教職・信徒の学びや信仰生活を支えるもの、キリスト教学校で用いる教科書、絵本など、教団出版局ならではの出版によって、教団の教会だけでなく日本のキリスト教の宣教を支えてきました。
定期刊行物では、「信徒の友」、「こころの友」、「季刊 教師の友」、「季刊 説教黙想-アレテイア」、「季刊 礼拝と音楽」がそれぞれに創刊時の熱い思い、編集のために結集した多くの方々の努力、そして読者の支えによって刊行が続けられています。
特に「信徒の友」は、教団総会の決議によって一九六六年四月号をもって創刊されました。一九七〇年代の教団の混乱期にも教団の諸教会のつながりを保つ重要な働きをしてきました。初代の編集委員長佐古純一郎氏が「ここ数年の教会の混乱を思うとき、『信徒の友』がなかったら信徒の不安はもっと深刻であったろうと考えられます。…おそらくもう少し時期が遅れていたら、とうてい『信徒の友』創刊などということはなかっただろう」と語られたように、「信徒の友」の歩みは不思議な摂理に導かれています。作家三浦綾子氏の『塩狩峠』もこの雑誌によって世に出ました。
讃美歌の分野での働きも出版局の重要な柱となっています。一九四三年に「日本基督教団讃美歌委員会」が組織され、戦中戦後の時代を経て、この委員会のもとで『讃美歌』(一九五四年版)が刊行されました。その後、『讃美歌第二編』などが発行されましたが、現代に生きるキリスト者の「礼拝」の歌として、内容的にも、曲の面でも十分ではないとの意見が寄せられ、その要望に応えて約二〇年にわたる改訂作業を経て、一九九七年に『讃美歌21』を刊行し、本年一〇周年を迎えました。
また、『こどもさんびか 改訂版』(二〇〇二年)は三六年ぶりの全面改訂です。関連商品として『讃美歌21略解』、『讃美歌21CD』(一〇枚)などを出版しています。
・現在
出版局の働きは、これまでの歩みを継承しながら続けられています。発足当時一億二千五二八万円であった総売上は、順調に売上をのばし七億円に達した年度もありましたが、昨年度は五億円をわずかに下回り、この厳しい状況をどのように乗り切るかが大きな課題です。
当初常勤三一名、非常勤二名であった人員体制は現在では二〇名、嘱託二名によって担われています。
書籍は専門書、一般書を併せて、毎年三〇~四〇点の新刊を企画出版しています。オンデマンド印刷による少部数重版や、ホームページによるネット受注なども始めています。
定期刊行物は、各誌が定期購読者に支えられて刊行を続けていますが、発行部数を維持するために懸命の努力を続けているのが現状です。
「信徒の友」は読者の高齢化に対応して活字を大きくしたり、誌面を刷新するなどの工夫、また全国の教会を直接訪問して部数拡大に努めています。
讃美歌では、『讃美歌21』や『こどもさんびか改訂版』の「講習会」を全国各地の教区・地区・教会のレベルで積極的に行うなど、讃美歌委員会委員の方々の協力を得て普及活動に取り組んでいます。
第34総会期には教団本会計と出版局会計との関係適正化が進められました。教団紛争によって負担金未納を抱えた教団は、歳入不足を解消するために出版局から本会計への繰り入れ額を出版局の利益をはるかに超えて予算計上した時代がありました。この会計処理による多額の累積が教団では「出版局勘定」として計上されていましたが、公認会計士の指導のもと、出版局で本会計勘定として本会計に対して負債となっていたものを「元入金」に振り替える処理が行われました。また、定額の繰り入れ金(年一五〇〇万円)を改め、当期利益の二〇パーセントを寄付金とすることとなりました。
出版局の収益事業としてのしっかりとした経営見通しと独立性は、さらに確立していかなければならない課題です。
・将来
厳しい経営環境のなかで、出版局が将来どのようにその使命を担ってゆくことができるか、書籍、定期刊行物、讃美歌それぞれに課題がありますが、いずれにしてもバラ色の将来像を描くことは難しい状況です。これから取り組むべき課題をいくつか挙げてみたいと思います。
1 教団内外の読者ニーズに即応する堅実な中・長期の経営計画に立った企画力の強化。
2 教会を越えて社会全体にキリスト教のメッセージを届けてゆく出版形態や情報伝達形態の開発。
3 キリスト教出版業界全体の連帯と強化、流通・営業体制の整備。
出版局は、教団のなかの収益事業として、キリスト教図書の出版会社なのか、文書伝道を行う機関なのか、あるいは教団の運営費を捻出するための事業なのかと、その性格をめぐって設立当初から議論がありましたが、出版局四〇年の歩みはまさにその混乱のなかで続けられてきたように思います。設立の主旨を改めて深く捉えなければなりません。いずれにしても、教団の教勢の伸び悩みのなかで、改めて文書伝道が果たす役割の大きさを思います。これからも出版活動を通して教会に仕え、福音が地の果てまで伝えられていく働きの一端を、担い続けていきたいと考えています。 (出版局長)
負いきれない負債を負いつつ、主をほめたたえる
武藤さんは現在六五歳。ふつうは、ゆったりとした年金生活でも考える頃だろうか。しかし、定年退職間近になって思い切って立ち上げた事業が失敗し、億単位の負債を抱えた。今も返済の生活が続いている。
大学卒業後、研究開発に従事したが、医者を目指そうかと考えた。その頃、公害問題に目覚め、「人の医者にならなくても、産業の医者になればよい」と思い立ち、発電所の排煙脱硫の仕事に移った。海外の駐在員として業績をあげ、鼻高々の折、突然のリストラに遭う。一九八五年のことだった。自分が完全失業したことを悟るにも時間がかかったが、経験と技術が買われシーメンスに就職、再び海外を駆けめぐる生活となった。
仲間の定年退職をきっかけに、忘れていた自分の歳を自覚させられる。「人間は誰もが死ぬ。死に方は選べない。しかし人生はやり直しができるものではないか」。思い切って会社を立ち上げ、やり直しのスタートのはずだった。ところが、事業は数年で挫折、失敗。
み言葉は、「立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼することにこそ力がある」と言う。しかし、明日の支払い、あさっての督促の事を思うと安らかにはなれない。「一時的にはみ言葉に力づけられても、『社会』という嵐が来るとすぐ不安になってしまった」。強い風に気づいて恐くなり、沈みかけたあのペトロの姿が自分だったと振り返る。
「そもそも私が抱えている問題は個人で負える限度をはるかに越えているのです」。負いきれない負債。ただみ言葉が力を与えた。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(詩編一〇三・二)。「私が最初にすべき、また最後にすべきことは、主をほめたたえることではないか」。それが生きている理由だと腹を据えた。「負債を返していくことがかえって仕事を絶え間なくできる機会になります」。
二〇〇七年三月一〇日(土)、十三時三〇分より十五時三〇分まで日本基督教団銀座教会で「隠退教師を支える運動・東京教区東支区の推進座談会」を開催した。出席者は十七名であった
以前から東支区で開催したいとの切望が漸くかなえられた思いである。
はじめに、会場教会の長山信夫牧師より「最後の祈り」(申命記33章1~7節)と題する説教を通して励ましをいただいた。
それから、滝川英子書記の司会で「隠退教師を支える運動」多田信一推進委員長と教団年金局髙橋豊理事長の挨拶、出席者の自己紹介を済ませ本題に入った。
多田委員長から、この信徒運動「一口100円献金」の目的、歴史、現状についての報告があり、髙橋理事長より教団新報に掲載された「日本基督教団年金の過去・現在・将来」をテキストとして、教団教師退職年金制度とそれ以前から実施されている謝恩金制度について話され、この二つの制度を維持するために、信徒運動の「隠退教師を支える運動」の小さな業が大きく用いられていることなど語られた。
その後、次のような質問がなされた。
①教師の大部分が加入している筈の「公的年金」にプラスする「私的年金」である教団教師年金制度について。
②「教団年金」にもっと教団から資金が出せないのか?
このような問いに、髙橋年金局理事長、池田浩二理事、多田推進委員長が解答された。「教師の経済生活について、信徒はどの程度理解しているだろうか。隠退された教職とその家族のため、教団はこの制度を支え抜くことを最重要課題として取り組むこと、そのために全教会が連帯し教職信徒が一体となって制度を支えることが必要。宣教的視点から、宣教の業に献身された教師とその家族の生活に、信徒はもっと関心を持つべきではないだろうか」そのような思いを新たにされたひと時であった。
(笠原康子報)
ただ主の恵みの選びによって
久我山教会牧師 尾崎 風伍
主の召命を受けたのは
主が私を伝道者となるよう呼び出されたのは、一九八二年春のことでした。いわゆるCコースで受験することを志しましたが、一九八四年春になって、廣田登牧師が海老名教会に着任されるに及んで推薦が得られ、以後三回の試験を経て、一九八六年五月、神奈川教区総会で准允を受け、また、同年七月、海老名教会から招聘されて開拓伝道専任の伝道師に就任しました。同年八月三一日、定年まで四年を残してちょうど三〇年勤務した日本航空を退職しました。
海老名教会は中渋谷教会の開拓教会です。私ども夫婦はその信徒でした。一九六五年、自宅で始めた子供会(土曜学校)が発端で、一九七七年海老名伝道所の開設、一九八一年海老名教会が第二種教会として設立されました。主は私と妻マリ子をそこから呼び出されました。マリ子は一九八四年春、東京神学大学の学部三年に編入学、私は同年秋から教団の教師検定試験を受け始めました。
ふりかえると
母喜巳(きみ)(旧姓・笹沢)はフェリス女学校の卒業。在学中、指路教会で受洗し、子供たちを静岡英和付属幼稚園に入れ、また駿府教会の日曜学校に通わせました。
太平洋戦争も終わり近く、私は海軍兵学校予科を受験し合格しました。同じ日曜学校に育ち、海兵予科に行く林康雄君と受洗希望を出し、針谷松太郎牧師は熟慮のご様子でしたが結局許されて、一九四五年三月初旬、十五歳で洗礼を受けて海軍兵学校に赴きました。
戦後、しばらく後に、針谷牧師から「牧師になる気はないか」と問われたときに「それはありません」と答えました。その後にも、伝道者となる方向をそっと示されたことはありましたが、私は牧師にはならない。信徒として教会に仕えるのが私の使命だという考えを変えませんでした。しかし海老名教会が大変悲しい状態であった頃「教会がこんな状態のとき、まだお前はわたしから逃げる気か」という主の御声を聞いたように思いました。いわば私は、追いつめられて神に召されました。
その後のこと
私が海老名教会の開拓伝道専任の伝道師に就任して間もなく、同教会の承認のもと、阿佐谷集会と称するグループ(阿佐谷東教会を離れ独自の礼拝を守っていた人々)と共に歩むことになりました。
その後、井草教会熊澤義宣牧師の決断と、同教会の一年にわたる討議と準備を経て、一九八八年春、阿佐谷集会のメンバー全員十四名が阿佐谷東教会から井草教会に転入、尾崎両名が開拓伝道専任の伝道師として招聘されました。
開拓伝道委員会が直ちに組織されて活動を開始したのが六月五日、そして一月もたたぬうちに久我山に開拓伝道の拠点が与えられ、そこで八月四日に祈祷会を行ったのが久我山での最初の集会。これが今の久我山教会の源流です。
現在と今後のこと
あれから来年で二〇年。この間、神は私どもの思いや願いに先立って、次から次へと、必要なものをすべて与えてくださったので、皆で息もつげずに走ってきました。
この四月に次の時代の久我山教会を担任される稲垣裕一牧師を迎えます。尾崎両名は引継ぎのため一年留任の後辞任することも教会総会で承認されました。またこの五月十五日には新会堂が完成して引渡しを受けます。久我山教会が新しい出発をする時がきています。
これらすべてのことを思い起こし、神が私を母の胎から生まれぬ先に選び召してくださったことを、今は確信して感謝いたします。
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