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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4630号】教会幼稚園融資金貸出要綱

2007年7月7日

幼稚園の土地拡張、増改築、新築のため、幼稚園融資金2007年度分を次の要領で募集します。
◎金  額:50万円~300万円
◎返済期限:5年以内
◎利  子:期限内 年1.0%
期限後 年2.0%
◎締  切:8月31日
2007年度は600万円を2~3の教会幼稚園に貸し出します。希望幼稚園は、教区事務所を通して教団教育委員会まで申し込んでください。
融資規定、申請書は教育委員会(TEL03-3202-0544)へ。

第35回全国教会幼稚園連絡会 園長・設置者会が六月四日から六日まで、中央工学校南ヶ丘倶楽部(軽井沢)で開催された。講師の聖学院大学・阿久戸光晴学長により、「改定教育基本法」から、保育の教育化?や、成人中心社会における、幼児の位置の曖昧さを検証しながら、先を見据えた学びを得る事ができた。
阿久戸氏は、幼児期を単なる通過儀礼や、忘却される過去にしてしまう事なく、教育(education)という語源から、創造性を養う事や、やる気を引き出すことが、社会を支える人間の共同体形成につながる第一歩であり、そこにかかわる保育者が、子どもたちの足元に立ち、出会う子どもたちに畏敬をもって保育にあたるという、言わば、保育の基本に立ち返るべきことを示して下さった。これからの保育のあり方を問いつつ、前に進む事の大切さを思う。
教団自主活動団体としての役割は、新任教師オリエンテーションがある様に、最近は、これからスタートする新任園長・設置者の方々に、特に参加をお願いしている。今回も、四国、兵庫、大阪、中部、東海、神奈川、西東京、東京、関東の九教区からの参加があり嬉しく思う。毎年、転任と就任の一番忙しい時期ではあるが、共々に出席いただき、初めて経験する、幼稚園の様々な出来事に汗している苦労多き教師にとって、「大変参考になりました」との感想を頂いたり、中越地震、能登半島沖地震の、被災地を抱える幼稚園の生の現場の様子が報告された。園長・設置者会は、教会幼稚園の年度初めのオリエンテーションとしての位置づけも加味されている様に思う。附属施設の教会幼稚園を維持管理する際、牧師が代わる時に必要な課題や事柄を見つめ、園児減少・情勢変化の波に抗して、教会幼稚園がどうあるべきかなど、課題は山積しているが、更なる皆様の参加を得て、付託に応えたいとスタッフ一同願っている。
(古屋博規報)

万事が益となる

武山教会牧師 小堀 新平

私には三人の子供がいた。長女を「日の子」という。自閉症だった。「日の子」は二八歳で、母親の運転する自動車事故で主の御許に召されてしまった。一九八四年のことである。驚異的な記憶力と、あらゆるジャンルの音楽への造詣の深さは驚くものがあったが、健常者にみられる社会性には欠けていた。教会生活では何よりも主日礼拝を忠実に献げ、教会挙げて愛され慈しまれていた。中でも阿部志郎氏の親友であった。
一九七六年の春に腎不全となり、以来透析を受けることになる。週三回の透析は主として夕方から始まる。その送り迎えは私たち夫婦の欠かすことのできない日課となった。健常者には見られない純真さと、嘘を言わない「日の子」は神さまが託してくださった私たちの宝であった。その「日の子」を召された御心は、今以て知ることは出来ない。
「日の子」の召天により、私たちは透析のための通院から解放された。透析の持続は生命の維持に関わることであり、全ての私生活に優先されるものだった。そこから解放された私たち夫婦はその時間を神学の学びに当てることにした。一九八五年四月、当時教文館の九階で開講されていた、東神大夜間講座に、第三九期生として夫婦で受講した。月曜日と金曜日の午後六時からの講座は、信徒の私たちにとり、新鮮で魅力的なものであった。幸い、勤め先は銀座にほど近く、講義は二人して皆勤の二年間を送ることができた。「日の子」が召されるまで、主として北米を主力とした海外プロジェクトの責任を持たされていたが、この事故後は、国内での仕事に移ったことも、受講には大いに便宜を与えられた結果となる。
この東神大夜間講座の受講の動機は、特に召命を受けてのことではなかった。正直に思うことは、「日の子」の透析治療により束縛されていた時間を有効に使いたいという単純な思いからに他ならない。夜間講座での二年間は私としては唯一の組織的な神学の学びの時であった。のみならず、各分野の第一級の諸先生方にまみえ、知己を得たことは、その後の私の歩みの上に無形の財産を与えられたことになる。
だが所詮は、信徒の学びである。将来、組織と肩書きの力に頼らない道をいずれは求めたいと願っていた私は、一九八七年一〇月、Cコースへの挑戦を決心した。今顧みれば、そこにいたる全ては、見えざる主の備えであったと思う。現役の仕事の傍らの受験準備は苦難であった。日々働く実社会と神学の世界は全く相容れない環境にある。神学書を家内がテープに吹き込み、それを通勤の途次聴きながらの日々が続いた。
一九八八年春に始まった受験は、仕事の合間を縫ってのことであって、一九九三年春に補教師の資格を得ることになる。一九九四年五月に武山教会への招聘があり、勤めを辞めてその召しに応じた。爾来、十三年、組織的な神学の学びを果たし得ないCコースの格差は他の人は知らないが、今以て私は神学的飢餓を味わっている。果たして主の教会に仕えるに相応しい学びが出来ているか、自ら顧みて止まない。
併設されていた幼稚園を二〇〇〇年に閉じ、ひたすら信仰告白を規範とした教会形成に、全力を傾倒した。創立五三年目の二〇〇六年一月、老朽化した会堂に代わり、新会堂の献堂式を迎えることが出来た。まずは一区切りの宣教牧会の歩みを終えたと言えるであろう。さりながら、誠に貧しき自らの器を顧みるとき、ご恩寵の大きさに、畏れおののく日々である。

三田 和芳氏(隠退教師)
三月三一日、逝去。六八歳。北海道に生まれる。一九六三年青山学院大学大学院修了後東奥義塾高校に教務教師として赴任。その後静岡英和女学院に奉職し、七〇年から七八年まで桜木教会牧師を務め、二〇〇三年隠退した。遺族は妻の照美さん。

岡本加都夫氏(隠退教師)
五月六日、逝去。七五歳。京都市に生まれる。一九五六年同志社大学大学院修了後浜坂教会に赴任。その後倉敷南、琴浦教会牧師を務め、六四年から六八年まで松山学院に教務教師として奉職。松山、曽根教会を経て八九年から河内天美教会を牧会し二〇〇一年隠退した。遺族は妻の和子さん。

 

能登半島地震と被災教会の再建
高橋 潤

三月二五日(日)の教会学校が終わる頃、能登半島地震が発生した。被災した教会施設は、能登にある輪島教会、羽咋教会、富来伝道所、七尾教会と富山地区の魚津教会だった。
この地震の特徴は、余震による被害の拡大であった。当初の現地からの情報で安心してしまった所に、無数の亀裂被害があることが後から分かってきた。また、観光地ゆえに、被害状況をありのままに報道することは、現地の死活問題につながる。そのために、大きな被害にもかかわらず、報道規制
がかけられたため、被災状況が十分伝わらないまま時間が過ぎてしまった。そのような中で、被害状況を把握するために力を発揮したのは、電話や携帯電話よりも電子メールであった。特に、通常のメーリングリストによる被災教会の牧師
からの生の情報が、電話が回復する前に入ってきたし、被災教会のホームページに掲載された写真によって被害の様子が分かった。電話が通じるようになって分かったことは、私たちの想像を絶する被災教会の忙しさであった。現地の様子を見たい知りたい私たちの訪問が、時に被災教会にとってありがた迷惑になる。今回の地震の特徴として、ライフラインの復旧が早く、特に教会関係は、ボランティアの必要性が低かった。一口に震災といっても千差万別、マニュアル化出来ないことを学んだ。
被災教会が、再建されることを夢見ている。尊く力強い献金が寄せられている。主の教会に感謝。
(中部教区総会議長)

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