ペンテコステに一つとされた!
二〇〇二年五月十九日ペンテコステ礼拝にて、馬渕家族はキリストに結ばれて一つとされた。馬渕正昭、京子夫妻の受洗と、萌、芽依、岳、三人の子どもたちの幼児洗礼に、会衆一同は喜びに満たされた。
正昭さん、京子さんが初めて教会に足を踏み入れたのは、それより十二年前のこと。「教会で本物の結婚式をしたい」との動機からであった。それから二人は牧師による結婚準備会を経て結婚し、三人の子どもにも恵まれた。しかしその歩みは決して平坦なものではなかった。本人たちの言葉によれば「お互いに自己中心になり、神様から離れる生活へと流れ」、五年間、夫婦別々に暮らした時期があった。その間、家族を繋いだのは教会の交わりであった。日曜日になると共に礼拝に出席し、教会が家族の再会の場となった。多くの教会員が、この家族が再び一緒に暮らすことを祈っていた。やがてその祈りの聞かれるときが到来した。
ある主日礼拝後、正昭さんと京子さんは再び家族五人一緒に暮らすことの報告と、それを機に受洗志願を申し出ようと決意していた。奇しくも同じ日、牧師の方は二人に受洗の薦めをするよう示されていた。「啐啄同時(そったくどうじ)」二人は神の御業を深く覚えた。そして、冒頭の洗礼式へと至った。京子さんは「振り返ると、一つ一つすべてが、神様のご計画であることを思わずにはいられません」と神を讃美し、正昭さんは「妻は子どもたちと私のことを祈ってくれました。クリスチャン・ホームとなれたことを嬉しく思います」と主に感謝した。
現在、京子さんは教会学校教師として、正昭さんは賜物を活かして会堂管理営繕に奉仕、三人の子どもたちは教会学校やゴスペルグループで活躍中。ちなみにペンテコステの「ペンテ」は「五」。聖霊降臨により弟子たちは一つのキリストの体とされた。ペンテコステに五人が一つとされた出来事は意味深い。
部落解放センターでは、六月十七日~十八日、京都・ふれあい会館において一泊研修会がもたれた。
発題『部落解放センターの原点について』では、センター設立への歩みについて学ぶことができた。熱い闘争の原点は、差別に対する怒りであった。その闘いは時に激しく、それゆえに敬遠されることもあったであろう。しかし、私は「あなたは本当に怒っているのか」と問われていると思った。そこで何より求められているのは、他者の痛みに寄り添おうとするセンスであるだろう。
次の『センターが今問われていること』では、現状認識を共有することが課題となった。一九九八年の、日本基督教団常議員会・教団総会における同性愛者差別発言・文書以降、センターは差別と闘うための連帯の行動を起こすべきであった。しかし二〇〇二年には教団総会で性差別問題特設委員会、靖国・天皇制問題情報センターが廃止され、人権のための取り組みが後退させられる中で、やはり部落解放センターは連帯することができなかった。そして二〇〇六年に教団総会でまたもや同性愛者差別発言があった。そこでもセンターは闘えなかった。部落差別問題に関わる一人として自分の罪であることをおぼえる。今一度、私たちは襟を正して、差別のむごさを想起し、連帯の行動を起こさなければ、自分だけが救われればよいという偽善者である。イエスの福音は問いかける。イエスは十字架の死を賭してまで、弱い者の側に立った。それは体制側に憎まれることを引き受ける覚悟である。しかしそこに命があると主は示された。私たちには今、この主のみに従うことが求められているように思う。
冒頭と締めくくりには、当事者の話によって被差別の体験を共有した。差別というものがどんな形で人の生活を、幸せを侵すのか、その一例をうかがった。しかしまた同時に喜びをも分かち合い、希望を示された。豊かな研修会が与えられたことに感謝。
(川上幹太報)
七月二〇~二一日、関東教区四役に同行し、新潟県中越沖地震に遭った諸教会を訪ねた。
新井教会は今年七月に百周年を迎えた。記念事業の意味合いもあり、老朽化した会堂を大規模改修、真新しく綺麗にしたばかり。長く信仰生活の砦であった会堂への拘りから、外観等は旧来の姿を残した。そこを襲った大地震、十名に少し足りない会員・礼拝出席者は、会堂が心配で心が揺れ動いたと言う。「工事を決断していなければ、私たちは礼拝の場所を失っていました」。費用八百万円は、この人数には重い金額だった。しかし、豪雪に備えて建設された会堂は、地震にも耐えた。
新井教会を兼牧する森言一郎牧師は、地震の数十分後には、余震に脅える美樹夫人を高田教会に一人残して、ホテルでの結婚式へと向かった。「生活するためには、働かなければ」とは森牧師の弁。不安が極まった時、電話が鳴った。大宮教会で「教会間の連帯と宣教協力」をテーマに宣教協議会を持っていた関東教区からのものだった。教区は、この電話で、地震・被害の甚大なことを初めて知った。飯塚拓也副議長は、直後、車で直行した。「後で考えれば、不思議と電話も道路も通じた。もう一時間遅かったら、辿りつくことも出来なかった。宣教協議会で教区の幹部が皆集まっていたことで、即断し対応できた」。
その他のいち早い見舞いに、大いに慰められ、不安な時をやり過ごすことができたと、森美樹さんは感謝する。
他の機会に全く逆の話を聞いたこともある。「見舞客やら電話やらが殺到し、切羽詰まった仕事があるのに、少しもはかどらない。正直なところはありがた迷惑だった」。両方の感想とも当事者の本音。問われるのは、普段からの関係であり、信頼・連帯ということだろう。
訪ねた先々の教会に、関東教区独特の協力伝道推進のための「ナルドの壺献金」のポスターが貼ってあった。壺の表面に教区五県の地図が、土器の文様のように浮かんでいる。県境を表す線が、壺のひび割れのようにも見える。洪水、地震、豪雪、また地震、狙い撃ちのように関東教区を襲った災害、しかし、その度にひび割れが拡がるのではなく、むしろ、連帯・協力が強められている。
被害が甚大だったのは、柏崎市周辺。日本ホーリネス教団柏崎聖光キリスト教会は、建て直したばかりで別棟になっている牧師館を除き、礼拝堂も含め全壊した。「もし集会中だったらと思うと、むしろ感謝です。牧師館が残り、明日の礼拝も何とかできます」とは、たまたま研修会で留守をしており難を逃れた片桐宣嗣牧師。関東教区の訪問をも喜んで受け容れて下さった。
教団の柏崎伝道所周辺には、全壊半壊の家々が目立つ。会員のお宅も一軒が全壊したと聞いた。あまりの惨状に臼田宣弘牧師は、伝道所を地域のためにボランティアセンターとして提供することを即断した。新潟地区・関東教区が、この志の元に、柏崎市とも協力態勢を持ちつつ、運営委員会を設けて、活動を開始している。会堂は人と大道具小道具救援物資で溢れている。寝袋を使ってごろ寝でも九人が限界、これを超えた人数は、神学校とキャンプ場を併せ持つ新潟聖書学園が受けて下さることになった。ここでも教団・教派を超えた連帯が生まれる。未だ形が整わない先から、「教会さんなら何かしてくれる」と、支援を依頼してきた隣人もあったそうだ。
柏崎伝道所の建物には、やきもきさせられた後やっと、安全を意味する緑の紙が貼られた。立ち上げたばかりのセンターを閉じる危機は去った。電気は通じ、ガスも手当できる。しかし水がない。つまり、夜中も暗い道を歩いて仮設便所まで行かなければならない。ボランティアの方々の健康が支えられますようにと祈るばかり。
堀本 淳氏(江古田教会牧師) 四月七日、逝去。五五歳。東京都に生まれる。二〇〇四年日本聖書神学校卒業。二〇〇五年から江古田教会の牧師を務めた。遺族は妻の恵子さん。
田中徹夫氏(大阪九條教会牧師) 五月二九日、逝去。六三歳。東京都に生まれる。一九七七年同志社大学大学院修了後、新島学園高校に教務教師として赴任。その後、燕、三條、永山、東海、中目黒教会を牧会し、二〇〇三年から大阪九條教会の牧師を務めた。遺族は妻の悦子さん。
佐藤敏夫氏(隠退教師)
六月五日、逝去。八四歳。山形県に生まれる。一九五一年日本基督教神学専門学校卒業後、信濃町教会に赴任。その後本所緑星教会を牧会し、六〇年から九一年まで東京神学大学に神学教師として奉職。七五年から九九年まで中村町教会牧師を務め隠退した。遺族は子の純さん。
第六回「農」に関する活動者協議会は、六月二五日から二六日にかけて奥羽教区岩手県花巻市の土沢教会を会場に開催された。各教区などから四五名が参加した。
北紀吉伝道委員長の説教による開会礼拝の後、星野正興氏(松崎教会・南豆教会牧師)による主題講演が行われた。星野氏は、杉山元治郎、賀川豊彦などの日本農民組合運動開始の歴史から説き始めて、教会はどのように「農」に関わってきたか、どうして、教会は「農」に関わるのかを参加者と共に考える講演を行った。
伝道委員会は、機構改正(一九六八年)以前の「農村伝道専門委員会」が担ってきた課題を含めて「農」に関する事柄を委員会の重要課題としてきたのであるが、ここでいう「農」とは農業に限らず、神の創造に関わる食べ物、いのちをも含めてこれらを教会の宣教の課題としているものである。その意味で星野氏の講演は、御自分の教会における牧師としての働き・教会の経験を述べながら、その後に発題をされた田中洋一氏(八郎潟教会員、キリスト教農村伝道推進協議会会長)の発題と共に広く農村にある教会とその宣教のありよう、更には農村の生産物を消費する都会の教会の宣教のありようを問うものであった。
参加者は、会場から十五分ほどのところにある土沢教会員入江敦氏の農場「わらしべ農園」も見学させていただいた。
二日目は、主に全体協議を行ったが、地産地消の課題、「農」に関する活動者協議会の今後のありようなど話題は多岐に及んだ。
昼前の解散後、酒匂徹氏のパーマカルチャーによる農業実践を見学させていただいた。オプションのプログラムであったが参加者のほとんどがこれに参加した。 (山本光一報)
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