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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4636号】「教会教育セミナー」初開催へ 来年三月高知県で 教育委員会

2007年10月6日

第35総会期、第三回教育委員会が九月三日(月)、四日(火)の両日、教団会議室にて開催された。小委員会や委員が派遣されているそれぞれの委員会の報告の後、協議に入った。主な協議は教会教育セミナーとクリスマス献金及び二〇〇八年度台湾青年プログラムについてであった。
「教会教育セミナー」は今回初めて開催される。これまでは公開教育セミナーとして開催されてきたものの意図を、更に明確にするために名称を変更し、企画をより現場の教会教育の必要に近づけたく願っている。二〇〇八年三月三日(月)~四日(火)の日程で、高知の二つの教会を会場に予定している。主題は「主の業に召される喜び」講師は教育委員会の平田和子委員(吐田郷教会キリスト教教育主事)である。今回は教区教育担当者会も併せて開催する。前回は十六教区から参加があった。教育委員会としては全教区の参加を心待ちにしている。
今年のクリスマス献金は国内では、能登半島地震と中越沖地震の被害とアイヌ奨学金を覚え、海外はガーナとタンザニアでの教会の働きを覚えておささげいただきたいと願っている。今年は更に教会学校応援セットを加えた。これは教会学校の子どもたちのために、A聖書、讃美歌、B聖書物語や紙芝居、Cヒムプレーヤーを、A とBについてはセットにして贈るものである。詳しくは「みんなで生きよう」の趣意書を是非ご覧いただきたい。
「2008年度台湾青年プログラム」については、名称が「ユースミッション2008」に変更された。今年は台湾長老教会が開催する青年大会に教育委員会が窓口になり七名の青年が参加した。二〇〇八年は台湾の青年たちを教団が迎え「ユースミッション2008」として密度の濃い交流の時を持ちたく願っている。そのために実行委員会を組織する事を決定した。 三日の夜には今年の台湾での青年大会に参加した青年三名を迎えて報告会を持った。時間内では語り終わらないほどの熱気のこもった報告会であった。
(加藤誠報)

▼海辺の町で、漁師に素潜りを習った。シュノーケルも足ひれも着けず、ゴーグルだけ。全然駄目。波に浮かんでいる状態では、潜水の態勢さえ作ることが難しい。そこで腹まで波が届く岩場に立って、そこを根拠に、頭から潜っていく。一メートルも無理、身の丈ほども潜れない。頭は海に浸かっていても、足が空中に出ている。▼同じことを、何度も繰りしてから、彼が初めて問題点を指摘してくれた。飛び込む前に、肺活量の限りに息を吸い込んでいるというのだ。それでは、浮き輪を着けて潜るようなもので、絶対に無理だと言う。なるほど、息を吐き出して、浮力を少なくしなければならない。▼理屈では納得しても、これを実践するのは困難。どうしても、直前に吸ってしまう。これはもう、本能だ。何度か繰り返し、数メートルは潜った。しかし、息が苦しくなると、空気を吐き出す。つまり、未だ空気は残っていて全部吐き出してはいないのだ。▼全てを捨ててイエスに従うことの、困難を思う。胸の中の思いを全て吐き出さなければ、聖霊に満たされることは出来ない。

ヨハネによる福音書20章19~23節

遣わして下さるのは主 田中かおる

・「自分を知る」ということ

「自分を知る」ということは、人間にとってとても大切なことです。自分の何たるかがわからないから人はイライラする、とさえ思います。生き生きと生きられないのです。「自分を知る」とは、「自分の生の姿を知る」ということです。「生の姿を知る」ということは、あたりまえのようで、実はこれがなかなか難しいのです。
「自分を知る、すなわち自分の問題を知る」ということをテーマにした漫画を見つけました。この漫画は、アメリカ人による漫画で、犬が主人公、といえば、ピンとくる人も多いと思います。犬のキャラクターが、日本でもすっかりおなじみです。このシリーズの中に、興味深い四コマ漫画がありました。少年Cに対して、少女Lが、このC少年の問題の本質を鋭くついている、そういう四コマ漫画でした。それはこんな展開でした。
①少女Lは、「そもそも、あなたの何がいけないのか、知っている?」といきなり、少年Cの問題の指摘を始めます。
②ところが、少年Cは、「いや。でも知りたくない。ほっといてくれ」と怒ります。
③そして少女Lのもとを離れます。
④すると、少女Lは、「何がいけないか、聞こうとしないのが、そもそもいけないのよ!」と叫びます。…つまり、少年Cは、自分の姿を直視できない、自分にはみえていない問題がある(=罪)ということを認めることができない。そこを、少女Lは、鋭くついている、そういう漫画なのです。
実はこの漫画の作者は、熱心なクリスチャンです。作者は、この犬とその仲間たちの漫画を通して聖書のメッセージを語るということを使命としていた、といいます。
一方で、別な人が本を著し、この漫画の解説していました。それによりますと、この四コマは「どんな人の心にも『罪』がある。しかしそれを認めるのは難しい、という点を鋭くついている」とのことでした。自分には、自分で対処できない部分がある。自分には見えていない問題(=罪)がある。それを「知る」ということは、至難の業。難しいこと。しかし、それはとても大切なことであるのです。

・心の内側から鍵をかけて

二〇〇〇年前の主イエスの弟子達も、例外ではありませんでした。弟子達は、自分達の問題が一体何なのか、わからずに過ごしておりました。ヨハネ福音書20章19節によれば、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」そういう状態でありました。この時、弟子達は、既に、女性の弟子マリヤによって、自分達の主、イエスはよみがえって墓にはおられない、という、驚くべきニュースを聞いていたはずです。しかし、十字架で死んだ主イエスがよみがえった、ということを聞いて、弟子達は単純に喜ぶことができないでおりました。なぜでしょうか?…一つには、そんなことはあり得ない。あり得ないことをどう受け止めてよいのか、混乱していたことが考えられます。当然、といえば、当然の戸惑いと混乱です。もう一つには、「ユダヤ人たちを恐れて」と、わざわざ書いてあるように、主イエスを十字架にかけて殺したユダヤ教指導者達の追求を恐れていたことが想像できます。主イエスがユダヤ教指導者達によって捕らえられてからというもの、この弟子達は、誰一人、主イエスの弟子であることを公言できずに、指導者達からも民衆からも姿を隠していました。弟子である、ということがわかってしまうことを恐れていたのです。ですから、よみがえったと聞いても、そうやすやすとは人前にでてなど行けなかったのだと思います。人前にでるどころか、家に内側から鍵をかけて、息をひそめていたのです。
弟子達は、主イエスの弟子となって主イエスと行動を共にしている時には、こんな情けないことになるとは、夢にも思っていなかったことでしょう。「私に従ってきなさい」というお言葉にそれまでの職業をそれぞれ捨てて従った者達。「あなたの為なら命を捨てます」と断言した者。主イエスが栄光をお受けになる時には「どうぞ、私たちを左右に座に座らせてください」と申し出た者達。自分達の中で「誰が一番偉いか」と議論した者達…そういう弟子達であったのに、今は、ただただ、恐ろしくて、自分達の心の内側から鍵をかけて息をひそめて成り行きを見守っていることしかできない。それまでは自分達がそういうことになるとは、誰も想像できなかったに違いありません。順調な時には、自分の問題が見えていなかった弟子達です。自分の生の姿、自分の問題など、気づけなかった弟子達です。主イエスの弟子集団として、時には主イエスに遣わされて病いを癒し、意気揚々として神の国の福音を宣べ伝えていた…そういう最中には、自分達の問題に気づけなかったことでしょう。あの漫画にでてくるC少年のように「何がいけないのか、聞こうとしない」弟子達だったのです。
それが、今、弟子達は底知れない挫折感と無力感、罪悪感の中に突き落とされている。自分達の罪におののいている。鍵をかけている、とはそういう状態を意味するのです。(…そして、この弟子達は、私達の問題をよく表しております。)
しかし、そのまっただ中に、主イエスは、入ってきてくださいました。鍵をかけて真っ暗闇の中にいる弟子達の中に、主イエスの方から入ってきてくださいました。そして、「平和があるように」とおっしゃってくださり、十字架の傷痕である手と脇腹を弟子達にお示しになりました。弟子達は、それをみて喜んだ、といいます。主が弟子達の裏切りを責めるのではなく「平和があるように」と神が共にいてくださることの宣言をしてくださり、弟子達はもはや、恐怖におののく者ではなくなっているのです。罪赦されて、神が共にいてくださることを喜ぶ者とされたのです。変えられた弟子達がここにいます。自分の問題、すなわち「罪」に気づけなかった者達が、自分の罪に気づかされ、しかし罪赦されて、深い闇の淵から立ち上がることができて、ここにいるのです。
その弟子達を主イエスは「わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃって息をふきかけ、罪を赦す権限をお与えになります。この弟子達は、弟子とされた者たちの群れ、すなわち教会を意味しているのです。

・遣わして下さる主によって

二〇〇〇年前の弟子達に起こったこの出来事は、今も、礼拝の度毎に起こっています。自分を知る、自分の問題に気づくのに疎い、そういう私達。そのことの故に内側から鍵をかけてしまっている私達。復活の主イエスは、その私達のただ中に入ってきてくださり、私達を罪から解放してくださいます。そして、私達を遣わしてくださるのです。この世へと。
自分の問題に気づかされた者として、罪赦されて新しく生かされた者として、私達をこの世へと遣わしてくださるのは、主です。遣わしてくださる主によって、この一週間も、一人ひとりに与えられている使命に生き切りたい、と願います。   (安行教会牧師)

2007年9月22日

六月に、ある温泉街の外れにある教会の礼拝に招かれた。
少し前の四月に伺ったのは、急逝された牧師の前夜式で、当然ながら重苦しい雰囲気であったが、それらのことは完全ではないにしろ、相当乗り越えられた様子。
婦人長老の司式で、奏楽はなく、ヒムプレヤーでの讃美歌で、この日の礼拝には十三名の出席(前年度平均は六名)。ある長老が「牧師が召されたので、自分たちで教会を守らねば、という思いになったのです…」と少し恥ずかしそうにおっしゃった。
召される直前の牧師が、教区総会資料の教会現状報告で「数える指が痛むような少人数の教会だが、熱心に聖書に取り組み、読後感想を語る姿に年齢の影は消える。高齢者二名が召天したが、とられた主の御旨に委ねて摂理に頼むほかはない。教会は、農村の中の温泉街という厳しい状況に、なお立ち続けている」と記しておられる。
この牧師は、神学校を卒業後、この教会に赴任されて十七年。自分の仕える教会を「数える指が痛む…」と文学的な表現で表されたが、そのような厳しい状況の故か、十七年の伝道者の歩みの中で、一度も洗礼式を執行することなく召されていった…。
遣わされた教会の地域や環境等で、牧師の活動内容が様々になるのはやむを得ない。それにしても召命に応え続けることは、本当に困難なことであったと思わざるを得ない。
(教団総会副議長 小林 眞)

全国教会婦人会連合委員長に就任した

高齢化や若年層の空洞化はどこの教会でも直面している課題で、全国教会婦人会連合も例外ではない。成松さんによると「婦人会がなくなっている教会もある」という。その名が示すように教会婦人会の連合組織なのだが、教区によっては暫定的に個人としての加入を考慮せざるを得ない状況に立ち至っている。
「婦人会離れ」という言葉も耳にするようになった。成松さんは、その理由として「有職、趣味の多様化、介護」を上げ、教区、教団などへの関心が薄く、婦人会連合でも委員の成り手が少ない現状について、「自分の教会で満足している人が多いのではないか」と感じている。
婦人会連合に関わって二〇年になる成松さんは、「いろいろな集会、勉強会の場で他教会、他教区の人たちから多くの刺激、喜び、励ましを受けて来た。合同教会の難しさではなく、素晴らしさを知って欲しい」と願っている。
組織、財政の見直しを進める教団の中にあって、05年度から婦人会連合への教団交付金(04年度七〇万円)が打ち切りになった。その不足分を、「教会婦人」紙代値上げ、自主献金増額によって乗り切る対策を立てたが、06年度は自主献金増によって乗り切ることが出来た。
教団の状況を反映してか、九州、西中国教区が教区婦人会連合を解散し、離脱したまま修復出来ていない。「個人的にはコンタクトを取っている。いつの日か連帯出来ることを願っている。どの教会でも三分の二は女性。教会婦人がしっかりと連帯することが何よりも大切」と成松さんは持ち前の明るさでひるんでいない。
婦人会連合の基本姿勢の一つ、「個教会に仕え、全体教会に仕える」に加え、成松さんは「しなやかに、たおやかに、したたかに」を自らのモットーとして、さ来年の四〇周年記念事業、幕張メッセでの一七〇〇人全国集会に向かって準備を進めている。

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