ヨハネによる福音書3章16~21節
愛の派遣 小林克哉
*独り子をお与えになられる犠牲こそが
今からおよそ二千年前、ユダヤのベツレヘムの家畜小屋でイエス・キリストはお生まれになられました。御言葉は、クリスマスとは「神が御子を世に遣わされた」ことだと告げています。滅びに向かう世を救うため、神が御子を世に派遣されたことこそ、クリスマスという出来事の真相なのです。
ある時、お子さんが病気になっている方が私に言われました。「代われるものなら、代わってやりたい」。それが親の心でしょう。もしわが子を犠牲にしなければならないとしたなら、それはわが身を犠牲にすること以上に辛く厳しいことです。親と子を結ぶ愛の絆が深ければ深いほど、強ければ強いほど、そうなのではないでしょうか。
神は永遠において父であり、子であり、聖霊であられるお方です。ご自身において完全な交わりをお持ちになっておられます。御父と御子との愛の絆は深く強く完全なもの。御子が、「渇く」と十字架で叫ばれた時の御父の心を想像します。「代われるものなら、代わってやりたい」と思わない親がいるでしょうか。完璧な愛を持つことのできない人間の親がわが子のことで苦しむなら、御父の苦しみは私たちの想像の及ばぬものです。私たちの罪を赦し、永遠の命を与えるため、御父は御子を世の罪を取り除く神の小羊として十字架の死に渡さなければならなかった。
ある人が愛を測る方法について語っていました。「愛はその払った犠牲の大きさで分かる」というのです。十字架に示された神の愛の大きさは、すでにあの日に示されていたものです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。
御言葉は、クリスマスという出来事が起こった理由をはっきりと語っています。神は「独り子を信じる者が一人も滅びない」ことを望まれたのです。神が世を愛されたから、二千年前にあの出来事が起こった。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」。神の目的はこの一点です。クリスマスは世が救われるためのもの。
「独り子を信じる者が一人も滅びない」ことを望まれる神は、世が救われるため、御子をご自身から引き裂き世に遣わされたのです。クリスマスにおいて神は天でご自身を引き裂かれる経験をなさったのです。そのことは、すでに十字架の始まりであったと言ってよいのではないでしょうか。
独り子をお与えになられるという犠牲こそ、御子の派遣というクリスマスの出来事なのです。そこに神の愛が示されています。
*何もないところから神の偉大な御業が
数年前、呉平安教会は伝道開始・教会創立百周年を迎えました。よくぞ何もないところに来て伝道し、教会を建てようと思ったものだと、宣教師が遣わされて来た出来事を感嘆の思いで振り返りました。
私たちは、二〇〇九年にプロテスタント伝道一五〇年を記念する時を迎えようとしています。改めてこの地に福音を伝えてくださった宣教師たちの働き、その背後にある諸外国の教会の祈りを思い起こし感謝したいと思います。愛する故郷や慣れ親しんだ教会に別れを告げ、心通い合う交わりから引き裂かれるようにして、宣教師たちは多大な犠牲を払ってこの地に遣わされて来たのです。そこには、この地に住む者たちが救われることを祈り求める愛がありました。
昨今、日本の教会の将来について危惧する言葉が聞かれます。しかし考えてみると、一五〇年前、この地には福音の伝道者もいなければ、生ける真の神を信じる信仰者もいませんでした。日本語の聖書も、勿論教会堂やオルガンもありませんでした。
しかしその何もないところから神の偉大な御業が始まりました。「独り子を信じる者が一人も滅びない」ことを望まれる神は、ミッションボードや教会によって宣教師たちを派遣し、この地に住む人々に福音を伝え、教会を建てられたのです。
数年前、分区のご用をさせていただいていた時です。実質四名の信徒が力を合わせ教会の維持に尽くしておられる教会がありました。その教会員、しかも健康を害していたご高齢の教会員が「この町から福音の灯火を消してはならない」と言われ、必死に頑張っている姿に触れました。心動かさずにいられませんでした。
これからいろいろな所で伝道所の閉鎖、教会の解散や合併が進んでいくかもしれません。私たちは伝道の喜びと共に、伝道の困難をも知っています。しかし私たちには信仰が与えられています。私たちは、何もないところから神の偉大な御業が始まることを知らされているのです。
クリスマスの出来事がまさにそうです。イスラエルの歴史は、人間がどんなに努力しても自分では救いを勝ち取ることができないことを証明していました。地上には人間が救われる可能性は何もありませんでした。しかし何もないところから神の偉大な御業が始まりました。私たちには何もないかもしれません。しかし神にはそんなことは関係ないのです。神は「独り子を信じる者が一人も滅びない」ことを望まれたのです。滅びに向かう世を救うため、神は御子イエス・キリストを世に派遣されたのです。そこからすべてが始まったのです。私たちにはクリスマスを信じる信仰が与えられています。
*神がなぜ私をこの地に遣わされたのかを
今年もクリスマスを迎えました。きらびやかな飾り、楽しげな歌、教会が一年で最も慌ただしくなる季節。神学校卒業と同時にこの地に遣わされて来て十一年目、慌ただしい毎日の中で、神様がなぜ自分をこの地に遣わされたのかを忘れていないか、自分は大切な何かを失っていないだろうかと自問します。私もまた、この地に住む人たちが救われることを祈り求める愛をもって仕えて行きたい。
クリスマス、神がなぜ私をこの地に遣わされたのかを思い起こさせてくれる時です。
私には何もありません。十一年間で知ったのは自分の無力だけです。しかし、神にそんなことは関係ありません。いつでも何もないところから神の御業は始まるからです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」「独り子を信じる者が一人も滅びない」ことを望まれる神が私たちを遣わされるのです。
(呉平安教会牧師)
あるキリスト教ジャーナリズムの統計発表によると教勢の低下等に伴う教会の多くが閉塞感を招いていることと、その要因ベスト8を挙げていた。
①信仰の弱体化。②教職の交代と無牧。③社会、環境の影響。④教会の体質の問題。⑤教職の質の問題。⑥高齢化。⑦霊性の低下。⑧社会との遊離、乖離。
さらに閉塞感をもたらす「減少」の現象ベスト6を列挙していた。
①新来者。②青年。③教会学校。④受洗者。⑤礼拝者。⑥献金額。
これらはどこの教会でも共通している問題であろう。「クリスチャン情報ブック二〇〇八」によると全国のプロテスタント教会、伝道所は前年より五九増加し、初めて八千の大台を超えたものの教勢は低下、この減少ベスト6に歯止めがかからないことが報ぜられていた。
わが教団も傾向を同じくしているであろう。しかし、だからといって閉塞感を感ずるというのは別問題だろう。昔から教会は閉塞感を感じる只中で、福音の真理に立ち、聖霊の導きを信じて伝道し教会を形成してきたはずだ。
教団の閉塞感とはむしろ先に挙げた要因ベスト8以外のところにあるように思えてならない。
それは同じ信仰告白と信仰のルールに立たない不一致の横行からもたらされるように思える。
信仰告白、教憲教規に立つ者を頑迷な原理主義者呼ばわりされる状況からくる閉塞感を打破したいのだが。
(教団総会議長 山北宣久)
好きな言葉は、「悔い改め」「あしたのために」「楽しい生活」「共に生きる」。嫌いな言葉は、「後悔」「あなたのため」「やればできる」。
紆余曲折を経て九〇年に神学校を卒業し、日本福音ルーテル教会の牧師となり、〇四年に教団に移ったが、牧師としての生活も紆余曲折だった。
岡山時代、心臓病が悪く、教会員の医師から「あと五年の命と思ったほうがよい」と言われたが、予測は幸いにも外れた。釜ヶ崎で本田哲朗神父と出会い、自分がキリスト教の信仰に惹かれていたのは、メタノイア(悔い改め)であったことに改めて気づかされる。「あした」を見つめて精一杯生き、「後悔」はしない。「あなたのため」でなく、「共に生きる」労苦を味わい「やってもできない」事実に直面しながらも、それを超えた「楽しさ」に生きる。イエス様もそのために来られたと信じる。これがからだに染み渡り、今に至る信仰生活の基盤となった。
松山では、精神障害者小規模作業所に施設長兼指導員として従事し、この頃、教団への移籍の転機が訪れた。松山古町教会の副牧師として一年余り奉仕した後、新天地で「一から」いや「マイナスから」始める思いで、小豆島の内海教会へ赴任した。礼拝への出席者は、自分たち夫婦と四人の子どもたちの他、数名。「過疎の地で、ひっそりと始めよう」と思っていたが、教区の集会などで度々紹介され、かえって目立った。
昨年から「ブログ」を書き始めた。教会員は高齢で、読む人はいない。しかし「教会の敷居が少しでも低くなれば」「一般の方に読んでもらえて、底にある信仰を感じ取ってもらえれば」と願って毎日記す。「ブログ、楽しみに読んでいます」と言われるようになり、「カゼをひいた」と書いたら、高松に住む人が見舞いに来てくれた。
ひっそり始めた歩みだが、確かなつながりを広げていることが嬉しい。
★在日・日・韓キリスト青年共同研修プログラム/時=08年2月25日(月)~3月1日(土)/所=韓国(ソウルおよびその周辺)/内容=①日本軍「慰安婦」問題より学ぶ②北朝鮮と韓国の分断の痛みを知り、統一にむけた動きに学ぶ/参加費=2万円(韓国の航空代金は自己負担、参加費・交通費共に補助あり)/主催・問合せ=日本キリスト教協議会(NCC)関西青年協議会、担当:小笠原TEL090-4296-3179、e-mail:oga-503@angel.interq.or.jp
本所緑星教会では、数十年にわたり、秋にバザーを開催してきた。収益はこれまですべて対外献金となる。今年(九月三〇日開催)は、「中越沖地震被災者救援」「日韓アジア基金・日本(カンボジアの子どもたちに学校を)」の二箇所に送られる。
このバザー、教会員の高齢化などにより、年々担い手が少なくなってきている。そんな中で、考えられたのが地域の方々が参加する企画であった。昨年より、教会最寄り駅の一つ「JR錦糸町駅」近くのインド・バングラデシュカレー屋の「バスモティ」(店名)の屋台が出るようになった。写真の中央は店長のソヨド・ヌルル・アミンさんである。
アミンさんはイスラム教徒で、京成線の「お花茶屋」近くにあるモスクで礼拝をささげている。キリスト教会のバザーにイスラム教徒が参加すると地域では評判になり、多くの方々がバザーにやってくるようになった。ある方は、「キリスト教国アメリカはイスラムと仲が悪いが、本所緑星教会では違いますね」と言ってくださった。バザーを通して世界平和とは大げさかもしれないが、地域から、大切なことを発信できればと願っている。
今年はまた、教会の近くの歯医者さんが、「無料歯科検診コーナー」を担当してくださった。
天気は雨であったが、わざわざ多くの方々が足を運んでくださった。来年以降も「地域参加型バザー」を盛り上げてゆきたい。
(矢吹一夫報)
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