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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4642・43号】荒野の声

2008年1月26日

▼映画『三丁目の夕日』を独りテレビで観た。以前にもビデオで観ている。所謂団塊の世代が少年少女だった時代が舞台になっている。ティッシュ一箱を用意していて正解だった。泣けた。▼三〇年以上前、神学校の友人がこの原作漫画にはまっており、週刊漫画誌から切り抜きファイル製本していた。当時にして既に、一〇年から十五年過ぎたレトロな世界を描いた郷愁味溢れる漫画だった。ほのぼの、しみじみ、勝れた漫画だとは思ったが、勿論泣きはしなかった。▼今、漫画が舞台とする時代と、漫画を読んでいた時代と、二重に懐かしい。愛おしくて涙が滲む。▼二〇〇八年という年も、嬉しいことが待っていれば勿論のこと、逆にどんなに辛い出来事が重なろうとも、二〇年後、三〇年後(は難しいか)には、きっと懐かしく愛おしく、思い出すだけで涙誘われる年になることだろう。そういう掛け替えのない年であることを覚えて、一日一日を過ごして行きたいものだ。▼続編の映画が、現在大ヒット上演中と宣伝されている。しかし、映画館にはティッシュの箱を持っては行けない。DVDになるのが待ち遠しい。

マタイによる福音書 4章1~11節

誘惑を受けられる主 山北宣久

新しい年を与えられた。「新年や またうかうかの初めかな」とならぬよう、主の赦しと忍耐と期待とによって与えられている日々を生かし切って行きたい。
今秋第36回の教団総会を迎える。未受洗者配餐問題をめぐって揺れる教団は多様性を大切にするがゆえに何によって一致する教会なのかが決定的に問われることとなろう。議論とともに決断をもって課題に向き合って行く迫りを感じさせられる。

*初詣

正月三日間でまた九千万人を越える人々が初詣に行ったというニュースが報ぜられるであろう。この人数に新年礼拝参加者が加えられていないことだけは確実だが、いろいろ考えさせられる。
初詣・神社仏閣で祈る人々は何を祈るのだろう。恐らく自分の幸福、安全、繁栄、成功、せいぜい拡げたところで家族の幸いであろう。初詣には隣人が欠落しているのではないか。
ここにクリスマスと初詣の違いが浮かびあがる。人々の救いと世界の平和を祈り、自分の幸福から共なる恵みへ愛を与えられて向かうのがクリスマスであろう。自己愛を表出する初詣、隣人愛を深めるクリスマスこの差が存在する。

*誘惑

しかし、私たちとて自己中心、利己主義、自分を絶対化する傾向はすぐ襲い来たるを知っている。
神を第一とする生き方を旨としながら、自分を主とする対し方をとろうとする、ここに誘惑が存在する。
この「誘惑」の問題が新年最初のみ言葉として与えられる。これが教団の聖書日課として臨むことは何ともふさわしい。それは、私たちは何を第一として、生き歩むのかが根底から問われるからである。
「さて、イエスは悪霊から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」
バプテスマを受けられた主はすぐに誘惑にさらされた。しかも自分の意志ではなく、霊に導かれてそうしたというのである。
このことは象徴的だ。何故なら、バプテスマを受け神のみこころに叶った道を歩もうとする時、そうはさせまいとする悪魔の力が猛然と働くからだ。
ヨーロッパの諺に「神がchurchをつくる時、悪魔もその傍らにchapelをたてる」とある。
神に従おうとする時、必ず悪魔もついてくる。激しく闘う人ほど誘惑にさらされるということがいえるのだろう。Liveを反対から読めばEvilとなる。生は悪と背中合わせなのだ。
主イエスがバプテスマを受け水から上がられた時「天がイエスに向かって開いた」という。(3章16)そしてその直後、僅か二節のちに地獄が開けたのを見るのだ。
天の高い所を知る人は、また同時に地獄の深い所をも知らねばならぬのだろう。そうした意味で、主イエスは悪魔の誘惑と直面させられねばならなかった。

*三つの誘惑

主の受けられた三つの誘惑は大胆な言い方をすれば口と目と手の誘惑と表現できるのかも知れない。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(4章3)
これは口の誘惑である。民衆の物質的要求を満たし、口からのパンをいつも備え、人心を引きつけたら、皆喜んで迎えてくれるだろう。これは自信過剰型キリスト者なら、すぐに乗りそうな話だ。
次に「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言った。(4章6)
これは「目の誘惑」である。民衆は派手なスペクタクルショーを好む。イエスが見た目も鮮やかなショーまがいの姿を見せるなら人とは拍手喝采、神の子と認めるだろう。これは熱狂信心型キリスト者なら、いかにも乗りそうな話だ。

更に悪魔は「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」と言った。(4章9)
これは「手の誘惑」である。権力、繁栄、そして人をも手に入れ治められるなら、メシア、救い主として迎えよう。こんな在り方は現世利益型キリスト者は乗りそうな話である。
口、目、手の誘惑、これらはもしあなたが神の子ならといってなしたものだが「神」と「子」を引き裂き、神の子をして偶像の子にしてしまう点にポイントがある。
私たちもバプテスマによって神の子とされながら、口と目と手を欲望達成のために行使すべくひきずられ、結局は偶像の子とさせられてしまう、ここに誘惑が存するのだ。

*神の言葉

悪魔の巧みな、ギリギリの線をついてくる誘惑に対して主はみ言葉をもって厳しく対応された。
ルターはこの箇所を誘惑というより「攻撃」としている。信仰は信仰、現実は現実と分離させ、絶対的な神との関係を相対化させ、骨抜きにしようと攻撃をしかけてくる。
こうした攻撃に対し、主は議論をもって応じられなかった。申命記8章3、申命記6章16、同じく申命記6章13の神の言葉を直截的に語って退けられた。
悪魔がみ言葉を不正に引用し、強引に時には巧妙に自分を神の座につけてしまう歪曲、神が主語であるべきところを自分を主語としてしまう在り方へと変えてしまうことに、正しくみ言葉を主は語り、悪魔の攻撃を退け、誘惑に勝利されたのだ。
神の言葉を以って垂直の線、タテ軸をはっきりさせる。ここに人間中心主義、ヒューマニズムとの混同から脱する道が開かれる。
ところで主は何のために誘惑にさらされたのであろう。それは私たちのためであったことをこそ確認しておきたい。
様々な誘惑にさいなまされ、悪魔の攻撃にさらされつつ生きざるを得ない私たちのために、主イエスご自身、誘惑を受けられたのである。「その誘惑は私も受けた、そしてあなたのためにその誘惑に勝ちをおさめておいた。恐れるな、私はあなたと共にいる。」こう言って悪魔の誘惑のさなかにてこそ私たちと出会い、支え給うのである。
「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
(ヘブライ2章18)
私たちのために勝利の道を招いてくださった主イエスにあって進み行こう。
「試みにあわせず悪より救い出し給え」と祈りつつ。
(聖ヶ丘教会牧師・日本基督教団総会議長)

2007年12月22日

2007年11月13日

日本基督教団
総会議長 山北宣久
同    常議員会

かつての冷戦時代は、ある国が強力な軍事力をもって支配し、ある種の平和を保とうといたしました。それは古代社会のローマ帝国支配から「パクス・ロマーナ(ローマ式平和)」とも呼ばれました。しかし、真の平和はそのような軍事力では作ることはできません。それらは逆に緊張と不信を生みだし、お互いの生命を脅かすものでしかありません。
現在、ブッシュ政権(米軍)は、「世界規模のテロ」や「大量破壊兵器」などの「新たな脅威」への対抗という名目で、先制攻撃戦略を考え、軍事力を効率的に行使するために、世界的規模で<米軍再編成>を推し進めています。
この再編計画には、世界のどこにでも先制攻撃を迅速に展開できる機動的な軍隊配備と、共に戦う同盟国との軍事協力を確認するという両面があります。
この再編成構想には、当然、日本も組み込まれており、憲法改正を視野に入れた、自衛隊と在日米軍との一体化を図る再編であり、到底許すことはできません。
私たち日本基督教団は、これまでも憲法第九条を遵守し、「戦争は行わない」姿勢であることを、声明などを通して明確にしてきました。これは、かつての忌まわしい戦争の深い反省に立つだけでなく、私たちの信じる主キリストが、「剣を持つ者は、剣によって滅びる」と教えられたからです。
これらのことにより、私たちは、米軍再編成という計画に強く反対し、日本から米軍基地をはじめ、戦争に加担する軍事施設など、一切が撤去されることを強く求めます。

「荒野の40年」を経て

松本さんはいわゆる団塊世代ピークの生まれである。父親がクリスチャンで、教会付属幼稚園に入り、教会学校にも通った。高校生になり、主日礼拝に出席し、兄姉の真剣に礼拝を守る姿に接する中で、聖書から「原罪」を問われ、キリストの贖罪を示され、受洗へと導かれた。
そのうち心の奥底に「伝道者献身」の思いを持つようになった。しかしそれが「召命」か、単なる憧れや願望なのかを見極めるべく、幅広い教養科目を学べる大学に進学した。その頃「学園紛争」が激化し、卒業時には「教団紛争」という事態も出現、そのような状況を乗り越える「牧師像」を明確に描けず、自分が牧師になるよりも、牧師を助けて教会を守るために命をかけることのできる信徒であろうと決心した。礼拝生活が守られ、教会奉仕のできる職業を希望し、民間企業の研究所に就職した。
またこの時期に結婚し、長男も与えられた。やがて主の不思議な導きで妻と息子に信仰が与えられ、クリスチャンホームとされた。
やがて高度成長が行き詰まり、日本経済が大きく低落する中で、松本さんは人々の窮乏を目の当たりにさせられた。自分さえよければよいと、自分の欲望を満たすことだけを追い求め、実は自分をも見失ってしまっている同時代人、この影響を受けた次世代の若者たちに、本当の命と希望の根源である方を伝える伝道の急務を実感させられた。
その思いはアジアキリスト教教育基金(ACEF)の活動に参画するようになったことを通しても強められた。祈りの中で御心を問うようになったとき、主の呼びかけが明瞭に聞こえてきた。
現在、松本さんは主の最初の呼びかけを聞いてから「荒野の四〇年」に相当する準備期間を経て、伝道献身者として立てられるべく、神学生としての奉仕と研鑽の時を備えられている。

二〇〇七年十一月一日、東京YMCA早天祈祷会は七〇〇回目を迎えた。午前七時、山手YMCA(西早稲田)に五〇人が出席して行われ、木村利人氏(恵泉女学園大学学長)の「新しい天と新しい地」と題する奨励があった。木村氏は次のように証しした。高校で受洗した時、記念に戴いた聖書の表紙の裏に「新しい天と新しい地」の聖句が書かれていた。まさに洗礼を受けたそのことが、自分にとって新しい天と新しい地であったと、自らの歩みを語った。
フィリピンのワークキャンプがきっかけで生まれた歌「幸せなら手をたたこう」は、詩篇四七から導かれ、神によって生かされている幸せを態度に示そうよと歌った経緯を明かした。
奨励の最後に木村氏は、光の子として態度に示し、一回限りの人生を、いつも新しい天と新しい地に生きることを目指しつつ、共に主にあって歩んで行こうではないかと、力強く結んだ。
この東京YMCA早天祈祷会は一九二二(大正十一)年十月から始まった。赤煉瓦の神田基督教青年会会館、当時の社交室に毎週日曜日朝六時半に集まる数人の祈祷会が始まりである。
一年後関東大震災。美しい会館を失う。焼け跡で熱心に祈る。死者を移し集め、飲み水を配る。賀川豊彦が神戸YMCAから救援物資をもって駆けつける。賀川指導のもと、救護活動と共に大早天祈祷会へ。時には二百数十人を数えた。
一九二九(昭和五)年復興した会館屋上の礼拝堂が祈祷会にあてられ、小崎道雄などの指導があった。
やがて、太平洋戦争勃発、世界YMCA同盟からの脱退、戦局厳しさを増す一九四四年末まで、祈りの灯は絶えることはなかった。
戦後一九四九年、GHQによる会館接収解除の翌七月一日、青年有志一八人が立ち上がった。早天祈祷会の再開である。以来毎月一日とし、五八年を経て七〇〇回目のこの日を迎えた。
毎年十一月にはYM・YW合同祈祷会がある。在日韓国YMCA共々、新たな祈りの輪が広がっている。
(鈴木功男報)

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